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第1話 水野 遥

 その日も、部屋の窓から外を眺めていた。

 特に理由があるわけじゃない。朝から机に向かっても、教科書

を開いても文字が頭に入らないから、自然と窓辺に腰をかける癖がついてしまった。


 見えるのは、隣の敷地にある古い家。ずっと空き家で、誰も住んでいなかった。屋根の瓦はところどころ剥がれ、庭は雑草に覆われ、風が吹くと軒先がきしむ音がしていた。子どもの頃から知っている風景だけれど、ずっと変わらない、廃墟みたいな存在だった。


 ところが――今朝は違った。

 玄関先に、見慣れない軽トラックが停まっていた。白くて小さな荷台に、工具や段ボールが積まれている。車の横で、大きなキャリーバッグを引きずる男の人が立っていた。


 最初は引っ越し業者かと思った。でもそうじゃない。作業着を着たその人は、荷物を下ろすと、家の戸口を開けて中に入っていった。鍵を持っている――つまり、あの古民家の新しい持ち主だ。


 「ほんとに、来たんだ……」

 小さく声に出してしまった。


 父から「隣に人が引っ越してくるらしい」と聞かされたのは数日前だった。どんな人なのか詳しくは教えてもらえなかったけれど、まさか本当に来るなんて。

 窓の外のその人は、埃をかぶった玄関を掃き、庭の草をかき分け、あちこち覗き込んでいた。


 年は……三十代くらいだろうか。黒髪を短く刈り、シャツの袖をまくって動き回る姿は、どこか都会の人っぽい。けれど今は泥と埃にまみれていて、少し不器用そうに見えた。


 雑草に足を取られながらも、庭の奥まで入っていく。その背中を見ていたら、何となく目が離せなくなった。

 古民家が、急に違う場所みたいに見えたのだ。


 時計を見ると、もう昼を回っていた。


 家には誰もいない。母は農協に、父は役場に出ていて、二人とも帰りは夕方になる。昼ご飯はいつも通り、自分で簡単に用意するしかなかった。冷蔵庫からパンと牛乳を取り出し、テーブルに置く。静かな台所に、包丁の音すら響かない。


 高校には、もうしばらく行っていない。

 4月に入学して、しばらくは真面目に通っていたけれど、ある時から不登校になってしまった。

 別にいじめられたわけじゃないし、特別な事件があったわけでもない。ただ――どうして行かなきゃいけないのか、その意味がわからなくなったのだ。


 学校では、勉強して、進学して、あるいは就職する事を求めてくる。そのために必要であれば、長野や松本や東京などの都会に出ていくことが当たり前のように語られる。


 でも、それが本当に幸せなんだろうか。


 目の前にいる父や母は、都会で暮らしたことなんてない。それでも毎日仕事をしていて、時には楽しそうに笑って、普通に生きている。近所のおじさんやおばさんたちもそうだ。誰も大きな夢を語ったりしないけれど、不幸そうには見えない。むしろ自然で、落ち着いていて、そこに「生きる形」がちゃんとあるように思える。


 なのに、学校は「ここを出ていけ」といわんばかりに先の話を押しつけてくる。

 将来のために今は苦労しろ、進学のために頑張れ。そう言われても、心がまったく動かなってしまった時、小海線に乗って通学するだけの力が自分の中から失せてしまうのを感じたのだ。

 私は、自分がこの野辺山から「出ていく」先に幸せを想像できなかった。だから、わざわざ想像できない「先」のために無理をしてまで通う理由も見いだせなくなった。


 それで気づいたら、この部屋にこもって、窓の外を眺める時間ばかりが増えていた。

 今日もまた、隣の古民家を見ている。

 ずっと空き家だったはずの家が、急に人の気配を取り戻した。その光景は、私の退屈な日常に、小さなひっかかりを生んでいた。


 カーテンの隙間から覗いていたら、足元を白い影がすり抜けていった。

 「モモちゃん……?」

 小さな尻尾が揺れている。うちの猫が、窓の下から庭に飛び降り、そのまま隣の古民家へと駆けていった。


 慌ててサンダルを突っかけ、玄関を飛び出した。

 モモちゃんは、どこへでも行ってしまう。普段は畑や小道を歩き回るくらいだけど、今日はよりによって隣の敷地。埃と雑草に覆われた庭の向こうで、今まさに人が片付けをしている最中だ。


 庭先に回り込むと、モモちゃんは縁側のあたりで座り込み、知らない人に尻尾を揺らしていた。

 その人――さっきから家の中を片付けていた男の人が、しゃがみ込んでモモちゃんの背を撫でている。


 「……あれ?」

 声が出た。思わず、自分でも驚くくらい大きな声で。


 男の人が振り返った。

 黒髪を短く刈って、シャツの袖をまくった腕は土で汚れている。汗で額の髪が張りついていて、埃を浴びた顔には、でも不思議と余裕があった。

 「君の猫?」

 低い声だったけど、どこか柔らかい調子だった。


 私は慌てて頷いた。

 「すみません、勝手に入っちゃって……」

 言いながら、モモちゃんを抱き上げようとした。けれど、モモちゃんは男の人の膝にぴたりと身を寄せて動かない。普段ならすぐ私の腕に飛び込んでくるのに、今日は全然。


 「いや、大丈夫だよ。人懐っこいね」

 彼はそう言って、モモちゃんの耳の後ろをかるく掻いてやった。モモちゃんは喉を鳴らしている。

 その様子を見ていたら、何故だか胸が落ち着かなくなった。うちの猫なのに、他の誰かにあんな風に甘えているのが、少し不思議で。


 「……引っ越してきたんですか?」

 思い切って声をかけた。

 彼は少し笑って、縁側に積んだダンボールを顎で示した。

 「うん。今日からここに住む。しばらくは片付けで手一杯だけどね」


 そう言う彼の背後には、崩れかけた瓦屋根と、埃をかぶった柱が立っていた。長いこと空き家だった建物が、少しずつ息を吹き返そうとしているみたいに見えた。


モモちゃんをようやく抱き上げて腕に収めると、彼は「また遊びに来るかもしれないね」と笑った。

 その笑顔は、都会の人みたいにぎこちなくもなく、かといって田舎の人みたいに馴れ馴れしいわけでもなかった。ただ自然で、肩の力が抜けていた。


 私は「すみませんでした」と小さく頭を下げ、猫を抱いて庭を後にした。サンダルの底が草を踏みしめる音が、妙に耳に残った。


 家に戻り、自分の部屋の窓からまた外を覗く。

 彼はまだ庭にいて、古い物干し竿を動かしていた。汗を拭いながら、黙々と作業を続けている。

 その背中を見ていると、不思議と目が離せなくなった。


 何をしている人なのか。

 どうしてこんな場所に越してきたのか。

 東京に出て行くことばかりを求められる世界で、逆にこんな田舎の古民家にやって来る大人なんて。


 モモちゃんは膝の上で丸くなり、気持ちよさそうに喉を鳴らしている。

 窓の外では、見知らぬ隣人が、埃だらけの家を少しずつ動かし始めていた。


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