現状打破
日曜日、加賀はスマホのマップを頼りにマンションへたどり着いた。十階以上積み重なっていそうな建物を見上げていると、エントランスから藍が出てきた。
藍の後ろを歩き、エレベーターで十二階に昇る。1208の部屋に招かれ、床のクッションを勧められた。
「椅子とかソファ無くて。でも、それ座り心地いいから」
藍がキッチンへ歩いていく。手持無沙汰で部屋を見渡すが、特徴的なものは無い。むしろ、無いことが特徴といえそうだ。ここにあるのは、小さいテーブル、座るクッション、背の低い冷蔵庫、分厚いカーテン。家具と呼べそうなものはそれだけ。あとはティッシュぐらいだ。
「殺風景だろ? ほとんど実家に置いてきたからさ」
ペットボトルのお茶を差し出して、藍は加賀の向かいに座った。
「実家」
加賀がただ同じ言葉を呟くと、「そう実家」と藍は話し始めた。
「僕の言う実家って、祖父母の家。いろんな場所を転々とさせられたけど、一番長く居たし一番居心地良いからね」
「それでここに。なんで?」加賀が尋ねた。
「たまたま。いつまでもばあちゃん達に甘えてられないし、自分なりに自分のこと、しようと思って。しいて言えばフィーリング」
けらけらと笑って見せる藍に、加賀は誤魔化されていると感じた。
「いつ頃来たんだ?」
「今年の、三月ごろ。引っ越しのピークで、大変だった」
加賀は「へぇ」と返しながら、どうやって踏み込むべきか考えていた。すると、あの言葉が聞こえた。
「ごめんね。小学生の時、引っ越し先も伝えられなくて」
聞く回数が増えるほど、同じ声に聞こえてならない。
「もう何回目だったか、引っ越しのたびに僕が駄々をこねて手こずってたみたい。それであの時は僕に教えられたの、一日前でさ。土曜に言われて必死に荷造りして日曜に」
多分、そうなんだろう。加賀が自分の考えに結論を出し、質問を投げかけようとしたとき。
「ね、覚えてる?」
「えっ」
「僕が引っ越した時のこと。泣いてくれた?」
藍が尋ねてきた。「僕は泣いた」と言われ、加賀は昔のことを思い返した。
放課後、鉄橋下へ向かうといつも藍は座り込んでいた。加賀も見かければ隣に座り、もらい泣きしていた。
その日、加賀が初めて藍を見つけられなかった日。加賀が鉄橋下を訪れたのは、夕暮れになってからだった。
「あのさぁ、みんないつも変な公園の話してるよね。ありぢごくとか、なんとか」
分かれ道の手前、加賀はそう切り出した。一緒に歩いていた同級生たちが「あそこな~」と返した。
「確かに広いし、ちょっと変なのもある! でも、けっこう飽きてきちゃってんだよな」
「あそこ以外にいくとこねーもん」
「しょうがない」
みんなが今日何をするか話始めた。鬼ごっこ? かくれんぼ? 何でもいい。もうすぐ、俺はこっちと言って別れなければならない。
黙ったまま、分かれ道に着く。声をかけない加賀にみんなが視線を向けた。
「今日、俺、時間あるから」
加賀がポツポツと声に出していく。一人が「じゃあ」とにっこり笑った。
「和那も遊びにいこーぜ」
「和那がいたら遊びも増やせるかも」
「現状打破! 現状打破!」
「なにそれ~」
加賀は初めて右に曲がった。
くたくたになるまで遊んで、みんなと別れて、加賀はその足で鉄橋下に向かった。体はすでに帰りたい状態だったが、このことを藍に話したくてしょうがなかった。
人から見ればつまらない事かもと思うが、加賀の心は藍に出会ってから一番踊っていた。この嬉しい気持ちを話にすれば、藍も微笑んでくれそうな気がしていた。
日が暮れ始める中、加賀は目的地に着いた。いるのはランニングや犬を連れて通り過ぎる人ばかり。座り込んでいるランドセルを探して二周ほど歩き回ったところで、立ち止まった。
いない。加賀はそう結論づけた。明日はいるかもしれないしと思い、どこかつまらない気持ちを抱いて帰路に着いた。
そのまま、藍のいる日は来なかった。心残りは解消されることなく、空いたまま昔の事になっていた。
「泣いてはないな、俺」
加賀は記憶のままを話した。その答えに藍は苦笑いをした。
「僕、あんまり印象に残ってなかった?」
「いや。数日は『次はいるだろ』って思ってたからさ、悲しいっていうよりポカーンとしちゃった」
「なんにも言ってなかったからね、そりゃそうか」
「うん、でさぁ」
加賀は藍の目を見た。意図が分からないのか、藍は眉を下げた。
「なんか、変わったことない?」
「えぇ? なんだろ」
わざと的を避けた質問では困惑した答えしか返ってこない。
「じゃあ、俺たちさ。この街で会ったのは今で二回目、これは正しい?」
そう尋ねると、藍は笑った。
「よく見てる、僕のこと。ほっとしたよ」
「質問の答えは?」
「正しくないよ。間違ってる。この街で会うのは、四回目だ」
ああ、と加賀は腑に落ちた。やっぱり同じ声だった。だが、目の前に予想外の顔をした藍がいる。
「なんで笑ってる?」
「嬉しいから。和那が自分で気づいてくれてね。案外、気持ちの面は釣り合い取って終われそうだって」
「何の話? 俺たち、戦ったんだぞ。倒すつもりだった、倒されるところだった。笑えるとこなんてない」
言い終わって、声に力が入っていたことに気が付く。苛立ちを押さえようと、目を逸らした。
「ごめん、笑ったのは僕が無神経だった」
沈黙が流れた。疑問が解消したのは良い。だが、戦った事実は変わらない。また同じことが起こったらどうなるのか、簡単に予想がついて考えたくない。
「僕は」
藍が口を開いた。
「戦うためにきたよ。自分より強い相手と戦って終わらせるために。その相手は君だ、和那」
言葉が出なかった。
「どう説明したらいいかな。君の知識にもよるんだけど」
加賀の瞳が揺れる。何を言われるのだろう、不安だ。
「ドライブ行こっか」
「はっ?」
そのまま手を引かれ、加賀は外に連れ出された。駐車場に止まっているオープンカーの助手席に押し込まれ、混乱したまま車は走り出した。
「大事な話してたよな俺たち。なんで走ってんの?」
風に吹かれながら加賀は尋ねた。はぐらかされたようにも感じるが、風は気持ちいい。
「説明するだけじゃあ分かりにくいんだ。自分でも理解に苦しんだことだしね」
鼻歌を挟みながら、「走ってればそのうち」と藍は返した。そのうちがいつ来るのか見当がつかない加賀は、グッと背もたれに体重を預けた。シートが体にフィットする。窓から見えるボディラインもかっこいい。
「いい車でしょ」
藍が自慢げに言った。エンブレムを見てピンと来るくらいには名のある車だった。
「うん。これ自分で?」
「いいや、両親が選んで買ってくれた。僕が小学生の時だから型は古い」
「え!」
「驚いたよね。僕も。『車欲しい』って僕のじゃなくて、みんなで出かける用のだったんだけど、伝わらなかったみたい」
「それは、意思の疎通が取れてないな」
「まあね。本当はたくさん人が乗れて、荷物もいっぱい乗る車が良かった。和那の家族みたいに。今となっては、気に入ってるけどさ!」
車が海沿いに出た。実家のデカい車に野球道具を詰め込んで、藍も一緒に父親の草野球を見に行ったこともあったな、と思い出す。途中で飽きて、二人で近くの海浜公園まで行って下手なキャッチボールをした。
「あ」
運転席から藍の声が漏れ聞こえた。顔を見ると、目を細めている。
「眠い?」加賀が尋ねた。
「和那」藍の声が重い。「この先の浜辺に行こう。そこで起こることをよく見ていて」
車を止め、砂に足を取られそうになりながら水辺へ近づく。風が冷たく、人気もない。岩場に一人の釣り人が腰かけている程度だ。
「うッ」
藍は胸を押さえながらも、心配顔で寄り添う加賀を遠ざけた。
「危ないから、落ち着くまで離れていて。僕の視界に入らないように」
「なんで」
加賀が問いかけるが、藍の視線は動かない。据わった目の先は釣り人を捕らえていた。
藍の体がグッと前に落ちる。加賀は一歩分の距離を踏み出して手を伸ばした。だが、支えようとした手をすり抜け、藍は飛び出した。
「藍!」
後ろ姿はすでにトメノウのものに変わっていた。まっすぐ釣り人に飛び掛かっていく。加賀も人の脚で後を追った。
追いつけない。加賀の二・三歩の内に藍は釣り人の視界へ飛び込んでいた。異変に気が付いた釣り人が羽のトメノウと対面する。
身の危険を感じたのだろう。釣り人は竿を放棄し立ち上がった。羽を前に防衛手段を取る。
「トメノウ!」
驚きから声が出た。釣り人の棘が生えた腕と羽の剣がぶつかる。
「やめろッ!」
加賀の叫びむなしく、二人の攻防が始まった。止めなければ。何もしていない相手を、藍に害させるわけにはいかない。
ポケットをまさぐる。次にボディバッグを広げた。銃を探すなか、先日狭山に預けたままだったことを思い出した。
あの二人に割って入れる術がない。大学の戦いを考えれば、銃があっても出来たか怪しいものだ。無力感に歯を食いしばった。
それでも、加賀は走った。
「ぐあッ」
釣り人が大きく吹っ飛ばされる。また加賀と距離が離れていった。一歩を大きく、脚を速く回して追いかける。それでも羽ばたきの速さには届かなかった。
放物線を描きながら徐々に固まっていく釣り人の体。それが地面に落ちる前に、羽の剣が砕け散らせた。
破片を浴びながら羽が着地する。姿がゆがみ人の形へ戻った。立ち尽くす藍に、息を切らせて乾いた口では何も言えなかった。
「ね。僕のこと、倒したほうがいいと思わない?」
目を伏せて、ポツリと呟くように藍は言った。ゆっくり落ちてきた塵が肩に積もっていった。