第5話 水野 遥
夜、部屋の明かりを落としてノートパソコンを開いた。
登録チャンネルからお隣の直樹さんのチャンネルがすぐに出てくる。新しい動画が一本アップされているのが分かった。
再生すると、冒頭はいつものドローン映像。八ヶ岳の稜線を背景にしたオープニングは、何度見てもきれいだと思う。けれど今日、私が見たいのはその先だ。
動画は離れの柱を補強する作業の記録だった。
腐った部分を切り落とし、新しい木材をほぞ継ぎで組み合わせていく様子。真剣な顔の直樹さんが、ノミやインパクトを使って少しずつ形を整えていく。粉だらけになっても、どこか楽しそうに見えるのは不思議だ。
ふと画面の揺れ方に見覚えを感じた。
「あ……」
気づいた。カメラを手に持って撮影した時の映像だ。私が三脚から外して追いかけたあのアングル。
直樹さんが床板を打ち付ける手元を追いかけて、少し震える画。自分が撮った場面が、動画の一部になっている。
胸の奥がほんのり温かくなった。
ちょっとしたことなのに、まるで自分もこの家を直す作業の一員になれたみたいだった。
高校1年生の夏、もう7月になってしまったが、学校に行く気持ちはすっかりなくなっていた。
勉強して進学しても、あるいはどこかに就職しても、そのために松本や長野、あるいは東京に出ることが本当に幸せなのか分からない。自分がどうしたいのかも分からない。
ただ流されるように日々を過ごして、気づけば窓の外ばかり見ていた。
でも今、こうして映像に自分の視点が混ざっている。
木屑の匂いも、トントンと響く音も、確かにそこにいた自分が撮ったものだと思うと、不思議な高揚感が広がった。
――楽しい。
その感覚を思い出すのは、ずいぶん久しぶりだった。
この先も、直樹さんの作業を見ていたい。
ただ眺めるだけじゃなくて、撮影も、掃除も、できることを手伝ってみたい。
そう思っている自分に気づいて、私はモニターの光を浴びながら小さく笑ってしまった。
翌日の昼、珍しく母が早めに帰ってきた。農協の仕事が休みで、珍しく台所に立って昼ご飯を用意してくれていた。
土鍋から立ちのぼる味噌汁の匂いが、家の中を温かく包んでいた。いつもはコンビニのパンや残り物ばかりだから、こんな昼食は久しぶりだ。
「さあ、食べよ」
母は笑顔でそう言ったけれど、私はどうしても昨日のことを話したくて、箸を持つ前に口を開いた。
「ねえ、母さん。お隣の直樹さんのチャンネル、見たんだよ」
「チャンネル?」
母は不思議そうに首をかしげた。
「ネットの動画だよ。DIYしてるの。ほぞ継ぎとかっていうやつで……わたし、ちょっと撮影とかも手伝ったんだ」
言ってみると、胸の中が少し弾む。自分でも気づかないうちに声が明るくなっていた。
母は最初、へえ〜と笑いながら頷いてくれた。
「そうなの。手伝ったの? 偉いじゃない」
でも、次の瞬間、母の笑顔がわずかに曇った。
箸を置き、まっすぐに私を見つめる。
「……でもね、遥ちゃん」
その声音は、叱るのではなく、心から心配している響きだった。
「田原さんは大人の男性なのよ。あんたはまだ高校生の女の子。昼間、家にお父さんもお母さんもいないときに一人で訪ねて行くのは、母さんは正直あまり賛成できないな」
胸の奥に、冷たい氷のかけらが落ちたような感覚がした。
「……なんで? 直樹さんは、別に変なことする人じゃないよ」
声が少し震えた。
母はすぐに否定はしなかった。ただ苦しそうに言葉を探しながら続けた。
「それは分かってる。母さんだって、あの人が悪い人だなんて思ってない。でも……世間はそういうふうに見たりするの。村は狭いし、噂はすぐに広まるものよ。女の子が一人で男の人の家に通ってるなんて言われたら……むしろ田原さんにご迷惑をおかけしてしまうかも知れない」
私は唇を噛んだ。
「……楽しかったのにな……」
ようやく見つけた、小さな居場所だった。木の匂いの中でカメラを持って、少し役に立てた気がして。昨日はほんの少しだけど「嬉しい」と思えたのに。
母は困ったように微笑んだ。
「分かってる。遥がそう感じてるのも分かる。でも……母さんには、そう言うしかないの」
言葉は優しいのに、胸には重い石を押し込まれたようだった。
せっかく、久しぶりに“楽しい”と思えたのに。
それをまるごと否定されたみたいで、心の奥から力が抜けていく。
湯気を立てる味噌汁が、目の前にあるのに。
箸を手に取っても、喉が固くなって通らなかった。
母の横顔を見ながら、私は胸の中に広がっていく灰色の感情に、ただじっと耐えるしかなかった。
夕方、国道141沿いにあるコンビニ裏手の駐車場に腰かけていた。
アスファルトの上に沈む日差しがじんわり熱を帯びて、セミの声が間断なく響いている。
「……で、母さんにそう言われちゃった……」
コンビニで買った麦茶のペットボトルを両手で握りしめながら話すと、美和さんはいつものようにタバコに火をつけた。紫煙がゆらゆら揺れ、オレンジ色の夕日に溶けていく。
「なるほどねぇ」
ふうっと煙を吐きながら、気の抜けた声で言う。
「まあ、そりゃ親からすりゃ心配だろうね。大人の男のとこにふらふら通ってるなんて、話が広まったら、本当面倒くさいし」
美和さんはジャージの裾をぐっと引っ張り、足を投げ出した。コンビニの制服の上に羽織っただけの適当な格好。それが彼女らしかった。
「でもさ、あんた、本気でその“直樹さん”のとこ行きたいわけ?」
唐突にそう言われ、私は俯いてしまう。
「……うん」
少し間を置いてから、頷きながら小さな声で答えた。
「なんかね、チャンネル見てて思ったの。直樹さん、毎日淡々と作業してて……電ノコの音とか、トントンって柱を叩く音とか、ぜんぶ自分の手で少しずつ変えていくのが、すごく面白いんだよ」
言葉を続けながら、胸の奥がじんわり温かくなるのを感じた。
「動画に自分が撮った部分が混ざってたとき、すごく嬉しかった。……上手く説明できないけど、今まで灰色だった毎日が、ちょっと変わる気がするんだ」
美和さんは、うんともすんとも言わず煙をくゆらせ、空を見上げていた。
そして、鼻で笑いながらぽつりと言った。
「大丈夫なの、そのオッサン」
「え……?」
「男なんてさ、突然押し倒してくる生き物なんだよ。ぶっちゃけ、一方的にやられちゃうじゃん。現役JKってだけで興奮するんだから、男ってやつは」
からかうような言い方だった。でも、その軽さの裏に妙にリアルな諦めが滲んでいる気がした。
私は慌てて首を振った。
「そんな人じゃないと思う」
すぐに言い返していた。
「ちゃんとしてる人だと思うの。だから……一度会ってみて」
思いがけず、声が強くなった。
美和さんは横目で私を見て、ふっと口の端を上げた。
「へえ。遥がそこまで言うならさ、まあちょっと覗いてみてもいいけど」
「ほんと?」
「いいよ。ただし、あんたの言う通り“ちゃんとした人”かどうか、私が確かめてやる」
その言葉を聞いて、胸が少しだけ軽くなった。
美和さんは昔から私にとって、どこか安心できる人だった。勉強も仕事も長続きせず、今もコンビニのバイトで食いつないでいて、村の大人たちからは「ダメな子」みたいに言われているけれど。
でも私には、母や父よりも、ずっと気持ちをさらけ出しやすい。
「……ありがとう、美和ちゃん」
呟くと、彼女は「礼なんかいらないよ」と笑い飛ばした。
「むしろ楽しみだわ。どんな男か、この目で見てやる」
諦めをまとったような彼女の笑顔が、その時は妙に頼もしく見えた。




