第20話 水野 遥
正直、緊張していた。
隼人さん――高村隼人。直樹さんの古い仲間で、今は広告代理店の顧問をしている人だと聞いていたけど、初めて会ったときの印象は「場数を踏んでいる大人」そのものだった。
声は落ち着いていて、物腰も柔らかいのに、言葉の端々から「絶対に誤魔化しは通じない」っていう鋭さを感じる。
「よし、今日はまず“声”からだな」
居間に持ち込まれた簡易マイクとパソコン。直樹さんがセッティングを手伝い、私と美和ちゃんは座布団に正座していた。
「お腹に手を置いて、息を吸ってみろ。肩じゃなくて腹がふくらむように」
隼人さんが見本を見せる。ゆっくりと息を吐くと、声が自然に深く響いた。
――すごい。
ただ息を吐いただけなのに、こんなに違うんだ。
「腹式呼吸で声を出すと、マイク通したときに聞き取りやすいんだ。遥ちゃん、やってみよう」
「えっ、わ、私?」
思わず声が裏返る。美和ちゃんが横でクスクス笑った。
言われるままに息を吸い、少し震える声で「あー」と出してみる。
「うん、悪くない。ただ少し細いな。もっと胸を開いて」
隼人さんのアドバイスに従うと、さっきより少しだけ太い声になった。
「……あ、なんか出た感じする」
自分でも驚いて、思わず小さく笑ってしまった。
「その調子だ。声は筋肉だからな。毎日やれば必ず良くなる」
隼人さんがうなずく。
次は「感情表現」。
「じゃあ、“喜怒哀楽”を声で出してみろ」
「えっ!?」
思わず叫ぶと、美和ちゃんが「はーるか、先生に逆ギレしてどうすんの」と突っ込んできて、場がちょっと和んだ。
「じゃあ俺が言葉を振るから、感情を込めて返事してみろ。“プレゼントをもらったとき”“ゲームで負けたとき”……」
ひとつずつ試す。最初はぎこちなかったけど、美和ちゃんと掛け合ううちに、だんだん楽しくなってきた。
「うわー! やったー!」
「ちょ、遥、テンション高すぎ。お祭りの太鼓じゃないんだから」
「だって……こういう感じ?」
「まあ、悪くない。元気キャラの声になってきたな」隼人さんが笑う。
次は「雑談トレーニング」。
「テーマは“好きな食べ物”。三分間、ひとりで話してみろ」
「三分……?」
そんなに持つわけないと思ったけど、やってみると案外続いた。
「レタスが好きで……いや、正確にはサンドイッチに入ってるレタスが好きで……」
気づけば、自分でも笑ってしまうくらい必死に話していた。
最後は「掛け合い練習」。
美和ちゃんと役割を交代しながら、話を回す。
「えー、それで遥はさ、サンドイッチにレタスばっか詰め込むんだよ」
「ちょっと! それ言わなくていいから!」
「いやいや、正直に言ったほうが面白いだろ」
笑いながら続けるうちに、部屋の空気が自然に明るくなった。
「いいな。二人のやり取り、そのままキャラクターになる」
隼人さんの言葉に、胸がじんと熱くなった。
――本当に私でも、できるのかな。
まだ不安は消えないけど、少なくとも今は。
少しだけ「声を出すのが楽しい」と思えた自分が、確かにいた。
「じゃあ、次はもう少し実戦に近い練習をやろうか」
隼人さんの声に、思わず背筋が伸びた。
居間に置かれたノートPCには、配信用の簡易チャット画面が映し出されている。
「仮想コメント」を隼人さんが打ち込んで、私と美和ちゃんがそれに即座に反応する、というシミュレーションだ。
最初のコメントは――
《レタス食べすぎて草》
「えっ……!?」
思わず固まると、美和ちゃんがすかさずマイクに向かって言った。
「こいつ、マジでレタスばっか食ってるんだよ。ウサギかっての」
「ちょっと! そういうこと言わないでよ!」
「図星だろ?」
わざと茶化すような美和ちゃんに、私は顔を真っ赤にして反論した。
隼人さんが笑いながら頷く。
「いいね。遥ちゃんは“照れる”、美和ちゃんは“突っ込む”。キャラの立ち位置が自然に出てる」
次のコメント。
《声ちっちゃくない?》
また焦ってしまい、「あ、すみません……」とつぶやくと、隼人さんがすぐ止めた。
「そこで謝っちゃダメだ。“ごめんなさい”は空気を冷やす。例えば、“もっと大きな声でいくね!”って明るく返すと雰囲気が変わる」
私は深呼吸して、マイクに顔を寄せた。
「よし! じゃあ次は全力で――いくよー!」
わざと大きめに声を出すと、美和ちゃんがすかさず「やかましいわ!」と突っ込んで、場が笑いに包まれた。
――なるほど。こういう感じなんだ。
ただ声を出すだけじゃなくて、雰囲気を保つ返し方がある。
次は《仲悪そう》というコメント。
私が「ち、違うもん!」と慌てて返すと、美和ちゃんが「いや、実際ケンカばっかしてるし」とすかさず追い打ちをかけてきた。
「ケンカじゃないよ! ……たぶん」
思わず笑ってしまうと、隼人さんも「いいぞ、その自然さが武器になる」と頷いた。
しばらくやり取りを繰り返していると、最初の緊張は薄れてきて、逆に「もっと面白い返しをしたい」と思えてくる。
「……なんか、楽しいかも」
つぶやいたら、美和ちゃんが「だろ? 私が一緒なら安心だろ」と肩を軽く小突いてきた。
隼人さんは腕を組み、二人を見ながらまとめに入った。
「うん。正直、想像以上にいい。遥ちゃんはまだ声が不安定だけど、“真剣にやろう”って気持ちが伝わる。美和ちゃんは逆に力みがなくて、自然体で面白い。二人の掛け合いは相性抜群だ」
胸がじんわり熱くなった。
――私でも、役に立ててるんだ。
ずっと「足を引っ張るんじゃないか」と思っていたけど、隼人さんの言葉が背中を押してくれた。
「じゃあ、次回からは“企画トレーニング”に進もう。ミニゲーム実況とか、簡単なトークテーマを用意して、それを30分持たせる練習だ。二人ならきっとできる」
その言葉に、美和ちゃんと顔を見合わせる。
彼女は口の端を上げて「よし、やってやるか」って顔をしていた。
私はただ、小さくうなずいた。
――本当にできるかは分からない。
でも、美和ちゃんと一緒なら、なんとかなるかもしれない。
その夜。
帰り際、窓の外に沈む夕焼けを眺めながら、私は小さくつぶやいた。
「……私、少しだけ変われるかもしれない」
次の日の夕方、庭先で洗濯物を取り込んでいると、美和ちゃんがひょいっと顔を出した。
「よっ」
いつもの気だるそうな声。だけど、表情はどこか晴れやかだった。
「美和ちゃん……なんか、顔が違う」
思わず言うと、美和ちゃんはニヤッと笑った。
「だろ? あんたのとこに昨日直樹さんが話に来たみたいに、うちにも来てくれたんだよ」
私は手を止めた。
「え……高校のこと?」
「そうそう。最初はウチの親も“冗談じゃない”って顔してたけどさ。直樹さん、めちゃくちゃ真剣に話してくれて」
美和ちゃんは空を仰いで、声を少し落とした。
「最初に“高校中退してコンビニバイト”って言われると、やっぱ世間的には肩身狭いんだよ。でも、直樹さん、“だからこそ武器になるものを持った方がいい”って。勉強は未来に向けたお仕着せの選択肢のためにするものじゃなくて、自分の表現を面白くするための基礎になるって。……なんか、納得しちゃった」
私の胸に、昨日の夜の直樹さんの言葉が甦った。
――勉強は、武器になる。
「……同じこと、私にも言ってくれた」
私がそう言うと、美和ちゃんは「でしょ?」と笑った。
「でさ、親も最後には“そこまで真剣に言うなら”って折れてくれた。直樹さん、ちゃんと“通信制の高校で”って道を示してくれたし」
美和ちゃんは肩をすくめた。
「だからさ、私もやり直すことにした。高校、卒業する」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥から熱いものが込み上げてきた。
「……ほんとに?」
「ほんとほんと。同じ通信制になるってさ。学年は違うけど、一緒にやれるんだろ? だったら、ちょっとは気が楽だわ」
私は思わず笑っていた。
「……よかった。私一人じゃ心細いなって思ってたから」
「おいおい、遥が先に“やってみたい”って言ったんだろ。私が後から乗っかっただけだって」
二人で顔を見合わせて、ふっと吹き出した。
夏の夕暮れ、洗濯物の白いシャツが風に揺れる。
その下で笑い合う私たちの声は、どこか新しい未来に続いているように思えた。
「ねえ、美和ちゃん」
「ん?」
「一緒に、頑張ろうね」
「……ああ。今度はマジで、途中で投げ出さないから」
美和ちゃんが拳を差し出してきた。
私は迷わず、その拳に自分の拳を重ねた。
小さな音が響いた瞬間、胸の奥に力強い炎がともるのを感じた。




