第21話 田原 直樹
夏の盛りを過ぎ、野辺山の朝の空気はどこか澄んでいて、ひんやりと肌を撫でる。蝉の声はまだ力強いが、庭の草いきれに混じる風の匂いに、秋の気配がほんの少しだけ漂っていた。
居間のちゃぶ台の上には、通信制高校の案内パンフレットと、願書の下書きが広げられていた。隣に腰を下ろした遥が、真剣な顔つきで記入欄を埋めている。丸い字で一生懸命書く姿は、以前の、ただ時間を持て余して膝を抱えていた彼女とはまるで別人のように見えた。
「……ここ、住所の番地間違えてるよ」
オレが声をかけると、遥は「あ、ほんとだ」と照れ笑いして修正テープを走らせた。その隣で、美和がコンビニのバイトシャツのまま、別の資料に赤ペンを入れていた。
「履歴書用の自己紹介文なんて書けないって思ったけどさ……“将来は地域活動や配信を通して役に立ちたい”って書いたら、案外すらすら出てきた」
そう言って肩をすくめる美和の横顔は、妙に大人びて見えた。
――変わった。
二人とも、確かに変わり始めている。
遥は正式に従来の高校を中退する手続きを取り、これからは美和と同じ通信制高校に籍を置く。学年こそ違うが、同じ課題に取り組み、同じスクーリングに顔を出す予定だ。昨日まで「学校なんて意味がない」と言っていた二人が、今は「少しでも先に課題をやっておこう」と机に向かう。そんな光景を目にするだけで、胸の奥が熱くなるのを抑えられなかった。
リビングの端には、隼人が置いていったマイクとパソコン、それにレッスン用の資料が積まれている。週に一度は隼人自身が野辺山まで来て、対面でのトレーニングを行う。それ以外の日も、夜にはリモートで繋ぎ、画面越しに発声や掛け合いを見てくれていた。
「ほら遥、もっと声を前に出す! 胸からじゃなく腹から!」
「う、うん……あー……!」
「よし、今のはいい。美和は逆に力を抜け。自然体でツッコミ入れるのはお前の武器だ」
画面越しに飛ぶ隼人の声に、二人は汗をかきながら必死に食らいつく。その姿は、かつて東京のスタジオで新人キャストにレッスンをつけていた頃を思い出させた。けれどあの頃と決定的に違うのは、オレ自身が数字や株主の視線に追い立てられているわけではなく、ただ“目の前の二人が少しでも成長していく姿”を心から喜べていることだった。
夜、レッスンが終わると、遥と美和は並んでノートを広げる。数学の問題を解いたり、英語の文法を声に出して読み上げたり。彼女たちが「勉強=未来を縛るもの」ではなく「自分を表現する武器」として向き合い始めたことが、何より嬉しかった。
オレはその様子を少し離れた場所から眺めながら、深く息を吐いた。
――ここからだ。
V-Tuber企画を動かすと決めたのは、オレ自身だ。そしてそれが起点となって、遥と美和が新しい一歩を踏み出した。あのまま放っておけば、二人はきっと閉じこもったまま、世界に背を向けていたかもしれない。
織絵は立ち絵を描き上げ、3Dアバター制作も順調に進んでいる。隼人は対面とリモートを駆使して、二人に声の出し方から企画の回し方まで叩き込んでくれている。青年団も応援の体制を整え、両親たちも背中を押してくれている。
すべてが少しずつ噛み合って、動き始めている。
でも、これは“数字を取るため”でも、“儲けるため”でもない。
――関わってくれるすべての人が、幸せになるために。
遥も、美和も、青年団も、村の人々も。
そして、ずっと支えてくれている織絵や隼人も。
彼らが「やってよかった」と思えるような企画にしなければならない。
それが、今のオレの責任だ。
ちゃぶ台の上で赤ペンを走らせる美和の手元を、真剣な眼差しで覗き込む遥。その横顔を見ながら、私は小さく口元を緩めた。
「……大丈夫だ。きっと、うまくいく」
胸の奥に、確かな手応えが灯っていた。
次の日は高原らしく澄んでいて、八ヶ岳の稜線が遠くにくっきりと見えていた。
その下を走る国道を、オレは軽トラックを北へ走らせていた。目指すは佐久の自動車ディーラー。数か月前、この軽トラを購入した店だ。
――今日、もう一台を買う。
軽トラは確かに便利だ。木材や工具を積み込んで、古民家の修繕に使うにはこれ以上ない相棒だった。けれど、最近の自分たちの動きを考えると、どうしても限界を感じていた。
遥と美和の二人を乗せて出かけることも増えてきた。近隣の観光地や取材場所に向かう時、DIYの資材を取りに行く時、そしてこれからはV-Tuber活動に絡んで出張的に動くこともあるだろう。加えて、東京から織絵や隼人が野辺山にやって来ることも増える。
軽トラ一台では、人を運ぶことができない。……だから必要なのは、ワンボックス。
ハンドルを握りながら、オレは小さく息を吐いた。
儲けのための事業ではない。むしろ赤字を覚悟している企画だ。だが、それでも足回りだけは整えておかなければならない。人が集まり、安心して動ける環境を用意するのも、プロデューサーの責任だ。
やがて佐久の町並みが広がり、見覚えのあるディーラーの看板が視界に入った。
軽トラを駐車場に入れると、営業担当の男性がすぐに姿を見せた。以前既に顔馴染みになっている人物だ。
「おや、田原さん。また何か?」
「ええ、実は……もう一台、必要になりまして」
驚いたように眉を上げる営業マンに、オレは率直に事情を説明した。
「古民家の修繕は軽トラで十分なんですが、これからは人を乗せる機会が増えるんです。若い子を二人乗せたり、東京から来る仲間を送迎したり。ですから、ワンボックスを考えています」
「なるほど……でしたら、やっぱりハイエースが一番ですね」
営業マンは頷き、すぐにカタログを持ってきた。
展示場には、白いボディのハイエースが並んでいた。
無駄のない直線的なフォルム。大きなスライドドア。広々とした荷室。
――これなら、資材も人も同時に運べる。DIYと配信活動、その両方を支える“足”になる。
「グレードはどうされます?」
営業マンの問いに、オレは少しだけ考え込んだ。
正直オレはあまり自動車に対するこだわりはない。けれど、安全性と快適性だけは譲れない。遥や美和を乗せるのだから。
「一番上のグレードにしてください。後部座席にもしっかりしたクッション性があるものをつけて。……あとはナビとバックモニターも最新機器をつけてください」
「承知しました」
見積もりを確認し、オレは即決した。
企業経営という観点から収益性を追求していた頃なら、こういう出費にすらためらいを覚えていたかもしれない。だが今は違う。ここでの暮らしと、これからの企画を守るためなら、必要な投資だ。何よりも、これはオレ自身がオレの為にする投資だ。
「お願いします。これで決めます」
営業マンが深々と頭を下げる。契約書にサインを入れるペンの重みを感じながら、オレは心の奥で小さく呟いた。
――この車は、きっと未来を運ぶことになる。
店を出て再び軽トラに乗り込むと、駐車場の隅で白いハイエースが夕陽に照らされていた。
あの車に、遥や美和、織絵や隼人を乗せて、いろんな場所へ行く日がすぐに来るだろう。
オレはハンドルを握り直し、野辺山に続く道を走り出した。胸の奥には、不思議な高揚感が広がっていたが、それはオレだけではない。
地域の青年団や商店街の人たちにV-Tuber企画の説明を重ねるうちに、少しずつその空気が変わってきたのをオレは感じていた。
最初は「本当にそんなことができるのか」といぶかしむ視線もあった。けれど、オレが責任を負う姿勢を示し、数字や契約の話まで丁寧に説明すると、逆に「じゃあ応援するよ」と言ってくれる人が増えていった。
そして思わぬ形で、その応援が二人にも返ってきていた。
美和が、コンビニのバイトを辞めると決めたのだ。
「ただ時間を潰すだけの仕事じゃなくて、ちゃんとV-Tuber活動にとっても役に立つことをしたい」
そう口にする彼女の横顔は、これまでと少し違って見えた。
青年団のつながりで、国道141号沿いの高原野菜を扱うスーパーが紹介された。地元の農家が丹精込めて作ったレタスやキャベツ、とうもろこしが並ぶ、地域の“顔”ともいえる店だ。
経営者は「地域の子が頑張るなら」と快く受け入れてくれた。応援の意味を込めて。
販売経験を通じて、野辺山の誇る「高原野菜」にも詳しくなるだろう。
その流れに乗るように、遥も決断した。
「私も……同じところでやります」
人と話すのが得意ではないはずの彼女が、自分からそう言ったのだ。
理由を問うと、「人と少しでも話せるようになりたい」と、はにかんで答えた。
オレの胸に、熱いものが込み上げた。――本当に、変わり始めている。
今日も、スーパーの店先には二人の姿がある。
色鮮やかな野菜を段ボールから取り出して並べる美和。
真剣な顔でキャベツを磨いている遥。
彼女たちが制服姿で立っているだけで、店の前がいつもより少し明るく見えた。
そこへ、納車されたばかりのハイエースを走らせて乗り付けた。
白いボディが陽にきらめき、駐車場に収まる。
降りるとすぐに、美和が「直樹さん、それ……!」と目を丸くした。
「今日、納車されたんだ」
オレは笑って答えた。
「これからはこれが“みんなの足”になる」
このハイエースは、DIYの資材も積めるし、人も快適に運べる。まさにこれからの企画を支える“足”だ。
「うわぁ……広い!」
遥が目を輝かせる。
後部座席に座り込んで、まるで小さな子供みたいに周囲を見回していた。
「これなら遠出もできるね」
美和がからかうように笑い、遥が「ちょっと、そんなこと言わなくていいから!」と頬を赤らめる。
二人がそうやって笑い合う姿を見ているだけで、胸の奥が温かくなった。
――間違っていなかった。
儲けるためじゃない。株主に応えるためでもない。
ただ、ここで関わってくれる人たちが少しでも幸せになれるように。
遥や美和が未来に向かって歩き出せるように。
織絵も隼人も、地域の人たちも「やってよかった」と思えるように。
それが、この企画を進めるオレの役割だ。
スーパーの店先に並ぶレタスが風に揺れ、白いハイエースのボディが夕陽に照らされて輝いていた。
その光景は、これからの未来を約束してくれているように思えた。




