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プロローグ 田原 直樹

 オレは、最後に部屋の窓から外を眺めていた。

 広尾のタワーマンション三十階。見慣れた風景のはずなのに、今はどこか遠い国の絵葉書のように、現実味がなかった。高層ビルの群れの向こうに夏の陽射しがぎらついて、ガラス窓に反射して光の欠片を散らしている。視線を少し下げれば、地上を走る車の流れがミニチュアのように見えた。


 この景色を見ながら、いったい何度、深夜までパソコンの画面と睨み合ってきただろう。起業して、仲間と走り抜けて、上場まで持っていった。振り返れば、結果だけを見れば成功と呼ばれる部類の人生だ。COOとして数字を追いかけ、投資家と駆け引きし、現場を鼓舞して、何度も限界を超えてきた。

 でも、その果てに残ったのは――この、どこか空虚な視界だった。


 最後の荷物は今朝、業者が運び出していった。分厚い本棚も、革張りのソファも、もうない。床に置かれたのは、キャリーバッグひとつだけ。これが、オレの「東京での生活」の残骸だった。必要なものはほとんど処分した。持っていく必要があると思ったものだけを厳選して詰め込んだら、意外なほど少なかった。

 パソコンとカメラ。数枚の衣服。DIY用にと事前に買い込んだ作業着と軍手。

 それだけあれば、十分だと判断した。


 冷蔵庫も空だ。最後に残っていた缶ビールを、昨夜ひとりで飲み干した。苦味と一緒に、長年の東京暮らしに幕を引いたような気がした。

 時計を見る。午前八時半。

 そろそろ出ないと、新宿駅のあずさには間に合わない。


 玄関に立つ。無駄に広いエントランスの大理石の床に、革靴の音が乾いて響いた。鏡に映る自分をちらりと見る。アラサーに差しかかり、目の下の隈は前よりも濃い。だがその奥には、不思議な晴れやかさが宿っていた。

 「これでいい」

 小さく呟いて、ドアを閉めた。

 カチリという鍵の音が、オレと東京との縁を断ち切った。


 エレベーターで降りる間、耳が詰まるような感覚がした。ガラス張りのロビーに出ると、コンシェルジュが「田原様、本日で……」と声をかけてきた。オレは軽く頭を下げただけで答えなかった。言葉にした瞬間、余計に感傷的になりそうだったからだ。

 タクシーを呼び止め、キャリーバッグをトランクに放り込む。シートに腰を下ろすと同時に、もう二度とこの場所に戻ることはないのだと確信した。


 車は首都高に乗り、新宿方面へと走り出す。

 ビル群が後ろへ流れていく。東京という街のざわめきと喧騒が、窓ガラス一枚の向こうで響いている。オレはそのざわめきに背を向けながら、これから向かう野辺山の空気を想像していた。

 澄んだ空。白い息。木々の匂い―自然な景色、そして息遣いだ。


 新宿駅のホームは、朝から人の波でごった返していた。スーツ姿のサラリーマン、旅行カバンを引いた観光客、買い物袋を提げた主婦らしき人々。改札を抜け、特急あずさの乗り場に向かうと、ひときわ高揚した空気が漂っていた。都会を離れる人間たちの、微かに弾むような気配。

 オレは指定席のチケットを片手に、深呼吸をひとつした。


 列車がホームに滑り込む。白地にブルーのライン。学生時代に何度か利用したことはあったが、今日はまるで違う意味を持っていた。あの日々は「それまでの日常の延長」でしかなかったが、今日のこれは「人生の転換」だ。


 シートに腰を下ろす。キャリーバッグを網棚に上げ、スマホを機内モードにする。

 ――もう、東京で受け取るべき電話はない。

 会社を退任してからの数週間、株主やビジネスの関係者から山ほどのメールやメッセージが届いた。「本当に辞めるのか」「次はどんな事業を始めるんだ」……。だがその一つ一つに、答える気力はなかった。

 ただ、「終わらせたい」と思った。それがすべてだった。


 列車はゆっくりと新宿を抜け、都会のビル群の間を走り出す。しばらくすると高架から見える風景が住宅街に変わり、やがて郊外の緑が混じり始めた。

 オレは窓に額を寄せて、流れる景色をじっと見つめていた。


 あの頃――学生時代。

 夏になると、清里の大学山荘に泊まり込みで合宿があった。標高の高い空気、夜になると手を伸ばせば掴めそうな星空。都会では味わえない静寂。あの体験が、オレの心にずっと引っかかっていたのだと思う。

 社会に出て、起業して、走り続けるうちに、その記憶は奥に押し込められていった。だが、限界まで突っ走ったとき、ふと蘇ったのは「もう一度、あの空気を吸いたい」という欲求だった。


 甲府盆地に差しかかると、車窓は一気に開けた。ブドウ畑が広がり、遠くには南アルプスの稜線が霞んでいる。太陽の光が反射して、きらめきの海のようだ。

 隣の席の老夫婦が「ほら、今年は葡萄の色づきが早いね」と微笑み合っている。そのやり取りが、ひどく眩しく見えた。オレには、ああいう時間が欠けていた。成功も、金も手に入れたという錯覚はあったが、結局「人と分かち合う瞬間」を見失っていただけだったような気がする。


 やがて特急あずさは定刻どおり小淵沢駅に滑り込んだ。

 扉が開いた瞬間、むっとした夏の盆地の空気が流れ込んでくる。新宿を出たときの湿気とは違う、山に囲まれた土地特有の濃厚な匂いだ。空気に草の青さが混じっていて、肺の奥に染みていく。


 キャリーバッグを引きながら、跨線橋を渡り、小海線の乗り場へ向かう。

 ホームにはディーゼル車両が一両、ぽつんと停まっていた。鮮やかなオレンジと緑のツートンカラー。都市の速さから切り離されたようなその姿に、思わず足を止めて見入った。

 「これからは、こういうスピードで生きるんだな」

 そんな言葉が自然に浮かんだ。


 車内に入ると、乗客はまばらだった。観光客らしい若いカップルが窓際で地図を広げている。地元の高校生だろうか、イヤホンをしたまま窓の外を見つめる少年もいる。オレは適当に空いた席に腰を下ろした。シートは擦り切れていたが、その素朴さが逆に心地よかった。


 ディーゼルエンジンが低く唸り、ゆっくりと列車は動き出した。

 最初は緑の田畑を縫うように走っていたが、すぐに登りがきつくなる。窓から吹き込む風が少し冷たくなり、耳が詰まる感覚に気づく。標高が上がっている証拠だ。


 オレは窓を開けてみた。

 湿った夏の匂いが、徐々に乾いた高原の匂いに変わっていく。土と草木が混じった清々しい風が、頬を撫でた。思わず大きく息を吸い込む。

 ――ああ、これだ。

 学生時代に清里で感じた空気。この透明感。この冷たさ。

 オレが求めていたものは、やっぱりここにあったんだ。


 視界の先に、八ヶ岳の稜線が見えた。さすがに7月になると残雪など残っていない。夏の空にくっきりと赤岳が浮かび上がっている。その堂々たる姿に、胸が熱くなった。

 都会で過ごした三十数年の重みが、じわじわと剥がれ落ちていくような感覚がした。


 「オレは、何を守りたかったんだろうな」

 思わず口の中で呟く。

 上場を果たした会社。投資家への説明。株価の推移。キャストの疲弊。

 結局、誰のために走っていたのか。

 あの時は「仲間のため」と信じていた。でも、気づけば誰も笑っていなかった。数字と資料だけが積み上がり、人の表情はどんどん曇っていった。


 小さな無人駅をいくつも通り過ぎるたびに、心の奥の雑音が少しずつ遠のいていく。

 DIYなんてやったことはない。でも、そういう時間の使い方が今のオレ自身には一番必要な気がしている。


 列車は緩やかな坂を登り続け、やがて車窓の外に、見慣れない光景が広がっていった。

 空が――近い。

 山の稜線よりもさらに上、濃い群青を思わせる夏の青空が、頭上いっぱいに広がっていた。


 アナウンスが「まもなく、のべやま」と告げる。日本国有鉄道最高地点を超えるともうする駅だ。

 胸が自然と高鳴った。耳の奥がまだ少し詰まったような感覚が残っている。標高は一三〇〇メートルを越えているはずだ。


 ガタン、と列車が減速し、やがてホームに滑り込む。

 扉が開いた瞬間、夏にしては少しひんやりした空気が頬を打った。

 思わず深呼吸をする。肺の奥まで染み込むような透明感。東京の湿気を含んだ空気とはまるで違う。

 流石に7月になれば野辺山といえども吐く息が白くなるような気候ではない。それでも七月の真昼間とは思えない清々しい空気に、思わず笑ってしまう。


 ホームに降り立つ。

 そこは、驚くほど静かだった。

 遠くで鳥の声がして、小川のせせらぎのような音が微かに届いてくる。空気の層が厚いのか、音のひとつひとつが澄み切っている。

 見上げれば、八ヶ岳の稜線がどっしりと構えていた。青空に溶け込むように連なり、雄大な影を大地に落としている。


 キャリーバッグの取っ手を握り直す。

 ここが、これからのオレの生活の舞台だ。

 タワマンの三十階から見下ろした東京の街並みよりも、この無人に近い高原の空気の方が、よほど「生きている」と感じられる。


 駅舎の小さな木のベンチに腰を下ろした。

 背中を預けると、ひんやりとした木目の感触が心地よい。

 ここから始めよう。淡々と。マイペースで。


 ――さあ、行こう。

 オレは立ち上がり、キャリーバッグを引いて、駅前の小さな道に踏み出した。

 野辺山の空気は、これからの物語を歓迎するように、澄んでオレの頬を撫でた。


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