第2話 田原 直樹
野辺山駅から歩いて数分。緩やかな坂道を登った先に、その家はあった。
最初に見つけたのは、数か月前のことだ。移住先を探して駅の周辺を歩き回り、旧道に差しかかった時だった。
枝道の奥に、雑草に覆われた大きな敷地が広がっていた。
瓦屋根の母屋と、少し離れた位置にぽつんと建つ小さな離れ。門柱は傾き、庭は腰の高さまで草が伸び放題。けれど、不思議と荒れ果てた印象ではなく、「眠っている」という言葉が似合っていた。
軒を見上げると、瓦がいくつかズレていた。屋根板の一部は黒ずみ、隙間から薄く光が漏れているのがわかった。
このままでは雨が入り込む。柱の足元を腐らせてしまうかもしれない。
ただ、屋根の傷みさえ応急で塞いでしまえば、すぐに崩れ落ちるような状態ではなかった。
庭の奥にある離れは、母屋よりも小ぶりで、四畳半が二間ほど。板戸は外れていたが、壁はまだしっかりしていた。
――ここなら、手を入れれば冬を越せる。
直感的にそう思った。
その日のうちに、不動産屋を通して話を進めた。値段は驚くほど安かった。東京で暮らしていたタワーマンションの月額管理費の数か月分で、土地と建物が丸ごと手に入る。
都会と田舎の価値の差を、あらためて思い知らされた。
購入の手続きを済ませたあと、佐久のディーラーに立ち寄り、軽トラックを頼んだ。四輪駆動のピクシストラック。冬の雪を考えれば、これが一番安心だと思った。納車の時、営業マンに「本当にここで暮らすんですか?」と苦笑されたのを覚えている。
東京からの荷物は、すでに配送便で母屋に運び込んである。といっても家具はほとんど処分してきたから、段ボールの山と数点の家電くらいだ。今は母屋に積まれているが、生活を始めるにはまず離れを直さなければならない。
母屋の本格的なリノベは時間をかけてやるつもりだ。その間、離れを拠点にして暮らす。
まずは畳の張り替えと雨戸の修理。冬が来る前に断熱もある程度しないといけない。
そして母屋の屋根――ここだけは、応急でも早めに手を打つ必要がある。瓦を戻し、防水シートを敷き直し、ひび割れた板を補強する。それだけで、この家はまだ生き延びられるはずだ。
初めて見た時の印象を、今もはっきり覚えている。
――ここで、のんびりと生きてみよう。
離れの床板に膝をつき、マキノの充電式電動ドライバードリルを握った。
板は湿気でたわんでいたが、思ったよりも傷みは浅い。腐食している箇所だけを切り出せば、まだ使える。
東京にいるうちに、工具の使い方は動画で散々調べた。手つきはぎこちないけれど、回転するビットが木に沈んでいく感覚は、意外と悪くなかった。
窓の外に三脚を立て、カメラを回していた。
別に誰かに見せたいわけじゃないが、こうして撮っておけば記録になるし、あとで見返せば失敗の原因も分かる。どうせならアップロードしてしまおうと、簡単にチャンネルを作っただけだ。
視聴者がつくなんて、正直思っていない。もうそういう目的意識自体が、オレはうんざりしている気分だから。
作業を続けていると、縁側の方で気配がした。
振り返ると、白い毛並みの猫がこちらをじっと見ていた。
「あれ、また君か…」
昨日、縁側で触れたあの猫だ。のんびりと歩いてきて、工具の横にちょこんと座り込む。
カメラに視線を戻すと、猫はレンズの前を横切っていった。
「おいおい、主役を奪う気か」
苦笑しながら撫でると、喉を鳴らす音が聞こえた。
しばらくして、庭の方から声がした。
「すみません!」
顔を上げると、昨日もあった高校生くらいの女の子が立っている。
肩までの髪が揺れ、少し息を切らしている。
「また、うちの猫が……」
彼女は遠慮がちに縁側に上がり、猫を抱き上げた。
「気にしなくていいですよ。可愛いお客さんだからね」
オレがそう言うと、彼女は少し驚いたように目を見開き、それから小さく笑った。
道具や材木が散らかった部屋を、彼女はじっと見回していた。
「これ……ご自分で直してるんですか?」
「まあ、やれるところだけかな。まずは手探りしながらだけど」
答えると、彼女は真剣な顔でうなずいた。
その仕草に、不思議とこちらも落ち着いた気持ちになった。
都会では数字や効率の話ばかりしていたのに、ここではただ「やってみる」という言葉だけで会話が成り立つ。
猫を抱いたまま、彼女は縁側に腰を下ろしていた。
三脚に据えたカメラを前に、オレは木材を持ち上げた。
画角に収まっているか確認してから、床板の寸法を測り、マキノのマルチツールのブレードの音が、狭い部屋に響いた。
「……本当にこれ、映してるんですか?」
後ろから声がした。
振り向くと、猫を抱いた女の子が縁側からこちらを覗いていた。
「まあね。自分の記録用みたいなもんだよ」
そう答えてまたノコギリを動かすと、彼女はしばらく黙っていた。
やがて、ためらうように言った。
「でも……なんか、テレビの番組みたい」
冗談かと思ったが、顔は真剣だった。
オレは少し笑って肩をすくめた。
「テレビは流石に大げさだと思うけどね」
「逆に、そこが面白いんですよ」
彼女はそう言って、猫の背を撫でながら笑った。
しばらく作業を続けていると、彼女はカメラの方をじっと見ていた。
「これ……アップロードとかするんですか?」
「一応、してるよ。見たい人がいるかは知らんけど」
「見てみたいな……」
その呟きは、自分でも気づかないように小さかった。
オレが黙って床板をはめ込んでいると、彼女は縁側から一歩踏み出した。
「わたし、その……隣に住んでいる、水野遥っていいます。それで、あの……撮るの、手伝ってもいいですか?」
思いがけない言葉に、オレは工具を持つ手を止めた。
彼女は少し俯き、猫を抱え直しながら続けた。
「三脚に立ててるより、誰かが持った方が……動きも映せるし」
カメラを覗く目は、真剣だった。
会ったばかりの女の子が、いきなり作業に加わるなんて考えてもいなかった。
けれど、不思議と悪い気はしなかった。
「そうだな……じゃあ、頼んでみようかな」
そう言ってカメラを渡すと、彼女は両手でしっかり受け取った。
レンズを覗き込みながら位置を調整する仕草はぎこちないが、目は輝いていた。
床板を打ち付けるオレの手元を追うレンズが、少し揺れながらもついてくる。
その背後で、猫がのんびりと欠伸をしていた。




