第29話 田原 直樹
居間の空気は、まるで冬の底のように冷たかった。
玲奈が泣き叫び、美佳が絞り出すように言葉をぶつけ――その感情の余韻はまだ畳の上に濃く残っている。
オレは正座したまま動かず、ただ彼女たちの視線を正面から受け止めていた。
――逃げるな。もう二度と。
そう心に刻みながら、長く深い呼吸をして口を開いた。
「……まず、謝らなきゃならない。二人に何の説明もせずに、突然姿を消したこと。あのやり方がどれだけ不誠実で、どれだけお前たちを傷つけたか……今になって、骨の髄まで分かってる」
玲奈は赤く腫れた目でオレを射抜くように睨んでいる。美佳は唇を噛みしめ、うつむいたまま肩を震わせていた。二人がどれほどの痛みを味わったか、それは言葉を聞かずとも伝わってくる。
「でも……あのときのオレは、もう立っていられなかったんだ」
声がかすれるのを抑え、言葉を噛みしめるように吐き出す。
「株主からは“もっと数字を上げろ”と詰められ、特にアクティビスト投資家からは、再生数も投げ銭も、すべて短期的な成果を要求された。……一方で、現場に行けばキャストの悩みや不安を受け止めなきゃならない。社員は生活がかかっている。矛盾するものを、全部オレ一人で背負い込んでいた」
玲奈が小さく息を呑んだ。
オレは続けた。
「エンタメを作るはずだったのに……気づけば、オレは数字を取るためにキャストを叱咤する人間になってた。お前たちを守るどころか、追い詰める側に立ってしまったんだ」
喉の奥が焼けるように熱くなる。
それでも伝えなければならない。
「毎日、オレは自分の存在意義を失っていった。何のために始めたのか、誰のためにやっているのか……分からなくなっていた。玲奈、お前が涙をこらえながら配信を続けていた姿も、美佳、お前が必死に現場を回していた背中も、全部見ていた。でも、それを“数字”に変えろと迫られるたびに……オレは、自分が人間じゃなくなっていく気がしたんだ」
静かに頭を垂れ、続けた。
「だから、逃げた。……会社を辞めて、東京を離れて、全部投げ出した。オレにとっては生き延びるための最後の手段だったけど、二人にとっては裏切り以外の何物でもなかった。それは否定できない」
沈黙が落ちた。
時計の針の音がやけに大きく響く。
「……でも、あのまま続けていたら、オレは完全に壊れていただろう。きっと誰の役にも立てなくなっていた。だから……あのときのオレには、それしかできなかったんだ」
そう言い切った瞬間、胸の奥に重く積もっていたものが少しだけほどけた気がした。
畳の上で二人の影が揺れる。玲奈の目にはまだ憎しみと哀しみが渦巻いている。美佳の頬には静かな怒りが刻まれている。
それでも、オレは逃げなかった。
すべてを背負い直すために、この言葉を告げたのだ。
言葉を吐き出すたびに、胸の奥で何かが剥がれ落ちていく感覚があった。
けれどまだ足りない。二人に伝えるべきことは、もっとある。
オレはゆっくり顔を上げ、真っすぐ玲奈と美佳を見た。
「……本当は、もう二度とエンタメなんてやるつもりはなかった」
静かに、しかしはっきりと告げた。
「会社を辞めて、東京を離れて、野辺山に来たのは……ただ一人で、古民家を直して、土をいじって、心を落ち着けるためだった。DIYをして、夜は焚き火台でビールを飲む。それで十分だった。もう“表に立つ”なんて考えもしなかった」
玲奈が小さく眉をひそめ、美佳が目を伏せる。
二人にとっては信じられないだろう。あの喧騒の真ん中にいたオレが、ただ古い木材を削り、土壁を塗って満足しようとしていたなんて。
「でも……そこで出会ったんだ。遥と、美和に」
口にした瞬間、二人の表情がぴくりと動いた。
玲奈の視線が鋭さを増し、美佳は押し殺すように唇を結んだ。
オレはあえて視線を逸らさず、言葉を重ねる。
「二人は学校に行けず、家に閉じこもっていた。周囲からの視線に押しつぶされて、未来を描くこともできずにいた。……でも、オレの古民家の修繕を一緒にやって、DIYチャンネルに“新人A・B”として映って――少しずつ、変わり始めたんだ」
思い返すだけで胸が熱くなる。
重い木材を一緒に運んだこと。泥だらけになって笑い合ったこと。編集ソフトの前で「ここは切ったほうが面白い?」と真剣に考えていたこと。
「……あのとき、思ったんだ。エンタメって、数字のために無理を強いるものじゃない。目の前の人間が、少しでも笑えるようにすることなんだって」
オレの声が震えた。
玲奈が険しい目でオレを見ている。その瞳の奥には、嫉妬と哀しみと怒りが渦巻いていた。
「だから、彼女たちを“使おう”と思ったんじゃない。……彼女たちと一緒に、もう一度やってみようと思ったんだ。楽しむために。前を向くために」
深く息を吐いた。
「気づけば、織絵や隼人も来てくれて、青年団や親世代も巻き込んで……気がついたら“野辺山V-Tuberチャンネル”っていう形になってた。最初から狙ったわけじゃない。ただDIYをしてたら、自然に広がっていったんだ」
玲奈の目が潤み、かすかに震えた。
美佳は両手を膝の上で握り締め、低く小さく息を吐いた。
オレは真っすぐに言い切った。
「二人を裏切るつもりなんて、本当にひとかけらもなかった。ただ……壊れた自分を立て直すつもりが、野辺山で“もう一度”やる力をもらってしまった。それだけなんだ」
言葉が座敷に落ち、しばしの沈黙が広がる。
玲奈はまだ肩を震わせ、涙で滲んだ目をオレに向けている。美佳は理性を保とうとしているが、その瞳の奥に押し込めた怒りと痛みが揺れている。
――これ以上、言葉を重ねても、今は逆効果だ。
オレは深く息を吸い込み、二人を見据えた。
「……これからどうするか、ちゃんと考えたい。けれど、正直に言うと、今ここで結論を出せる状態じゃない」
玲奈がびくりと反応し、何かを言いかけた。
オレはそれを制するように、静かに言葉を重ねた。
「一度でいい。考える時間をくれ。……逃げるんじゃない。今度は絶対に、逃げない。だから、そのために頭を冷やしたいんだ」
玲奈の喉が震え、押し殺すような声が漏れる。
「……逃げたくせに」
その言葉は胸に鋭く突き刺さった。でも、今は受け止めるしかない。
「そうだな。逃げた。そのせいでお前たちを傷つけた。だからこそ、今回は逃げない。必ず向き合う」
そう言って頭を下げた。
美佳がかすかに息を吐き、玲奈の肩にそっと手を置く。
「玲奈……今日はもう、これ以上は無理」
その声に玲奈は唇を噛み、視線を逸らした。
オレは二人を見て、努めて穏やかな声を出した。
「今日は宿を手配してある。駅前の旅館だ。……明日、改めて話をしよう。ちゃんと、全部話す」
玲奈は震える声で「……本当に?」と問う。
「本当だ。嘘は言わない」
オレははっきり頷いた。
美佳が「じゃあ、今夜はそうさせてもらう」と言い、玲奈の腕を取った。
まだ納得しきれない表情のまま、それでも玲奈は美佳に従うように立ち上がった。
玄関に向かう二人の背中を見送りながら、オレは胸の奥で呟いた。
――逃げない。もう二度と。
その決意が、夜の静寂に溶けていった。




