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第26話 水野 遥

 九月の終わり、空は高くて、日差しはまだ強いのに風はひんやりしていた。

 庭に干した洗濯物が、ぱたぱたと音を立てて揺れる。その下で私はぼんやりと空を見上げながら、頭の中でつぶやいた。


 ――なんか、すごいことになってきた。


 最初はただ直樹さんの古民家の修繕を手伝って、スコップを持って、ペンキで服を汚して。

 でも今は「デビューに向けて」っていう言葉が、毎日の合言葉みたいになっている。


 居間のちゃぶ台の上には、色とりどりのロゴ案が並んでいた。狐のしっぽが八ヶ岳の稜線みたいに広がるデザインや、レタスの断面をモチーフにした丸いマーク。

 「もっと柔らかい緑にした方がいいかな」「八ヶ岳のシルエットをもっとはっきり出そう」――織絵さんと、織絵さんが連れてきたデザイナーさんが、専門用語を飛ばしながら真剣に議論していた。


 その横で直樹さんは、スマホを握りしめて、次々と連絡を取っている。

 「ええ、そうです。“野辺山発の新しい取り組み”として……はい、ぜひ記事にしていただければ」

 「お忙しいところ恐れ入ります、初配信のタイミングで一言ツイートしていただければ助かります」


 声だけ聞くとすごくビジネスっぽいのに、膝の上ではネコみたいに丸くなった美和ちゃんが「眠ぃ……」と欠伸していて、なんだか笑ってしまった。


 「おい、美和。寝てる場合じゃないぞ」

 「えー? どうせロゴのことなんて私ら分かんないじゃん」

 「そうだけど……」

 私は苦笑しながら、ペンを走らせていた。学校の課題のノート。今までなら絶対手をつけていなかったのに、今は自然と手が動いている。理由は――やっぱり「配信で話題にするため」だ。


 「レタスって、野辺山が全国シェア1位なんだよね」

 そんな豆知識を書き込みながら、「あ、これ配信で使えそう」って思ってしまう自分に驚く。


 ふと横を見ると、直樹さんが電話の合間に、私たちに視線を投げてきた。

 「二人とも、勉強もバイトも大変だろうけど……こういう地元ネタ、どんどん拾っていってな」

 「……はい」

 気づけば、私も美和ちゃんも、声を揃えて返事をしていた。


 ロゴは少しずつ形になり、織絵さんは「これなら勝負できる」と満足げに頷いた。

 直樹さんのスマホからは、また次の呼び出し音が鳴る。

 「ええ、はい。“ヤツミ”と“レタにゃん”です……いえ、まだ内緒でお願いします。正式デビューは十月ですから」


 なんだか、世の中が勝手に大きく動いていくみたいで、少し怖いくらいだった。

 でも同時に――胸の奥が、くすぐったいように熱くなっていた。


 「ねえ、遥」

 美和ちゃんがぼそっと言った。

 「私ら、マジでデビューするんだね」


 「……うん」

 そう答えながら、私は心の中で小さくつぶやいた。


 ――どうしよう。楽しみすぎて、眠れないかもしれない。


 ちゃぶ台の上にノートパソコンとマイク。

 その後ろに織絵さんが腕を組んで座り、横には直樹さんが黙って見守っている。

 そして正面には――隼人さん。


 「よし、今日は“初配信のリハ”だ」

 その声に、私は息を飲んだ。


 画面の中には、ヤツミとレタにゃんの3Dアバター。まだ“テスト表示”の赤い帯が出ているけど、狐耳と猫耳がピクピク動いていて、それだけで胸が高鳴った。

 「じゃあ、まずは自己紹介から。はい、遥ちゃん」


 「え、いきなり!?」

 思わず声が裏返ると、美和ちゃんが横でニヤニヤ笑う。

 「ほらほら、行けよ。舞台は待ってくれないんだから」


 「う、うん……! えっと――“はじめまして! 高原レタにゃんです! レタスと一緒に元気に育ちました!”」

 自分でも、ちょっと棒読みだったなと思った瞬間。


 隼人さんが机をドンッと叩いた。

 「棒! 棒だ! これじゃただのスーパーの販促アナウンスだ!」


 「うっ……」

 顔が熱くなる。美和ちゃんはお腹を抱えて笑っていた。

 「スーパーのレタス売り場って感じだったぞ」

 「やめてよ!」


 だけど隼人さんは、笑いながらも首を横に振った。

 「いいか? “元気に育ちました”って言葉は悪くない。問題は声に感情が乗ってないことだ。恥ずかしさを消す必要はない。むしろ、その照れをプラスに変えるんだ」


 「プラスに……?」

 「そうだ。“ちょっと照れてるけど頑張ってます”って伝われば、それがキャラの色になる。無理に完璧にやる必要はない」


 なるほど……そうなのか。

 私は深呼吸して、もう一度マイクに向かった。

 「えっと……“はじめまして。レタにゃんです。野辺山のレタスより、たぶんしゃべるのは得意じゃないけど……頑張ります!”」


 言った瞬間、織絵さんが吹き出し、直樹さんが思わず口元を押さえた。

 隼人さんは指を立ててにやりと笑った。

 「それだ。完璧じゃなくていい。“素”が出た瞬間こそ、一番面白いんだ」


 「……あ、ほんと?」

 「ほんとだ。今の、すごくよかった」


 胸がじんわり熱くなった。


 次は美和ちゃん。

 「じゃあ、“ヤツミ”いってみろ」

 「おう。――“八ヶ岳きつね、ヤツミだ! 今日も高原の風に耳をパタパタさせながら来たぞ!”」


 ……すごい。なんか堂々としてて、ちゃんとキャラに入り込んでる。

 「おおーっ!」と思わず拍手すると、隼人さんがすかさずツッコミを入れた。

 「いいけど長い! 視聴者は三秒で飽きる!」


 「ええっ!?」

 美和ちゃんが目を丸くする。

 「今のは勢いあった。でも冒頭は短く。長くても七秒。それ以上は“飛ばされる”」


 「七秒……そんなシビアなの?」

 私がつぶやくと、隼人さんはうなずいた。

 「そうだ。でも逆に言えば、七秒で人を笑わせたり、心を掴めれば勝てる。お前たちが挑むのは大手事務所の量産型じゃない。“野辺山の二人”っていう唯一無二の存在感だ」


 空気が、ぐっと熱を帯びた気がした。

 直樹さんも真剣に聞き、織絵さんも腕を組みながら口元を緩めている。


 「いいか、遥、美和。数字や収益だけ追いかけていたら、必ず潰れる。オレはそれを東京で散々見てきた。だからお前たちには、笑って、楽しんで、自然体でやってほしい。楽しさこそが、全部を支えるんだ」


 その言葉に、胸が震えた。

 確かに私はずっと「失敗したらどうしよう」「迷惑かけたらどうしよう」って考えてばかりだった。

 でも、楽しんでいいんだ――?


 「……分かりました。楽しんで、でも真剣にやります」

 「おう、任せろ。オレがそのためにリハをするんだから」


 隼人さんはそう言って、また机をドンッと叩いた。

 「よし、もう一回! 今度は笑いを入れろ!」


 「えええ!?」

 思わず悲鳴を上げた私に、美和ちゃんが「ほらレタにゃん、笑え笑え!」と茶化す。

 思わず吹き出してしまって、マイクに笑い声が乗った。

 モニターのレタにゃんも同じように笑っていて、それを見た瞬間、なんだか不思議と力が抜けた。


 ――あ、これだ。

 緊張も笑いも、ぜんぶ混ぜて出せばいいんだ。


 「やれるな」

 隼人さんの目が細められる。

 「お前ら二人なら、きっと“風穴”を開けられる」


 その言葉は、まるで胸の奥に火をつけるみたいに響いた。


 その夜の野辺山は、昼間とはまるで別世界だった。

 高原の空気はひんやりとして、頭の上には満天の星が広がっている。夏の名残をわずかに感じさせつつ、吐く息は白くなりそうなくらい冷たい。


 母屋の庭先で、ぱちぱちと音を立てる焚き火台。

 その前に座る直樹さんの横顔が、炎に赤く照らされていた。片手にビールの缶。肩の力を抜き、時折炎の中に視線を落としては、何かを噛みしめているように見える。


 私は障子の隙間からその様子を見ていたけれど――どうしても足が止まらなかった。

 気づけばスリッパのまま庭に出ていて、焚き火台に近づいていた。


 「……あ」

 気づかれてしまった。

 直樹さんが振り返り、驚いたように目を細める。

 「おい、もう遅いぞ。冷えるから中にいなさい」


 「……でも、なんか……一人で飲んでるの、ずるいなって」

 口から出てしまった言葉に、自分でも顔が熱くなる。


 直樹さんは一瞬きょとんとして、それから小さく笑った。

 「ははっ、そうか。……じゃあ座りなよ」

 隣の折りたたみチェアを軽く叩いてくれた。


 腰を下ろすと、薪が弾けて火の粉が夜空に舞った。

 炎の温かさと、背中を撫でる冷たい風。その対比が心地よくて、胸の奥がじんわりしていく。


 しばらくは何も話せなかった。焚き火の音だけが、私たちの間を満たしていた。

 でも――言わなきゃいけないことがある。


 「……ありがとうございます」

 気づけば、声が震えていた。

 「え?」

 直樹さんが缶を口から離す。


 「直樹さんのおかげで……私、変われました」

 炎を見つめながら、必死に言葉をつなぐ。

 「前は……何にもしたくなくて、学校にも行けなくて。毎日ただ、時間を潰すだけで……でも今は、毎日が楽しいんです。隼人さんのレッスンも、バイトも、勉強も。全部、前向きにやってみようって思える」


 もうテスト配信も終え、地域の関係者の方々からも応援メッセージが来ている。もうすぐ本当のV-Tuberデビューとなる。そうしたこれからの道筋を、全部全部作ってくれたのが直樹さんなんだ。


 「……遥」

 低い声が耳に落ちた。振り返る勇気はなかった。顔を見たら、きっと泣いてしまう。


 「直樹さんが、私を引っ張ってくれたから。だから……本当に感謝してます」

 声が掠れて、最後は小さな囁きになった。


 直樹さんはしばらく黙っていた。

 焚き火がぱちんと弾ける音だけが響く。

 やがて、小さくため息をついて、ぽつりと言った。


 「オレのほうこそ……ありがとうだと思っているよ」


 「え……?」

 思わず顔を上げると、直樹さんは炎越しにこちらを見ていた。

 「オレだって一度は全部投げ出した。もう二度と、誰かの人生に関わるのはやめようと思ってた。でも、遥や美和のおかげで……もう一度やろうって思えたんだ。だから感謝してるのは、オレのほうだ」


 胸が熱くなり、涙がにじんだ。

 ――ただの隣のおじさん、じゃない。

 私の人生を変えてくれた人。

 これからも、ずっと一緒にいたいと思ってしまう人。


 けれど、その気持ちにまだ名前をつけることはできなかった。

 尊敬? 憧れ? それとも――。


 「……寒くないか?」

 直樹さんが、自分のパーカーを差し出してくれた。

 袖口から漂う、少し懐かしい都会の匂い。

 それに包まれると、胸の奥に不思議な安堵感が広がった。


 「……大丈夫です」

 本当は大丈夫じゃない。

 今ここで泣いてしまいそうで、胸がいっぱいだった。


 でも、焚き火の炎を見つめながら、私は強く思った。

 ――この人と一緒に、これからも歩いていきたい。


 夜空に白い息が消えていった。

 遠くで犬の鳴き声がして、薪がまたぱちんと弾けた。

 そして私の胸の奥には、まだ言葉にならない炎が、小さく燃え続けていた。


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