第31話 田原 直樹
東京に降り立つのは、隼人と会って以来だ。
新宿駅の雑踏の中に足を踏み入れた瞬間、野辺山の澄んだ空気に慣れていた肺が、思わずざらついた息を吸い込んだ気がした。
――ここに戻ってきた。だが、もう「帰ってきた」という感覚はない。ただ「訪れる」だけの街になってしまったな。
待ち合わせの場所は、渋谷のスパイラルタワービル。
渋谷駅再開発エリアにそびえるガラス張りのタワーは、かつてオレが自らの人生のすべてを投じて築いた「城」が入居する最新の高層ビルだ。
だが今は、その足を踏み入れることに強烈な抵抗があった。
同行しているのは、玲奈と美佳。
二人とも、まだ複雑な表情を浮かべている。玲奈は野辺山であれほど感情を爆発させたあと、少し落ち着いたものの、瞳の奥に宿る光は危うい。
「……本当に行くんですか」
玲奈の声は、怯えと執着が入り混じっていた。
「行く。ここで逃げたら、オレはまた同じことを繰り返す事になる。それに……お前たちも逃げたままになってしまうぞ」
そう答えると、彼女は唇を噛みしめたまま何も言わなかった。
受付で名前を告げると、すぐに上層階の会議室へと通された。
見覚えのある、無機質な白い壁とガラスの扉。
会議室に入った瞬間、全身の毛穴が開くような緊張を覚えた。
そこに――黒瀬悠真がいた。
黒いスーツに身を包み、椅子に腰掛けて腕を組んでいる。かつての仲間であり、共同創業者。今は上場企業の代表取締役社長として、グループ社員総勢約千人と数十万のファンの期待を背負う男。
彼の視線がオレを射抜いた。
「……よくも、顔を出せたな」
低く、押し殺した声。
その一言に、玲奈が小さく肩を震わせた。美佳は黙って横に立ち、ただ視線を逸らさずにいた。
悠真はゆっくりと立ち上がり、机を挟んでオレを睨みつけた。
「お前が突然会社を辞めたあの日から、地獄が始まったんだぞ」
声が震えている。怒りだけじゃない。疲弊と焦燥も滲んでいた。
「水無瀬玲奈は壊れて長期休養のままとなり、お前に代わって美佳が現場を支えざるを得なくなり、キャストは迷い、社員は次々と去り、株主は大激怒。……バーチャルステージは創業以来、最大の危機に陥っている」
オレは黙って聞いていた。
彼の言葉は、刃物のように胸に突き刺さる。だが、それは事実だ。オレが去ったことで残った人間がどれだけ苦しんだか、想像に難くない。
悠真はさらに声を荒げた。
「それだけじゃない。お前は消息を絶ったまま、何の説明もなかった! 俺がどれだけお前を探したと思っている! 株主に何度頭を下げたと思っている!」
机を叩く音が響き、ガラスの壁が震えた。
「そして……」
一瞬、言葉を切り、悠真は深く息を吐いた。
「そして今になって、“野辺山V-Tuberチャンネル”だと? 地方のDIYだのなんだのと……結果的にそれは、俺たちバーチャルステージの否定じゃないか!」
その言葉に、オレの背筋が強張った。
――否定。
確かにそうだ。オレが野辺山で仕掛けたことは、トップV業界の現状へのアンチテーゼであり、それは同時にバーチャルステージの在り方そのものを問い直すものでもあった。
悠真はオレを鋭く見据えた。
「裏切り者だよ、お前は。仲間も、社員も、ファンも、そして俺も。全部裏切って……今さら何をしに来た?」
空気が張り詰め、沈黙が支配する。
玲奈は今にも泣き出しそうな顔でオレを見ていた。
美佳は唇を強く噛み、視線を落としている。
オレは静かに息を整え、椅子に腰を下ろした。
「……全部、お前の言う通りだ」
悠真の眉がぴくりと動いた。
「オレは逃げた。会社も、仲間も、ファンも、全部から。……その結果、こうしてここに立っている」
オレはまっすぐに悠真を見返した。
「だから今日、もうオレは逃げないために、ここに来たんだ」
悠真の瞳が一瞬揺れた。
だが次の瞬間、彼はまた鋭い視線に戻した。
「……なら、聞かせてもらおうか。お前は何をしに来たんだ、田原直樹」
黒瀬悠真の眼差しは鋭い。会議室の空気は、エアコンの冷気が効いているはずなのに、じっとりとした熱を帯びていた。
机を挟んで向かい合い、互いに一歩も引かない。
悠真が口を開いた。
「直樹……お前が目指した“理想”がなんなのか、俺だって分からないわけじゃない。数字ばかり追い、株主の目ばかり気にして、キャストに無理を強いた。俺自身も、今のバーチャルステージが“消耗戦”に陥ってることくらい、痛いほど理解している」
低く押し殺した声。しかし言葉の奥には、疲労がにじんでいた。
「だがな……上場企業ってのは理想論だけで回るもんじゃない。ファンは数十万、株主は何百人もいる。役員会は常に目を光らせ、IRは一言一句の表現を求めてくる。……そんな中で“本当にやりたいこと”なんて、やってられないんだ」
机に置かれた彼の拳が小さく震えている。
「だからこそお前が必要だったんだよ、直樹。俺が株主や役員の盾になる間、お前が現場でキャストを支えてくれるから、会社は回っていた。それなのに……!」
声が一段階高くなった。
「お前が消えた瞬間、玲奈は壊れ、美佳は潰れかけ、現場は混乱した。社員は疲弊し、株価は落ちた。俺がどれだけ必死に支えようとしても……お前の穴は埋められなかったんだ!」
悠真の言葉を、オレは真正面から受け止めた。胸の奥が痛む。
確かに、すべて事実だ。
――だが。
オレはゆっくりと言葉を紡いだ。
「……悠真。お前が必死に会社を守ってくれたこと、感謝してる。本当に感謝してる。だが同時に……オレは、もう耐えられなかったんだ」
「耐えられなかった?」悠真の目が鋭くなる。
「そうだ。ファンの声に応えるため、株主の期待に応えるため、キャストを数字で追い立てる。泣いている子を励まし、笑わせて、その上で“もっと上を目指せ”と要求する。……それがどれほど歪んでいたか、お前だって気づいていただろう」
悠真は何も言わない。
だが、その沈黙が「図星だ」と言っているように思えた。
オレはさらに続けた。
「本来のエンタメは……人を笑顔にするものだ。ファンもキャストも、関わる人間すべてを。だがあの頃のオレは、笑わせるどころか、壊す側に回っていた。数字に追われ、株主に追われ、気づけば“誰のためにやってるんだ”って自問していた」
拳を握る。爪が掌に食い込む。
「そのまま続けていたら、オレは自分の存在意義を失っていた。だから逃げた。お前を、みんなを裏切って」
悠真の顔が苦悶に歪む。
「……そんな言葉で、どれだけの人間が救われると思ってる?」
オレは首を横に振った。
「救えないさ。オレは裏切ったんだから。ただ……せめてもう一度、立ち止まって考えたかったんだ。“本当に届けたいものは何か”って」
悠真の視線が揺れた。
オレは言葉を強めた。
「だから野辺山に行った。田舎の古民家を直しながら、出会った子たちとゼロから向き合った。遥と美和――あの子たちは、学校にも行けず、居場所をなくしていた。でも、少しずつ声を取り戻していったんだ。笑いながら、学びながら、未来に向かって歩き始めた」
胸の奥が熱くなる。
「それを見て、オレは思った。――これこそエンタメの原点だ。数字や株主の顔色じゃなく、“人が人を支える”その形が、エンタメなんだって」
悠真は机に手を置いたまま、俯いた。
沈黙が数秒続く。
やがて、低く押し殺した声が返ってきた。
「……分かるよ。直樹。お前の言うことは正しい。だがな……俺には“守るもの”があるんだ。株主も社員も、キャストも、ファンも。たとえ間違っていようと、俺は会社を潰すわけにはいかない」
顔を上げた悠真の目は、怒りよりも焦燥に満ちていた。
「だからこそ、許せないんだ。お前は“正しさ”を追うために全部を捨てた。俺はそれができなかった。だから俺だけが汚れ役を押し付けられている気がしてならない」
オレは深く息を吐いた。
「……その気持ちは分かる。だが、お前一人で抱える必要はない」
「どういう意味だ」
「オレはもう逃げない。お前と真正面から向き合う。……そして、この業界を本当に変える。お前と一緒に」
会議室の空気は、まだ張り詰めたままだった。
机の上にはペットボトルの水が二本、ほとんど減らないまま置かれている。玲奈と美佳は端の椅子に腰を下ろしていたが、誰も口を開かない。重たい沈黙が、ガラス張りの会議室を覆っていた。
黒瀬悠真が、再び椅子に深く腰掛けた。両肘を机に置き、指を組んでオレを睨む。
「……で? 逃げたお前が、今さら何をしようって言うんだ」
その声には、苛立ちだけじゃない。諦めに似た疲労も滲んでいた。
オレは一度、深く息を吐いた。
「……オレが去ったせいで、お前や社員、キャストが苦しんだことは事実だ。それは変えられない」
悠真の眉がわずかに動いた。責めるでもなく、逃げるでもなく、ただ淡々と告白する声に、彼は次の言葉を待つように黙った。
オレは続けた。
「だが、もう一度言う。オレは、逃げ続けるのは終わりにした。だから今日ここに来たんだ。……和解を求めに来たんじゃない。もっと大きなことを話すために来た」
悠真の目が細められた。
「大きなこと?」
オレは頷き、言葉を選びながら吐き出した。
「――業界のやり方を変える必要がある」
玲奈が小さく息をのんだ。美佳は唇をきゅっと結び、視線を落とした。
悠真はしばらく沈黙したまま、やがて苦笑を浮かべた。
「……お前、何様のつもりだ。業界のやり方を変える? そんな簡単に言うなよ。株主もスポンサーも、みんな数字しか見ていない。キャストはその中で走らされるしかないんだ。お前も、それを知ってただろう」
その言葉に、胸の奥がずきりと痛んだ。
知っていた。だからこそ、壊れた。だからこそ、逃げた。
オレはうなずき、声を強めた。
「分かってる。だからオレは壊れた。でもな……“壊れるのはオレ一人で十分だ”と思ったんだ」
悠真の視線が揺れた。
オレは机の上に両手を置き、前へ身を乗り出した。
「今、キャストは数字に追われ、無理をして、燃え尽きていく。それが業界の“常識”になっている。玲奈を見れば分かるだろう。あれだけの才能が、壊れるまで酷使されて……そして、代わりはいない、と皆で嘆く。そんなのは、間違ってる」
玲奈が小さく震えた。だが今は、彼女の涙に目を向けてはいけない。悠真に言葉を突き刺さなければ。
「オレは野辺山で、遥や美和と出会った。彼女たちは、都会の配信者みたいに数字に追われてるわけじゃない。ただ、自分の声で、自分の笑顔で、人と繋がりたいと願っている。そんな子たちを見て、オレは思ったんだ――**“もう一度、キャストが幸せでいられる仕組みを作ろう”**って」
悠真が目を細める。
「仕組み……だと?」
オレは頷いた。
「業界を変える仕組みだ。
・週の配信時間に上限を設ける。
・休養を義務として保障する。
・キャストの収益分配を明確にし、未来に残せる仕組みを作る。
・そして、地方拠点を組み合わせて“数字至上主義”から“持続可能なモデル”に変える」
机を叩く代わりに、悠真は深く背もたれに身を預けた。天井を仰ぎ、小さく息を吐く。
「……言うは易し、だな。理想論だ。そんなことしてたら、株主に切り捨てられる」
オレはすかさず言った。
「だからこそ、オレたちが率先してやる意味がある。バーチャルステージと、野辺山V-Tuberチャンネルが組むことで、“キャストを守る仕組み”を業界標準にできる」
悠真がこちらを見た。その目は、さっきまでの怒り一色ではなかった。わずかに戸惑い、そして考え込む光が混じっていた。
「……お前、本気でそれを言ってるのか」
「本気だ。数字のためにキャストを犠牲にする時代は、もう終わらせるべきなんだ」
沈黙。
会議室の外からは、社員の足音やコピー機の音がかすかに聞こえていた。だが、この空間だけは異様なほどの緊張に包まれていた。
悠真は長い沈黙の末、低く言った。
「……もしそれをやるなら、“業界を敵に回す”ことになるぞ。スポンサーは逃げ、株価は下がる。社員も揺れる。創業者が一人逃げたあとで、残った俺がそんなリスクを取れると思うか?」
オレは一歩も引かず、悠真を見据えた。
「だからオレも一緒に戦うと言っているんだ」
その言葉に、悠真の目が大きく見開かれた。
「悠真。ここから、今、この業界を変えなきゃいけないんだ」
「……!」
「キャストを酷使して、その上に利益を積み上げる。短期的には稼げるかもしれない。でも、いずれ燃え尽きる。玲奈を見ろ。彼女はトップだった。でも、あのまま走り続けていたら、完全に壊れていた。……お前も、それを分かっているはずだ」
悠真の拳が小さく震えた。握りしめられた拳が机の上で沈黙を叫ぶ。
「オレは逃げた。だが逃げた先で気づいたんだ。キャストが笑っていなければ、どれだけ数字を積み上げても意味がない。エンタメは数字の奴隷じゃない。……人の心を動かすためにあるんだ」
悠真は顔を上げ、射抜くような視線を送ってきた。
「……じゃあ聞く。お前の仕組みで、会社が傾いたらどうする。社員は? 残されたキャストは? ファンは?」
オレは一拍おき、静かに答えた。
「だから――オレも責任を負う」
「責任?」
「玲奈のマネジメントはオレに任せてくれ。彼女はもう、数字だけを追う舞台には戻せない。でも野辺山でなら、新しい姿を取り戻せる。……ファンと向き合う“本当の場所”を用意できる」
玲奈が小さく息をのんだ。
「美佳も同じだ。彼女はオレの下で働きたいと望んでいる。なら、転籍させる。オレの会社で、野辺山で。……だが、それは奪うんじゃない。お前の会社と連携して、彼女の経験を活かす形にする」
悠真は目を細めた。
「……奪わない、だと?」
オレは強くうなずいた。
「そうだ。オレはバーチャルステージを潰したいわけじゃない。むしろ立て直したい。――“キャストを守るシステム”を、野辺山V-Tuberチャンネルとバーチャルステージが共同で実装する。オレたちが率先してやることで、業界に変革を突きつける」
悠真は目を閉じ、深く息を吐いた。沈黙が再び落ちる。
玲奈が不安げにオレと悠真を交互に見ていた。美佳は唇を噛みしめたまま、ただ前を向いている。
やがて――悠真がゆっくりと口を開いた。
「……株主は黙っていないぞ」
「だから、透明性を確保する。法人登記、会計監査、資本の明確化。すでに野辺山の新法人で進めている。オレの持ち出し分は全て除却処理し、フェアな資本構成にしている。……これをお前たちと共有し、モデルケースにすればいい」
悠真の眉がぴくりと動いた。
「数字至上主義の先に未来はない。オレたちがそれを示すんだ。キャストを守り、笑顔で続けられる仕組みをつくる。それは業界の“コスト”じゃない。“未来への投資”だ」
会議室が静まり返る。誰も口を開かない。
外の街の喧騒が、ガラス越しに遠くで響いていた。
悠真は長い沈黙の末、低く呟いた。
「……理想論だ。だが……理想がなければ、ここまで来られなかったのも事実か」
オレはその言葉に、はじめて小さく笑った。
「そうだろ? オレたちは、いつも“無謀だ”って言われながらここまでやってきた」
悠真は苦笑を浮かべ、深く背をもたれた。
「……分かった。すぐに答えは出せない。だが、聞く価値はある」
その声に、玲奈が泣きそうな顔で安堵の息を漏らした。美佳も静かに頷いた。
オレは深く頭を下げた。
「ありがとう。悠真。これからが本当の勝負だ」
――和解の糸口が、今ようやく掴めた。
会議室の空気は、さっきまでの怒号と緊張の残り香をまだ纏っていた。
けれど、互いに言うべきことをぶつけ合った後だからこそ、今は妙に澄んだ静けさがあった。
オレは資料を机に広げ、深く息を吸った。
「――悠真。お前に提案したいことがある」
黒瀬悠真の瞳が鋭くこちらを射抜く。
「提案?」
「そうだ。和解、だけじゃない。……もっと大きな仕掛けだ」
オレの声が、自分でも意外なほど落ち着いていた。
「業界全体が疲弊している。キャストは酷使され、数字と投げ銭に追われ、燃え尽きては去っていく。その空白を埋めるためにまた新人を消費する。……オレもその構造を作ってしまった張本人だ」
胸の奥が痛んだが、目を逸らさずに続けた。
「だが、この“負のスパイラル”を断ち切れるのは、お前たち上場企業のバーチャルステージしかない」
悠真は黙っていた。だが、その眉間に刻まれた皺は、オレの言葉を否定してはいなかった。
オレはさらに踏み込んだ。
「具体的に三つ、仕組みを変える」
指を一本立てる。
「第一に――キャスト保護制度の徹底だ。労働時間の上限を設け、月に最低二日は完全休養日を保証する。メンタルケアの専門チームを常設し、キャストが不調を訴えたら即座に相談できる。さらに契約形態を見直し、キャストの報酬を“成果連動一辺倒”から“固定給+成果分”に変える」
悠真の目がわずかに見開かれた。
「……固定給を保証? 赤字リスクが跳ね上がるぞ」
「分かってる。だからこそ――」
オレは二本目の指を立てた。
「第二に――地域協業モデルを導入する。野辺山V-Tuberチャンネルでやったように、自治体や観光事業者、地域産業と組んで、キャストが“地域と共に稼ぐ”仕組みを作るんだ。配信での投げ銭だけに頼らず、観光や農産物、グッズの売上にキャストが関わり、その一部を収益化する」
「……なるほど。分散化か」
悠真が低く唸る。
「そうだ。これならキャストの心身の負担を減らしつつ、ファン以外の層からの収益を取り込める。そして――」
オレは三本目の指を立てた。
「第三に――新法人による合同プロジェクトを立ち上げる。野辺山チャンネルとバーチャルステージ、両方の名前を出す。キャスト保護を全面に掲げた“新時代のモデルケース”を共同で走らせるんだ」
会議室に静寂が落ちた。
悠真は机に肘をつき、指先で顎を押さえたままじっとオレを見ていた。
「……つまり、お前の野辺山チャンネルを公式に“連合プロジェクト”化しろ、と」
「そうだ。野辺山はベースキャンプになる。小さな村から世界に挑戦する姿を見せる。そしてバーチャルステージは、それを“業界標準”として制度に落とし込む。……その両輪で動かせば、業界を変えられる」
悠真の目に、一瞬、鋭さと同時に揺らぎが見えた。
彼は深く息を吐き、吐き捨てるように言った。
「……そんな夢物語、株主が納得すると思うか?」
「だからこそ――お前とオレが一緒に立つ意味があるんだ」
オレは強く言い切った。
「野辺山チャンネルだけじゃ力不足だ。バーチャルステージだけでも、既存株主の圧力に押し潰される。だが、この二つが“和解”して“提携”する姿を見せれば、逆に『業界変革の旗手』として市場にインパクトを与えられる。……少なくともオレは、その道しかないと思っている」
悠真は沈黙した。
時計の針の音がやけに大きく響く。
やがて彼は視線を逸らし、窓の外の渋谷の街を見下ろした。
「……お前らしいよ、本当に。逃げ出したかと思えば、またこんな無茶なプランを持ってくる」
口元にかすかな笑みが浮かんだ。
「だが――嫌いじゃない」
オレは息を呑んだ。
悠真の声に、わずかな柔らかさが混じっていた。
「ただし」
彼は再びこちらを向いた。瞳にはまだ強い光が宿っていた。
「実現するなら、徹底的にやる。中途半端は許さない。……本当にやれるのか、直樹」
オレは迷わず頷いた。
「やる。必ず」
会議室の空気が、再び熱を帯びていくのを感じた。
机の上には、オレが持ち込んだ紙資料と、悠真の秘書が急ぎプリントアウトしてきた契約書のドラフトが散らばっていた。
さっきまで感情をぶつけ合っていたはずなのに、今は二人で身を乗り出して、まるで共同作業のように赤ペンで線を引き、メモを走らせている。
「まず――玲奈の扱いだ」
悠真が低く言う。
「彼女は正直、このままバーチャルステージに置いておくのは難しい。ファンの期待は大きすぎるし、復帰させれば必ず叩かれる。だが、お前なら……」
オレは頷いた。
「預かる。彼女のマネジメントはオレに任せてくれ。野辺山に来れば、競争の檻の中から解放される。V-Tuberとしての活動は、彼女が望めば、地に足をつけた形で再開させる」
悠真は目を細めた。
「……水無瀬玲奈を“救う”つもりか」
「救うんじゃない。彼女自身に“選ばせる”んだ。もう数字に追い詰められるんじゃなく、自分で声を出したいときに出せる環境を」
悠真は短く息を吐き、資料に目を落とした。
「……分かった。正式にお前にマネジメントを移管する。その代わり、契約上は“提携キャスト”として位置づける。完全な離脱じゃなく、野辺山とステージを繋ぐ橋になるように」
「それでいい」
胸の奥に熱いものが込み上げた。
次に、美佳の名前が出た。
「佐伯美佳はどうする」
「彼女は……オレの部下にしたい。正直に言えば、玲奈よりもオレのことを理解してくれていた。彼女の支えがなければ、オレはもっと早く潰れていたかもしれない」
悠真は静かに頷いた。
「……そうだな。美佳は俺にとっても大事な社員だが、お前がいなければ彼女もまた燃え尽きていた。転籍を認める。ただし“業務提携”という形で、人材交流契約を結ぼう」
「ありがとう」
オレは頭を下げた。
さらに、法人間の仕組みに踏み込んでいく。
「野辺山V-Tuberチャンネルは、既に法人化の準備を進めている。青年団や地元商店街が少額株主として入る形にして、透明性を担保するつもりだ」
悠真が腕を組んだ。
「なら、バーチャルステージとしても出資する。持株比率は少数でいい。だが“公式に関与している”と示せれば、業界全体に対して強烈なメッセージになる」
「……それは心強い」
さらに、キャスト保護制度の共同実験。
悠真が赤ペンで大きく丸をつける。
「休養日の制度化、メンタルケアチーム、固定給+成果報酬モデル……これをバーチャルステージ本体に導入する前に、野辺山プロジェクトでパイロット運用する。リスクは大きいが、やる価値はある」
オレも力強く頷いた。
「オレは、ここで逃げないと決めた。だから――徹底的にやる」
ふと、気づけば二人とも声を荒げていない。
机の上の資料は、真っ赤に書き込みが入り、具体的なスキームの骨格が見えてきていた。
悠真が椅子から立ち上がる。
「直樹」
その声には、先ほどまでの怒りや恨みの色はなかった。
「……俺たちは、また一緒にやれるのかもしれないな」
オレも立ち上がり、彼の目をまっすぐに見据えた。
「和解じゃない。……再出発だ」
次の瞬間、二人の手が強く結ばれた。
骨が軋むほどの力。だが、その握手は確かに未来へと繋がるものだった。
窓の外、渋谷の夜景が煌めいていた。
喧騒の街を見下ろしながら、オレは心の奥で静かに呟いた。
――ここからだ。
野辺山と東京、地方と都会。
そして過去と未来を繋げる、新しい物語が始まる。




