第30話 水野 遥
あの夜――。
座敷で玲奈さんと美佳さんが感情を爆発させた修羅場があった日の夜。直樹さんはすぐに、青年団の団長・田島さん、私と美和ちゃん、それから両親たちを母屋に呼び集めた。
居間の中央で正座した直樹さんの顔は、どこか疲れていたけれど、不思議なほど澄んでいた。
「……今日昼間の件で、皆さんにも心配をかけました」
そう言って深々と頭を下げる姿を見て、私は胸がぎゅっと締めつけられた。
「オレは……東京に残してきたものから、ずっと逃げていました」
静かな声が部屋に落ちる。
「役員として会社を回していた頃、演者を支えていた仲間たち、そして命を削るように舞台に立ち続けたキャスト……彼女たちの想いを全部抱えてしまって、最後は自分が壊れそうになった」
母が息を呑むのが隣で聞こえた。父は黙って腕を組み、真剣な目で直樹さんを見つめている。
「壊れる前に、すべてを捨てて、野辺山に逃げてきた。……でも、もう逃げる訳にはいきません」
直樹さんははっきりとそう言った。
「これから野辺山V-Tuberチャンネルを進めるなら、オレ自身も整理しなきゃならない。昨日ここに来た玲奈と美佳―トップのV-Tuberキャストと元部下を、オレが東京に連れて一緒に戻ります。そして――黒瀬悠真とも会って、きちんと誤解を解きます」
青年団の団長・田島さんが「黒瀬悠真?」と眉をひそめた。
直樹さんは小さく頷いた。
「バーチャルステージの代表です。……かつて一緒に夢を描いた仲間であり、会社を上場まで持っていった訳ですが、今はオレが最も迷惑をかけている相手でもある」
重い沈黙が落ちた。
けれどその沈黙を破ったのは、美和ちゃんだった。
「……じゃあ、直樹さんも真正面から過去に向き合うってことなのね」
まっすぐな声。茶化すでもなく、励ますでもなく。彼女なりに覚悟を込めた言葉だった。
「ああ」
直樹さんは深く頷いた。
「今度こそ、真正面から」
そのとき、私の胸にふわりと灯がともった。
――逃げない直樹さん。
私がずっと信じてきた人が、本当に立ち上がろうとしている。
父が低くうなずき、母も「……信じて、待っています」と小さくつぶやいた。
団長の田島さんも「よし、俺たちも待ってる。きっと戻ってこい」と背中を押してくれた。
その光景を、私は一生忘れないだろう。
翌朝の野辺山駅は、ひんやりとした空気に包まれていた。
改札口の向こう、単線のホームに小さなディーゼルカーが停まっている。
玲奈さんと美佳さんは、それぞれキャリーケースを引き、直樹さんと並んで立っていた。
昨夜の修羅場から一夜明けて、二人の表情はだいぶ落ち着いている。
「……昨日は、言い過ぎちゃった」
玲奈さんがぽつりとつぶやいた。
私と美和ちゃんに向かって、深々と頭を下げる。
「あなたたちに罪はないのに、あんなこと……本当にごめんなさい……」
突然のことに、私は言葉を失った。
美和ちゃんがすぐに「……まあ、しょーがないよ。怒って当然だったと思うし」とぶっきらぼうに返す。その声が、逆に玲奈さんを少し救ったみたいで、彼女は小さく息を吐いた。
美佳さんが玲奈さんの背に手を添える。
「直樹さんに全部受け止めてもらって、やっと落ち着けたみたい。……でも、これからどうなるかはまだ分からない。バーチャルステージと話をつけて、正式に整理できるかどうか……」
「……うん」玲奈さんは小さく頷いた。
そしてまっすぐに直樹さんを見た。
「もし整うなら……私、もう一度、V-Tuberとしてやりたい。……直樹さんのサポートで」
横で、美佳さんも迷いのない目で言う。
「私も。今度は“部下”として、ちゃんと直樹さんを支えたい」
――胸がずきりと痛んだ。
遥や美和にとって、それは「直樹さんが東京で彼女たちと再び活動する」という意味にも聞こえてしまうから。
思わず、美和ちゃんと目を合わせた。
彼女の唇が、かすかに震えているのが分かった。
――同じだ。私と同じ気持ちだ。
“もう戻ってこないんじゃないか”
不安で胸が押しつぶされそうになる。
列車の発車ベルが鳴った。
短く乾いた鐘の音が、私の心臓を締めつける。
「じゃあ……行ってきます」
直樹さんが私たちの方を見て、穏やかに微笑んだ。
どうして、そんなに落ち着いていられるの。
私は思わず声を出した。
「……絶対、戻ってきてください」
声が震えていた。
直樹さんは驚いたように目を見開き、それから真剣に頷いた。
「戻るよ。必ず」
隣で、美和ちゃんも「うそついたら承知しねーからな」と涙声で吐き捨てる。
玲奈さんと美佳さんは、そんな私たちをじっと見つめ、言葉を挟まなかった。
発車ベルがもう一度鳴る。
扉が閉まり、列車がゆっくりと動き出す。
窓の向こうで直樹さんが手を振った。
私と美和ちゃんは、必死にそれに応える。
けれど胸の中の不安は消えない。
視界が揺れて、涙があふれそうになった。
――直樹さん、本当に……戻ってきてくれるよね。
野辺山の冷たい風が、頬を刺すように吹き抜けていった。
野辺山駅で直樹さんたちを見送ったあと、私と美和ちゃんはしばらく動けなかった。
列車が遠ざかっていく音が消えても、胸の奥に残るのは、不安と寂しさだけ。
「……ほんとに、戻ってくるのかな」
美和ちゃんがつぶやく。
「戻るって言ってた」私は答える。でも声が小さく震えていた。
そのとき、駅前の駐車場から聞き覚えのある声が飛んできた。
「おーい!」
隼人さんだった。
黒いジャケットにジーンズ姿で、片手にノートPCのケースを提げている。
「二人とも、そんな顔するなよ」
私たちの前に立ち、軽く肩を叩いた。
「直樹は逃げない。あいつはあいつで、自分のケリをつけに行ったんだ。信じてやれ」
その言葉に、不思議と胸の中が少し温かくなった。
――信じてやれ。
美和ちゃんが「でもなぁ」とぼやくと、隼人さんはニヤリと笑った。
「だったら、お前らはお前らでやることをやれ。直樹が帰ってくる場所を“もっと面白く”しておけ。……それが一番の応援だ」
そのまま隼人さんは、駅前の喫茶店に私たちを連れていった。
窓際の席に座ると、ノートPCを開いて映像編集ソフトを立ち上げる。
「よし、次のDIY動画だ。昨日撮った“屋根材の運び込み”を、三分のショートに切り出すぞ」
「え、もうやるの?」
驚く私に、隼人さんはコーヒーを啜りながら言った。
「当たり前だ。心配ばっかしてても仕方ねぇだろ。手を動かせ。……いいか? お前らはもう“映される側”じゃない。映す側、作る側でもあるんだ」
私は思わず頷いた。
直樹さんが言っていたこと。隼人さんがずっと言い続けていること。
“作る感覚を持て”
美和ちゃんも「よっしゃ、任せて」とマウスを握った。
「このへんカットして、テンポ早くしよ。あとテロップは“新人B、荷物に埋もれる!”とか」
「ちょっと、私の失敗シーンばっかじゃん!」
「だってその方が面白いじゃん?」
隼人さんは笑いながら頷いた。
「そうだ、その感覚だ。恥ずかしさも武器になる。見てるやつに“親近感”を与えるからな」
笑い合いながら編集を進めると、さっきまで胸を締めつけていた不安が、少しずつ薄れていった。
――そうだ。直樹さんが戻ってくる場所を、ちゃんと守らなきゃ。
最後に隼人さんが、真剣な目で私たちを見た。
「いいか。これはただの地方振興企画じゃねぇ。今のトップV業界に風穴を開ける挑戦だ。お前らが楽しんでやることが、一番の武器になる。だから笑え。泣くのは直樹が帰ってきたあとでいい」
その言葉に、美和ちゃんと顔を見合わせて、自然に笑ってしまった。
「……うん」
「よし。じゃあ、トップVに負けない動画、作ってやろう」
窓の外、八ヶ岳の稜線に薄い雲がかかっていた。
でも、その向こうに広がる空は、どこまでも青かった。




