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第19話 田原 直樹

 契約書への署名と捺印は、驚くほどすんなり進んだ。

 織絵が描いた立ち絵も仕上がり、制作会社への3Dアバター発注も動き出した。隼人も野辺山に来て二人に初めての指導をし、その後はリモートでの練習も始まっている。

 ――正直、自分がここまで早いテンポで物事を進めるとは思わなかった。


 だが、準備が着々と進んでいるからこそ、気づくこともある。

 オレ自身に必要なのは、地道に「手を動かす時間」だ。


 母屋から少し離れた仮住まいの離れ。

 下地を貼り、防水シートをぐるりと巻き終えた外壁は、白い包帯でぐるぐる巻きにされたように見えた。これで雨が降っても、冬の雪が押し寄せても、とりあえずは耐えられる。

 いよいよ、鎧張りに取りかかる時が来た。


 「わー……なんか“それっぽい”感じになってきたね」

 マスクを首からぶら下げて、美和が声をあげる。

 隣で遥もうなずきながら、目を輝かせていた。

 「うん、ほんと。……これで、もうちゃんとした家みたいに見える」


 オレは微笑みながら、二人に材木を渡した。

 「これからやる“鎧張り”は、下から順に板を重ねていく方法だ。雨が流れ落ちても板の隙間に入り込まないように、少しずつ重ねて打ち付ける。地味だけど、やり方を間違えると全部やり直しになるから気をつけて」


 「え、責任重大じゃん」

 美和が苦笑してハンマーを持ち直す。

 「でも、なんか……VTuberの準備してるって思うと、不思議と緊張感がちょっと楽しいかも」


 遥が横でうなずいた。

 「うん。まだ実感ないけど、なんか楽しみ……。だって、この家だって、動画に出るんでしょ?」


 「そうだな。DIYチャンネルの背景になる。二人が鎧張りしてる様子も、近いうちに撮影することになると思う」

 オレがそう答えると、二人の頬に一気に赤みがさした。


 「やば。全国に流れるのか……」

 「……でも、ちょっとワクワクするね」


 二人の声が交錯する。

 オレはふっと笑い、ハンマーを構え直した。


 最初の板を下端に合わせ、水平器を置いて確認し、釘を打ち込む。カン、カンと乾いた音が高原に響く。

 「ほら、美和ちゃん、次。手を添えてみろ」

 「え、いきなり!?」

 「大丈夫だ、オレが後ろで支える」


 美和が恐る恐る釘を打ち、板がピタリと収まった。

 「おお……」

 その顔に浮かんだ驚きと笑みは、どこか子どものように無邪気だった。


 「じゃあ、次は遥ちゃん」

 「うん!」

 遥の一撃は少し力が強すぎて釘が斜めになったが、それも笑い合いながら直していく。


 こうして三人で並んで鎧張りをしていると、不思議な高揚感があった。

 都会で会議室にこもり、数字を追っていた日々とはまるで違う。

 手を動かすリズムと、二人の笑い声。

 そのすべてが、これから始まる“新しい挑戦”を祝福しているように思えた。


 ――DIYとV-Tuber。

 一見まったく別物のようでいて、根っこは同じだ。

 「自分の手で、ゼロから何かを作り上げる」こと。

 それを楽しんでいる二人の姿を見て、オレは確信した。


 これならきっと、大丈夫だ。

 不安よりも期待の方が大きく膨らんでいるのを感じながら、次の板を手に取った。


 夕陽が西の稜線へと沈みかけ、板張りを終えた離れの壁がオレンジ色に照らされていた。

 鎧張りの板が重なり合うと、つい先日まで骨組みだけだった建物が、急に「小さな家」としての姿を取り戻していた。


 「……すごいね」

 隣で汗を拭った遥が、素直な声を漏らした。

 美和も手に持った金槌を肩に担ぎ、にやりと笑う。

 「いやぁ、思ったより立派になったな。これ、母屋ができたら壊しちゃうの?」


 その言葉に、遥もこちらを見上げてきた。

 「そうですよね……せっかくここまで直したのに」


 オレは二人の視線を受け止め、しばらく黙ったあと、口元に笑みを浮かべた。

 「……いや、壊さないよ。実は考えてるんだ」


 「考えてる?」

 二人の声が重なった。


 「うん。母屋は住居としてリノベするつもりだけど、この離れは別の役割を持たせたい。――収録スタジオにするんだ」


 「スタジオ……!?」

 二人の目が同時に丸くなる。


 「そう。これから『ヤツミ』と『レタにゃん』として活動していくなら、ちゃんと収録や配信ができる場所が必要になる。防音を施して、照明やカメラを設置すれば、ここがその拠点になる」


 遥は目を輝かせ、美和は口笛を吹いた。

 「マジか……うちらのアジトってやつ?」

 「アジトって……でも、そうだね。野辺山の“秘密基地”みたいな場所にできる」


 二人の顔がみるみるほころんでいくのを見て、オレも胸の奥が少し熱くなった。

 たかが離れ、されど離れ。

 仮住まいとして最低限の応急処置をしただけの場所が、これから三人の新しい物語を紡ぐ“舞台”になる。


 「だから、もっとちゃんと仕上げていくよ。外観も内装も、スタジオとして人を呼べるくらいにね」


 「……楽しみ!」

 遥が胸の前で拳を握り、笑顔を見せた。

 美和も頷きながら、少し照れくさそうに口を尖らせる。

 「なんか、本当にやるんだな……野辺山V-Tuber計画ってやつ」


 夕暮れの風が頬を撫で、離れの新しい板壁をさらさらと鳴らしていた。

 ――ここが始まりの場所になる。

 オレはそう強く思った。


 夜の空気は、もうすっかり夏の熱気を手放していた。

 八月も末になれば、野辺山の夜は高原らしい冷え込みを見せる。長袖を羽織っていても、肌の上をかすめる風はひんやりとして、昼間の汗ばむ空気とはまるで別世界だった。


 母屋の縁側を離れ、庭の一角にスノーピークの焚き火台を据えた。ステンレスの折り畳み式は組み立てが簡単で、薪を並べるとすぐに火が走り、やがてぱちぱちと乾いた音を立てて燃え上がった。


 焚き火の炎は、見ているだけで気持ちを落ち着けてくれる。

 缶ビールのプルタブを開けると、シュッという音が夜気に溶け、口に含んだ泡が喉を潤した。おつまみはスーパーで買ってきたチーズとナッツ。特別なものは何もない。それでも、炎とビールだけで贅沢だと心から思えた。


 ――こういう時間が欲しかったんだ。


 東京では、夜はいつも数字やメールに追われていた。

 気づけば深夜のモニターに顔を照らされながら、明日の収益資料や投資家の目を気にしていた。

 今はただ、炎のゆらぎと虫の音。時計の針を忘れて、冷たい空気を胸いっぱいに吸い込むことができる。


 ふと、母屋の窓に灯りが揺れた。

 カーテンの隙間から小さな影が覗いている。……遥ちゃんだ。


 オレは気づかないふりをして、ビールをもう一口。

 すると、やがて障子が開く音がして、足音がこちらに近づいてきた。


 「……こんばんは」


 恐る恐る、といった調子で声をかけてきた。

 振り返ると、薄手のカーディガンを羽織った遥ちゃんが、遠慮がちに立っていた。


 「こんばんは。こんな時間にどうした?」

 「……窓から、見えたから。火」


 頬を赤らめながら、言い訳のように呟く。

 オレは笑って、手を焚き火の脇に伸ばした。


 「寒いだろ。ほら、座ってあったまれ」

 キャンプ用の折り畳みチェアを隣に置くと、遥ちゃんは小さく頷いて腰を下ろした。


 火の粉が舞い、二人の影が芝生の上に長く揺れた。

 しばらく無言で炎を見つめる。沈黙が気まずくないのは、焚き火の力だろう。


 「……きれい」

 遥ちゃんがぽつりと言った。

 「火って、見てると飽きないんだね」


 「そうだな。オレも都会にいたときは、こんな時間を忘れてた」

 ビールを傾けながら答える。

 「炎って、生き物みたいだろ。強くなったり、弱くなったり、風に揺れたり……」


 「……うん」

 遥ちゃんは膝を抱えて、火に照らされた横顔を少しだけほころばせた。


 ふいに、夜風が吹き抜けた。

 肩をすくめる遥ちゃんに気づき、オレはタオルケットを持ってきてそっと渡した。

 「ありがとう」

 彼女は小さく声を漏らし、火の光に包まれてまた黙り込んだ。


 遠くでフクロウの声が響いた。

 星がひとつ、またひとつ増えていく。


 この何でもない夜を、誰かと分かち合える。

 そのささやかなことが、不思議と胸に沁みた。


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