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第28話 水野 遥

 その日の午後、野辺山駅前にざわめきがあった。

 観光客でも地元の人でもない――なにか張り詰めた空気を纏った二人の女性が、改札を抜けてこちらへ歩いてくる。


 ひとりは、派手に整えた髪にブランド物のバッグ。けれどその瞳は赤く潤んでいて、何かに取り憑かれたみたいにギラギラ光っていた。

 もうひとりは、落ち着いたスーツ姿。表情は冷静そうなのに、その視線の奥には複雑な色が揺れていた。


 「……えっ」

 私の背筋に、ぞわりと冷たいものが走った。


 彼女たちの名前は、事前に直樹さんから何度か耳にしていた。

 ――水無瀬玲奈。バーチャルステージのトップキャスト。

 ――佐伯美佳。元社員で直樹さんの右腕のような存在だった人。


 まさか、本当にここに現れるなんて。


 玲奈さんは、歩きながらもずっと小さく呟いていた。

 「ゆるせない……ゆるせない……」

 声は震えていたけれど、目は真っ直ぐに前だけを見ている。怖いくらいに。


 その隣で、美佳さんが必死になだめていた。

 「玲奈ちゃん、落ち着いて。いきなり押しかけたって何も解決しないわ」

 「でも! ……でも、直樹さんが……!」

 「分かってる。でも感情だけでぶつかれば、余計に壊れる」


 ふたりのやり取りは、まるで爆発寸前の爆弾と、それを必死に押さえ込もうとする人、みたいだった。


 私は駅前の影から様子を見ているだけで、足がすくんだ。

 ――やばい。これ、本当にやばいやつだ。


 目の前の玲奈さんは、美和ちゃんのことも私のことも、知らないはずなのに。

 でも、その視線はすでに「敵」を見据えるように鋭く光っている。

 私の胸がどくどくと音を立てて、息が詰まりそうになった。


 「……遥?」

 隣で美和ちゃんがひそひそ声で囁いた。

 「なんか、修羅場ってやつじゃね?」

 「し、修羅場って……」

 思わず返した声は震えていた。


 玲奈さんがこちらを見つけた瞬間、私の背筋に冷たい針を突き立てられたみたいな感覚が走った。

 その目は、涙と怒りと執着で揺れていて――でも、どこか空っぽだった。


 「あなたたち……?」

 低く掠れた声が響いた。

 「直樹さんを、たぶらかしてるのは……あなたたちなの?」


 心臓が止まりそうになった。

 どう答えていいか分からない。

 でも確かに、ここから逃げることはできなかった。


 どうしていいか分からなかった。

 玲奈さんの視線は、私の胸を突き刺すように鋭くて。美和ちゃんでさえ気圧されて、さすがに冗談を飛ばす余裕もなかった。


 私は慌ててスマホを取り出し、震える指で直樹さんに電話をかけた。

 「な、直樹さん! ……大変です、駅に、水無瀬玲奈さんと佐伯美佳さんが……!」


 受話口の向こうで、直樹さんの息が一瞬止まった気がした。

 「……わかった。すぐ行く」


 それだけ言うと電話は切れた。


 数分後。駅前ロータリーに、白いハイエースが急ブレーキをかけて止まった。

 運転席から飛び出してきたのは直樹さんだった。


 「……玲奈。美佳」

 低く、けれど震えるような声。


 玲奈さんがその姿を見た瞬間、全身がピクリと震えた。

 「直樹さん……っ!」

 次の瞬間には駆け寄ろうと一歩踏み出す。

 その表情は怒りと涙と安堵がぐちゃぐちゃに混ざり合っていて、見ているだけで胸が苦しくなる。


 美佳さんが慌てて腕を掴んだ。

 「玲奈、落ち着いて!」

 「だって……! だって、ずっと……!」


 駅前の視線が一斉に集まる。観光客も、地元の人も、何事かと立ち止まっていた。

 私は胸が潰れそうな思いで直樹さんを見た。


 直樹さんは、深く息を吸い込み、ふっと表情を引き締めた。

 「ここじゃ話せない。……乗ってくれ」


 そう言って、ハイエースのスライドドアを開けた。


 玲奈さんはまだ興奮して震えていたが、直樹さんの声にだけは従うように足を動かした。

 「……わかりました」

 美佳さんが支えるようにして彼女を乗せ、自分も隣に腰を下ろした。


 最後に直樹さんが振り返り、私と美和ちゃんに目で合図を送った。

 「お前たちも、来てくれ」


 私たちも慌てて乗り込み、ドアが閉まる。

 車内には、張りつめた空気が充満していた。


 エンジン音だけが重苦しい沈黙を破る中、玲奈さんは小さく震える声で繰り返していた。

 「……どうして。どうして何も言ってくれなかったの……」


 直樹さんはハンドルを握ったまま、黙っていた。

 でもその横顔は、苦しさと覚悟が入り混じっていて――私は言葉を飲み込むしかなかった。


 ハイエースは、ゆっくりと駅前を離れ、母屋へと向かって走り出した。


 母屋の座敷に入った瞬間、空気が変わった。

 湿った夏の夜の空気が、急に凍りついたみたいに。

 私は隅に小さく座り、畳に指を押し当てながら、ただ成り行きを見守るしかなかった。


 「どうして……」

 玲奈さんがぽつりと呟いた。声は小さいのに、全身の毛穴がざわつくような響きがあった。

 「どうして……私を置いていったの?」


 その瞬間、堰を切ったように言葉があふれた。


 「私、毎日、毎晩、あなたからの連絡を待ってたのに! スマホを握りしめて、着信音が鳴るたびに心臓が止まりそうになって! けど……来なかった! 一度も! なんで!? どうして!?」


 声は悲鳴のように跳ね上がり、畳に反響した。

 玲奈さんの目は涙で濡れているのに、炎のようにぎらついていた。


 「私は……信じてたのに。誰よりも。直樹さんを。キャストでも、社員でもなくて、一人の女として――愛してたのに! あなたのためなら何だってできるって、心も体も全部投げ出してきたんです! なのに……あなたは消えた!」


 言葉の刃が、座敷の空気を切り裂いていく。

 私は震えながら、どうして自分の名前が呼ばれる予感がしていた。


 「そして今! なに? 遥ちゃん? 美和ちゃん? そんな子たちを隣に置いて、楽しそうに笑って……ふざけないでよ!」

 私の心臓がぎゅっと縮む。

 玲奈さんの視線が、私に突き刺さった。

 「あなたたちなんかに渡さない! 絶対に許さない! 直樹さんは私のものなの! ずっと私だけを見ていればよかったのに! どうして! どうしてあんたたちなんかを――!」


 叫びながら、畳に爪を立てる音が響いた。ぎりぎりと擦れる音が、背筋を凍らせる。


 美佳さんが慌てて腕を掴んだ。

 「玲奈、やめなさい! 落ち着いて!」

 「やめない! 私の心を、体を、全部知ってるのは直樹さんだけなのに! なんで! なんで裏切るの!?」

 「裏切りじゃないわ!」美佳さんが声を荒げた。けれど玲奈さんは首を振り、涙を振り飛ばして叫び続けた。


 「私は全部失ったの! 声も、体も、生活も、心も! 直樹さんがいなくなった時に全部壊れたの! それでも私、生きてる! でも……でも、あなたが私を捨てて、遥ちゃんや美和ちゃんを選んだなんて……そんなの認められるわけない!」


 ――選んだ?

 頭が真っ白になった。私は選ばれたわけじゃない。ただ……助けてもらって、ここにいるだけなのに。


 「……あなたたち、絶対許さない。絶対に」

 声が低く落ち、刃物のように冷たい響きになった。

 「私の直樹さんを奪ったんだから……許さない……絶対に」


 体が震え、呼吸が浅くなる。

 怖い。目の前の玲奈さんは、泣いているのに、笑っているようにも見えた。

 涙と執着と怒りが、全部混ざって、正気と狂気の境目を飛び越えている。


 美佳さんは必死に抱き止めていた。

 「玲奈、もうやめなさい! これ以上言ったら戻れなくなる!」

 「戻れない!? とっくに戻れない! 直樹さんを愛して、愛して、全部捧げて、壊れた時点で……もう戻れないの!」


 叫び声が座敷を震わせる。

 私はただ縮こまり、畳に指を食い込ませていた。


 ――これが直樹さんの過去。

 東京で背負ってきたものの一部。

 私たちが知らなかった、濃すぎる、重すぎる感情。


 けれど、直樹さんはただ正座していた。

 まるで一撃一撃を受け止めるように、微動だにせず。

 その姿が、逆に胸を締めつけた。


 「直樹さん……! なんとか言ってよ! ねえ……!」

 玲奈さんが叫び、泣き崩れそうに身を乗り出す。

 でも、直樹さんはただ、静かに見つめていた。


 座敷に響いていた玲奈さんの叫び声が、ようやく泣き崩れるようにして小さくなっていった。

 畳に伏せて肩を震わせるその背中を、美佳さんがそっと支える。

 ――嵐が過ぎたみたいに、空気は静かになった。けれど、重苦しさは消えない。


 「……玲奈は、言葉にしちゃうと止まらないから」

 美佳さんが低い声でつぶやいた。その目は冷静そうに見えて、でも奥底で熱いものが燃えているのが伝わってきた。

 「でも、私だって……本当は同じ」


 直樹さんの正面に座り直し、美佳さんはまっすぐに彼を見据えた。

 「直樹さん。あなたが壊れそうになっていたこと、私は分かっていたつもりです。キャストと株主の板挟みで、笑いながら潰れていくのを、毎日見てました。だからこそ……少しでもあなたの負担を減らしたくて、あなたに代わって社員を叱咤して、数字を立て直そうと必死に動いた。全部……あなたを守りたいからやったことです」


 声は静か。けれど一つひとつの言葉が刃のように重く突き刺さる。

 私は思わず息を止めた。


 「それなのに、あなたは何も言わずに消えた。私たちを、置いていった」

 その目がふっと揺れる。怒りだけじゃない。寂しさ、悔しさ、裏切られた痛み。女としての感情が、にじみ出ていた。


 「私は、上司と部下の関係を超えて……あなたを愛していました」

 はっきりと言い切った。玲奈さんが嗚咽を漏らす横で、美佳さんは涙をこらえている。

 「だから、あなたの苦しさを誰より理解できると思っていた。そう信じていたのに……何も話してくれなかった。最後まで壁を作って、全部自分だけで抱えて……そして消えた」


 直樹さんはただ黙って聞いていた。正座した背筋は揺れず、目だけが静かに美佳さんを見つめていた。


 「……正直に言います。あなたを心底恨んでいます」

 美佳さんの声が、低く沈んだ。

 「理屈では理解しても、女としては許せない。私も……玲奈と同じ。あなたに裏切られた女の一人です」


 胸がぎゅっと締めつけられた。

 玲奈さんの激情とは違う、冷静で理性的なのに、底に渦を巻くような怒り。

 それがかえって恐ろしく感じられた。


 「でも……それでも、あなたを憎み切れない自分がいる」

 美佳さんの声が少し震えた。

 「この感情をどうしたらいいのか、分からない。だから……こうして野辺山まで来たんです」


 その言葉に、私は背筋をぞくりとさせた。

 玲奈さんも美佳さんも、ただの“元同僚”じゃない。直樹さんに、女としての強い感情を抱いてきた人たちだ。

 私なんかが踏み込んでいい領域じゃない。


 けれど――そんな二人の思いを、直樹さんは逃げずに受け止めている。

 その姿が痛々しくて、でも誇らしくも思えた。


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