第3話 水野 遥
夜、机の上にノートパソコンを広げた。
昼間、隣で見たカメラのことが頭に残っていた。あれだけ本格的に撮影していたのだから、きっと何かに使っているに違いない。もしかして、私が少し手伝った映像も上がっているのかもしれない。
検索窓に「野辺山 DIY」と打ち込む。似たようなチャンネルはいくつも出てきたが、その中にひとつ、サムネイルに見覚えのある山並みが映っている動画があった。八ヶ岳の稜線。まさに窓から毎日眺めている景色。
思わずクリックした。
動画は、ドローン映像から始まった。
青空を背景に、八ヶ岳が大きく横たわる。その裾野に広がる畑や集落。やがてカメラが降下していき、例の古民家を上空から映し出す。瓦のずれた屋根、雑草に覆われた庭、その中で小さな離れがぽつんと建っている。
「……すごい」
思わず声が漏れた。見慣れたはずの場所なのに、まるで別の世界みたいに映っていた。
画面が切り替わり、縁側に座った隣の人が映った。作業着に帽子をかぶり、少し埃まみれの顔でカメラを見ている。
「このチャンネルでは、野辺山での古民家再生の様子を記録していきます。最初に手をつけるのは離れです。母屋は屋根の応急処置をしつつ、時間をかけて直していくつもりです」
淡々とした声だった。聞きやすいけれど、演説のような抑揚はない。ただ、自分に言い聞かせるように、やることを整理している感じ。
画面の端に名前が表示された。
――田原直樹。
そこで初めて、私は彼の名前を知った。
その瞬間、胸の奥が少しだけ熱くなった。
窓の外から眺めていた「謎の人」が、急に現実を持ち始める。名前があるというだけで、こんなに印象が変わるのかと不思議に思った。
動画は続いて、古民家の見取り図を前に直樹が話す場面になった。
「床の腐った部分は切り出して張り替え。雨戸は枠ごと作り直します。道具は一通り揃えました。まずは離れで越冬できる程度を目標に――」
専門的な言葉も多くて全部は分からなかったけれど、その真剣な表情に、私は画面を食い入るように見つめていた。
画面の中で彼が語る声は落ち着いていて、どこか都会的だったのに、やっていることは土にまみれた作業ばかり。そのギャップが不思議と心に引っかかっていた。
次の日の昼、私はいつものように台所でひとりご飯を用意していた。
冷蔵庫の中から昨日の残り物を取り出して皿に移し、電子レンジにかける。ピピッという電子音だけが、静かな家に響いた。父も母も昼間は不在だ。母は農協で事務、父は役場でIターン促進の仕事をしている。平日の昼間は、この家は私とモモちゃんの縄張りみたいなものだった。
けれどその日は珍しく、父が昼前に戻ってきた。役場の制服姿で、額にうっすら汗を浮かべている。
「ただいま。ちょっと野辺山駅周辺での打ち合わせがあってな」
冷蔵庫から麦茶を取り出し、グラスに注ぎながら言った。
父が昼に帰ってくるのは珍しい。近くで何か打ち合わせがあったらしく、台所の椅子に腰を下ろして冷蔵庫から麦茶を取り出した。
私は自分用に用意したパンを齧りながら、昨日見た動画のことを思い出していた。
「……ねえ、お隣の人って、ご近所に挨拶したのかな」
そう何気なく尋ねると、父はコップを口に運びかけて止めた。
「田原さんのことか? いや、まだだろうな。家の片付けで手一杯だと思う」
私は相槌を打ちながら、昨日の映像を思い出す。
ドローンで撮ったオープニング、離れの床を直す直樹さんの姿。
動画の中では、作業の計画ばかりを語っていた。近所付き合いのことなんて一言も触れていなかった。
「なんか……ちょっと困ってるのかなって」
つい口にしてから、少し気恥ずかしくなった。
父は私をじっと見て、目を細めた。
「なんだ。お前、もう田原さんと話したのか?」
「……まあ、ちょっとだけ」
モモちゃんが勝手に入り込んだせいとは言わなかった。
父は「なるほどな」と呟き、グラスを置いた。
「なら、俺が一緒に挨拶に連れていってやるか。あの家を紹介したのは俺だし、村の人に顔を出しておかないと後々困る。今週末にでも回ろう」
「……わたしも行くの?」
思わず聞いたが、父は首を横に振った。
「いや、お前は来なくていい。どうせ人と会うのは嫌だろう?」
私は黙ってパンをちぎった。父は分かっている。
父も母も、私に普通に高校へ通ってほしいとは思っているはずだ。でも無理強いはしてこない。母なんかは「中退してもいい」とさえ言った。けれどその後のこと――就職や将来の生活――を気にしているのも分かっている。
私自身もこれからどうすれば良いのか、全く分からない。
私はうなずきも否定もせず、ただ食パンの耳を齧りながら考えないふりをした。
「とにかく挨拶は俺が段取りする。田原さんにはちゃんと村でやっていけるようにしてもらわないとな」
そう言って父は立ち上がり、仕事に戻っていった。
窓から庭を覗くと、直樹さんが軽トラの荷台から材木を下ろしているのが見えた。
汗を拭いながらも、妙に楽しそうに見えた。
私はそれを眺めながら、胸の中で言い訳をした。
――あんな風にマイペースで家を直していくの、面白そうだなぁ。
父はまた、仕事に戻って行った。
しばらくすると、窓の外から、またトントンと軽快な音が聞こえてきた。
気になってカーテンを少しだけめくると、直樹さんが離れの前で木材を相手に格闘している姿が見えた。額に汗を浮かべながらも、真剣に寸法を測り、時々首をひねって図面を見返している。
私は机に戻ろうとしたけれど、足が止まった。
――ちょっとだけ。
そう言い訳をしてサンダルを履き、庭に出た。
縁側から覗くと、直樹さんはカメラを三脚に据え、いつものように撮影をしていた。
「……こんにちは」
自分でも意外なほど小さな声でそう言うと、彼は振り返り、少し驚いた顔をしてから軽く笑った。
「ああっ。また来たんだね」
私はモモちゃんを抱えているわけでもないのに、なぜか足が勝手にここまで来てしまった。
「……あの、チャンネル見ました」
言ってから、少し頬が熱くなった。
直樹さんは「そうか」と短く答え、照れたように頭を掻いた。
その時、彼は木材を前に腕を組んでいた。
「うーん……ほぞ継ぎって、まったく厄介だなぁ……」
広げた見本図を睨みながら、鉛筆で印をつけては消し、またつけ直している。
真剣な顔なのに、どこか不器用で。私は思わず吹き出してしまった。
「へ?なにかおかしい?」
「いえ……なんか、難しそうだなって」
私は彼の隣に腰を下ろし、図面を覗き込んだ。
細かい線と寸法が並んでいて、確かに素人には分かりづらい。けれど、パズルの解き方を考えるみたいで、少し面白そうに見えた。
「……わたしも、ちょっとやってみたいかも」
気づけばそう口にしていた。
直樹さんは少し考えてから、鉛筆を差し出した。
「少しだけなら全然構わないよ。この謎を解き明かしてよ」
笑いながら私は鉛筆を受け取り、胸の奥が少しだけ弾むのを感じた。
鉛筆を受け取ると、直樹さんは木材の端を指差した。
「この四角い出っ張りを“ほぞ”って呼ぶんだ。反対側に“ほぞ穴”を彫って、かみ合わせると強度が出る。昔の家は釘をほとんど使わず、こういう仕口で組んであるんだよ」
説明はさらりとしていたけど、口調はどこか楽しげだった。
見本図には細かい寸法が並んでいた。十ミリ単位の数字が小さな文字でびっしりと書き込まれている。
直樹さんはスコヤ(直角定規)を木材に当て、鉛筆で線を引いた。
「まずはここを基準にして……それから、ここで直角を落として……」
そう言いながら線を引く手元を見ていると、図形の授業を思い出した。まっすぐに見える線でも、スコヤを当てると少し歪んでいたりする。
「ここからやってみる?」
私は恐る恐る木材の表面に手を伸ばした。
鉛筆の芯が木目に引っかかり、少しガタついた線になってしまう。
「あ、曲がっちゃった……」
直樹さんは覗き込んで、笑った。
「大丈夫。印なんて何度でも引き直せるから」
彼は消しゴムで軽くこすり、もう一度スコヤを当て直した。
「大事なのは基準をきっちり作ること。木材は生き物だから、反りも縮みもある。線が少しずれただけで、組んだ時に隙間ができるんだ」
そう言われても、私は「なるほど」としか答えられなかった。
でも、木材に線を引くだけで、家の一部が形になっていく――そんな不思議な感覚があった。
「ここに“ほぞ穴”を彫るときの目安線だから、鉛筆を寝かせすぎないで……うん、そう」
彼が横からそっと鉛筆の角度を直してくれる。
指先が少し触れて、胸がどきりとした。
「……こんな感じ?」
自分の引いた線を見せると、直樹さんは頷いた。
「うん、いいと思うよ。きっちり直角が出てる。ほら、ほぞとほぞ穴は、こんなふうに重なるんだ」
見本図を指差しながら、二つの線を重ね合わせる。図面の中でぴたりと噛み合う線を眺めていると、木の板がまるでパズルのピースみたいに見えてきた。
「……なんか、ちょっと面白い」
思わず呟くと、直樹さんは目尻を緩めた。
「そうでしょ。難しいけど、ハマると気持ちいいんだよな」
私はもう一度スコヤを当て、別の位置に線を引いた。
気づけば、鉛筆を持つ手に力がこもっている。
スコヤを木材にぴたりと当てて、慎重に線を引く。最初はよろけてばかりだったのに、三本目の線を引いたとき、妙にまっすぐに決まった。
「おっ、上手だね」
直樹さんが横から覗き込んでくる。褒められたわけでもないのに、頬が少し熱くなった。
私はもう一本、別の材に線を引いてみた。今度はスムーズに芯が走る。
「……あれ、なんか上手くなったかも」
自分でもそう思えて、思わず笑みがこぼれる。
気づいたら、時間のことなんて忘れていた。
カメラが回っていることも、庭先に風が吹いていることも、全部背景になっていて、目の前の木材と線だけに集中していた。
「ここは少し狭めに印をつけるといい。削るときに余裕を残すんだ」
直樹さんの声にうなずきながら、また一本線を引く。
ただの鉛筆の線にすぎないのに、その向こうに「かたち」が浮かんでくる気がした。
家の一部になっていく線。
パズルのピースを合わせていくみたいで、胸の奥がふわっと軽くなる。
「……なんか、本当に面白い」
自分でも驚くほど素直にそう言葉が出ていた。
モモちゃんが縁側で丸くなり、のんびりと喉を鳴らしている。
その音に包まれるようにして、私はまた一本、鉛筆を走らせていた。




