昔々
一年ほど前、男は研究所にいた。首には「狭山 鉄」と書かれたプレートを下げ、白衣を羽織っている。
廊下を進むと、ドアに遮られた。狭山はパネルに指を押し付け、指紋を読み込ませる。「登録者・狭山鉄を認証しました」と言って開いたドアを、開いたそばからすり抜けた。
エレベーター、ゲート、部屋の扉、あらゆるものに指紋を読ませ、時には目の虹彩も読み取られて、狭山は最後のエリアに着いた。
「遅かったんじゃあないか、狭山くん」
「申し訳ありません、所長」
狭山は頭を下げたが、所長はこちらに背を向けたまま研究対象のケースに向き合っていた。
二枚のガラスの奥。それは石のように佇んでいた。広い空間の中央に鎖で縛りつけられ、ピクリともしない。ただ赤い両目だけが、生気を感じさせる。
そんな視線を受けながら、二人はコンピュータに向かった。所長はいくつか画面を開くとため息をついた。
「やはりデータの集まりが悪すぎる。私の手ですべてを、とまでは言わんがね」
「ですがこれでもリスクを冒して収集しています。それに現状の結果からみれば、むしろ方向性の転換を」
狭山がそこまで言うと、所長は「ふふん」と鼻を鳴らしそのまま鼻歌を始めた。狭山は口をつぐんだ。
ボトルの中で液体が揺れる。所長の瞳が揺れ、ピンク色の物質が入った瓶を手に取った。
「方向性は正しいよ、間違いなくね。人類は進化への道を辿っている」
狭山の頭には疑念が渦巻いた。その時、ジッと空気が揺らぎ、耳を裂いた。
ジリリリリリ!
「火災報知機の音です!」
狭山が告げると、所長の指示が飛ぶ。
「君は状況の確認を。出火地点を確認し避難誘導を行うように。私はこの部屋を隔離してから出る」
所長はデスクの上を忙しなく見渡し始めた。狭山は「了解しました」と返して、彼に背を向けた。
駆け足で扉を進んで行くにつれ、人の声が方々から響いてくる。一つ先のゲートから「狭山さん!」と研究員が走ってきた。
「火災の状況は?」狭山が尋ねる。
「火元は四階の角部屋のようです。現在、避難誘導アナウンスで順次避難中。三階は避難を完了させて防火扉で封鎖中です」
「そうか、このまま慌てずに全職員を建物外へ。消防への通報は済んでいるな?」
「はい、所内の避難のめどが立ち次第、周辺へもアナウンスを」
その会話へ割り込むように、大きな音が言葉を遮る。
ドゴォン! 同時に衝撃で足元が揺らいだ。
「君は現場で指揮を執り、避難の加速を! 私が警備室で現状を確認する」
研究員が「わかりましたッ!」と走りだすのを見届け、狭山も駆けだした。
警備員は避難誘導に出払っている。空の警備室のコンピュータに狭山は指示を与えた。
並んだモニターに次々と光が点る。上段のモニターは煙が空気に揺らぐ様子が映るだけだったが、その下には炎と防火扉が映った。
三階の映像だ。狭山はコンピュータに、生きている三階の防犯カメラの映像全てを映すよう指示を出す。廊下、室内、物置、あらゆる場所の映像に火が回っていた。
防火扉を閉めるのが間に合わなかったのだろうか。まともに火をせき止めているのは二階へつながる階段の防火扉だけだった。
狭山は考えた。この火事は一体、どこまで大きくなるだろうか。この研究所を丸ごと飲み込んでくれるだろうか。あの、最終エリアでさえも。
頭を巡らせながら目を通していたモニターに、狭山は大きな音の原因を見つけた。三階端の防火扉が破けている。床まで到達している扉のど真ん中が裂けて、上階から火を受け入れてしまっていた。
どうやら火元は相当に強いらしい。何らかの薬品か機具か、あるいはそれ以外。反応を起こして爆発したようだ。
きっと燃える。狭山はそう思った。
コンピュータに文字列を入力する。「狭山 鉄のアクセスを認証」という表示がされると、各部門への入り口が現れた。当然そこにあのエリアの情報は無い。だが、所内のコンピュータはネットワークで繋がっている。浅い部分からでも辿っていける。
狭山はコンピュータに外部メモリを差し込んだ。警告のポップアップをデリート、メモリ内のファイルに掛けていた鍵を外し、ファイルを警備室コンピュータに移す。
「このファイルはウイルスに感染している可能性があります。ダウンロードは推奨されません」
真っ赤な警告文を無視して、狭山はファイルを各部門のコンピュータに送った。送信が完了すると、次に狭山は自身のアクセス権限で命令をした。
「全データを消去」
画面の「本当によろしいですか」に三度「はい」と返して、狭山は警備室を抜け出した。
「人間の肉体をトメノウへ変化させる」
加賀は息をのんだ。
「その薬は私にとって望みとかけ離れたものだった。膨大な力を手に入れても、変化に耐えきれず自壊したり暴走状態に陥ったり、私の望んでいた肉体の再生技術としては、とても使えたものじゃなかった」
「だからデータを消した?」
加賀はその男、狭山に尋ねた。気分は元凶と対峙しているようだった。
「そのはずだった。だが、半年前からこの街に、薬で生まれたトメノウの暴走状態に近しい状態のトメノウが現れ始めた。誰かが、新たに薬を作っている」
狭山は加賀に向き直り、頭を下げた。
「私は薬を根絶したい。手を貸してほしい」
加賀の頭に狭山の言葉が蘇る。「トメノウは人だったもの」同時に広場で初めて出くわしたトメノウのことも。ひどく怯えていて、その反動なのか見境なく暴れていた。
「元に戻すことは?」加賀は尋ねた。
「出来ない」
狭山は断言した。
「それでも協力してほしい」
そう言い切る狭山に、加賀は大きく呼吸をした。トメノウを倒したことを思うと心が揺らぐ。これで「覚悟」を問われようものなら答えに困る。だが、大樹を助けたかったのは確かだ。何度同じ状況が訪れても、トメノウのことを知っていたとしても、助けに行くと思う。
「薬をばらまいている人を探して、止める。暴れているトメノウがいれば、それも止める。俺がやるのはその二つです。いいですか?」
加賀の答えに狭山は頷いた。
後日、喫茶クロエ。窓際の席で篤太郎が湯気の立つコーヒーを飲んでいる。加賀はキッチンで鍋をかき混ぜていた。そこへ「ボロボロボロ」と排気音が近づいてきた。
「バイクで開店待ちかァ?」
珍しいと篤太郎は窓をのぞき込んだ。
「それ多分、俺の迎えです」
加賀の言葉に「同級生か?」と尋ねる篤太郎。加賀は「ちがいます」と答えた。
「変わった連れだ」篤太郎は窓のブラインドを下げた。「つるむ相手は自由だが、調べられることは何でも調べとけよ。自分の為にな」
加賀は火を弱めて椅子に腰かけた。篤太郎の呟きを受けて、加賀はスマホで地図を開く。大樹の住む団地のすぐ脇には「瓜巣生物研究所」とあった。
瓜巣生物研究所のWebページ。研究成果がつらつらと並ぶ中、所員紹介の項目を開いた。初めに所長、瓜巣典秋。次に副所長、各部門の長が並ぶ。狭山鉄の名前は所長補佐となっていた。
トメノウの研究に関わっていたのは所長の瓜巣と狭山だけと聞いた。当然、ネットに載っているわけもなく、所長については過去に存在した古生物の研究が大きく表示された。狭山は細胞の研究が実績として載っている。
「時間だ」
篤太郎の声に顔をあげた。「あと五分ありますよ」
「もう仕込み出来てんだろ。着替えてこい」
加賀は時計を確認して「じゃあ失礼します」と立ち上がった。
荷物を担いで喫茶の外に出ると、バイクにまたがった狭山が待っていた。狭山はゴーグルを装着して、加賀にヘルメットを渡す。
「このまま研究所へ向かっても?」
狭山が尋ねた。加賀はメットを被り、バイクの後部に乗り込みながら「どうぞ!」と答えた。
バイクが風を切る。「瓜巣って人」と声を出してみたが、かき消された。
公園で遊ぶ子ども達の視線を受け流し、二人は研究所裏へ着いた。
「人が集まるといけない。私は移動する」
加賀を降ろして狭山は再びバイクに乗った。
「電波が届く限りカメラとマイクで支援するが、危険を感じたらすぐに退避してくれ」
ひゅうッと走り出し、再び子どもの視線を集めて去っていった。
加賀は一人、坂を下りていく。上着の中で銃に手をかけながら、犬の怪物が出てきた穴までたどり着いた。胸の高さほどある隙間は屈めば無理なく入れそうだ。
「認証」スイッチを押し込みながら中へ滑り込む。「装甲展開」
装備から光が漏れている。塵がふわふわ浮き上がった。
「何も見えね~」
窓もなく、当然照明もなく。細く差し込む日光がむしろ崩れそうな不安を煽る。
「すまないな。視界を補助する機能は無い」
耳の下あたりから狭山の声が聞こえた。彼もカメラを通して様子を把握しているようだ。
「じゃ、スマホ」
右脚の付け根に手を当てると、その部分の装甲が周りにずれた。露出したズボンのポケットからスマホを取り出す。「便利」
「装甲展開・収納の応用だな。生身を晒すことになるから周囲を警戒してくれ」
狭山の解説を聞きながら、加賀はスマホのライトを照らした。
「うわぁ」崩れた壁、転がる棚、こびりつく黒いスス。
「そこから右手に進んで、地下へ」
狭山に従って右に。床に散乱する黒い物品たちを避けて歩く。
ライトがぴかっと反射した。目の先に加賀の姿が映る。ガラス製の自動扉が立ちふさがっていた。
「開いてる」
扉は人が一人通れる程度の隙間をもっていた。
「これが普通ですか?」加賀が尋ねた。
「いいや、通常閉じている。火事の時に壊れたか、誰かが開けたか」
狭山は続けた。「あの薬を作っている以上、相手はここに立ち入った可能性が高い」
話を聞きながら進んで行くと、下へ降りる階段が見えた。その手前の扉は枠から引きはがされ、ねじ曲がっている。
「人の仕業ではないな。気を付けるんだ」
狭山による再三の注意を受け、加賀は物陰に身を隠しつつ足を進めた。らせん状の階段を下ると小さな光が見えた。ランタンの形だ。
身をかがめて手元の光を消す。暗くなったスマホをポケットに入れようと手を下げた時、画面に影が映った。
「うッ!」
スマホを上に放り投げ、自分は体ごと下に転がり落ちる。先ほどまでしゃがんでいた場所の踏板がへこんでいるのが見えた。
立っているのは犬だ。力んだ爪先が手すりと擦れてギギギと耳障りな音を出している。右手には壁、加賀は即座に左へ飛びこんだ。
犬は加賀の跡を追うように、階段の下に着地した。二人の距離は一歩踏み込めば拳が届く程度だ。
「グルルッ!」
犬の前足が襲い掛かる。とっさにガードした腕から、全身に衝撃が走った。
「くぅッ」加賀の声が漏れる。
次々とパンチを繰り出し、犬は加賀をガラスの壁まで追い詰めた。ガラスに背中が打ち付けられ、ゴンッと音。同時に加賀の顔が下に垂れていく。
「スゥ」と犬の一呼吸。
瞬時に、加賀の脚が上がった。息を吸った犬の腹にキックが突き刺さる。
ドガン! 吹き飛ばされ、転がる犬。部屋の端から端までに二人の距離が広がった。加賀は腰の銃に手をかける。犬に銃口が向き、標準が合った。
「うわッ!」
撃つ、という瞬間。加賀の体は持ち上がり、ガラスの壁を突き破った。体が床に叩きつけられる。
「それを渡してもらおうか」
加賀は声の主を見上げた。異常に盛り上がった胸、ヒレのような太い腕。
「トメノウだ」
狭山の声がする。二体のトメノウを前に、加賀の警戒度は跳ね上がった。出口の階段はすでに遠く、威力の高いブースト大砲は建物ごと壊しかねない。焦りが頭を鈍らせる。後ずさりするほどにチクチクと割れたガラスが擦れた。
スッと魚類のようなトメノウが腕を振りかぶった。加賀は銃を抱え込むようにして横へ転がる。
風が走った。転がり込んだ先で衝突が起こる。犬が、着地点へ飛び込んできていた。
「ぐッ!」
加賀は部屋の隅へ追いやられた。左右からトメノウが迫る。
カツン。そこへ音が鳴った。階段の方から聞こえてくる誰かの足音。トメノウ達の意識がふいに後ろへ向いた時。
「うらぁッ!」
低い姿勢から犬へタックルをかます。だが、犬を弾き飛ばした加賀の脇はがら空きだ。すかさず魚の巨大なヒレに狙われた。
そこへ。何かが飛んでくる。階段から一直線に空中を滑るように。それは剣をふるい、魚の腹を切りつけた。魚を押しのけ加賀の隣に立つ。
その姿は羽の生えたトメノウだった。
「君は」
魚が腹の傷をなぞりながら呟いた。体液は漏れることなく、ただ石を抉ったように跡が出来た。
「上へ」
羽のトメノウが言った。加賀がただ見上げると、彼は剣を天井に投げつけた。刺さった箇所から亀裂が入る。
「協力せぬのはともかく、邪魔をするとは!」
「貴方に興味はない」
魚と羽が言葉を交わす隙に、加賀は体の陰で銃を構えた。銃口を上に、刺さった剣を中心にして円状に狙いをつける。
スパパパパァン! 連射で塵が舞う。ピキピキと亀裂が広がり、ずるりと天井が抜けた。
魚と犬は落下物に足を引く。だが、羽は上に円状の穴が出来たと見ると、加賀の腹に手を回し掴んだ。
バキン、と天井を突き破り、羽は加賀を連れて上へと飛び去った。
二人が消え、犬は階段へと向かう。その背を魚は制止した。
「もういい。確実でないなら、ここで仕留める必要はない」
いずれ、邪魔は排除しなければならない。しかし、決定的でないのなら刺激は進化の糧になる。魚は自分の目的を胸に浮かべ、最終エリアを後にした。ガラスの壁は壊れ、すでに空となっている。
加賀を抱えたまま、走り飛ぶ。羽のトメノウは研究所の一番上、ガレキの山頂でようやく加賀を降ろした。
「これ」羽はスマホを差し出す。
「あぁ」そういえば投げたな、と加賀。「ありがとう」
とっさに放り投げた自分のスマホを渡され、加賀は困惑した。なぜスマホを? なぜ味方を? なぜ自分は馴染んでいる?
「あのさあ」
「ごめん」羽が遮った。「早くここを離れて。もう大したものは残ってないよ」
え、と続きを問いかける前に、羽は飛び去って行った。
「……加賀くん、二対一は分が悪い。撤退して情報を整理しよう。川沿いに進んでくれ、迎えに行く」
狭山の通信を聞き流しながら、加賀は地上へ飛び降りた。後ろを確認しながら研究所と距離を取る。装甲を収納して、銃を懐にしまうとゆっくりと走り出した。
加賀は考える。羽のトメノウに見覚えは無い。でも、同じく初めて見た魚のトメノウとは違うように感じた。それは彼が自分を助ける行動をとったから? 彼が天井をぶち抜いて逃げ道を作ろうとしていること、すぐに気づけたのは自分の勘が冴えていただけなのか? なにか通じ合うものが、と。
ブロロロロ! そこまで考えたところで、バイクが目の前に停止した。フルフェイスの男がこちらにヘルメットを差し出した。
「さぁ、急ごう」
狭山だ。顔はヘルメットでまるっと覆われていて見えないが分かる。加賀が渡されたヘルメットを被り後部に跨ると、狭山はバイクを走らせた。
声だ。姿は違っていても、声に聞き覚えがあるかもしれない。風を切る中で加賀は思った。
見覚えのない道を通り抜ける。少し時間をかけて、バイクは廃病院に着いた。たったと上へ行き、二人はパソコンの前に腰掛けた。
「通信が途絶えたのは地下へ降りてからだ」
狭山は机の上に散らばるケーブルのうち一つを銃につなげた。
研究所の薄暗い内部が画面に映る。キュルルと早送りしていくと、階段が現れてカメラは下を向いた。
「ここからだ」
狭山がモニターをのぞき込む。加賀は少し後ろから耳を澄ませた。
カツンカツン階段を下りる足音。カチ、スマホのボタンを押した音。そこからガラガラッと階段を転がり落ちた音がして、狭山が映像を止めた。カメラは上へ、真ん中に犬の姿が映っている。
「これは」狭山が画面に操作を加え、犬の姿を大きく映し出した。「二回目に戦闘をしたトメノウに似ているな。完全に同じとは言えないが」
う~んと唸る狭山に「戦った感じは一緒でしたよ」と加賀が告げると、「そうか。細かい映像分析は後にして、今は同一個体として考えてみよう」と映像を進めた。
ガンッと背中が叩きつけられ、息遣いを挟む。ドガン、ゴロゴロッと加賀の反撃が決まり、カチャと銃を構えたところ。バリン!
「それを渡してもらおうか」
ピタッと画面が止められた。狭山が頭を抱えている。映っているのは声の主、魚のトメノウだ。
「何か?」加賀が尋ねる。
「いや……」狭山はふぅと息を吐き、眉間を押さえた。
「困ったフラッシュバックがね。何が引っ掛かったかは、あとで考える」
それから、狭山は加賀の戦いをジッと見つめた。時折、「どちらの力が強かった?」などと尋ねてきて、加賀が返答をしていると。
ヒュウッと風を切る音。映像が止められる。
「羽の生えたトメノウか」
新たな人物で画面へ夢中の狭山に、加賀は頼む。
「一回、先に進めてもらえますか? 彼の声を確かめたいんです」
「ん? あぁ分かった」狭山は了承した。
画面が動き出す。「君は」と魚の問いかけ。
「上へ」
羽が加賀に言った言葉が流れた。だが、短くて一瞬で過ぎてしまう。また魚との会話があり、「貴方に興味はない」と彼の声。
その先にも加賀との会話が流れたが、具体的な人物が思い浮かぶことは無かった。ただ、「ごめん」に親しさと疑問が残った。
夕暮れ。加賀は歩いて自宅に着いた。アパートの一室、暗い部屋に黙って入っていく。電気をつけて郵便受けを覗き、リュックを置いて洗面所へ。
手洗いうがいを済ませて鞄からスマホを抜き出すと、メッセージの通知が来ていた。ソファに腰を落ち着かせて文面を確認する。
「お兄ちゃんにハガキ来てた! 引っ越しの報告で連絡先も書いてあったから、写真撮って送っちゃうね~。現物は今度ウチに来た時に持ってってだって」
妹からのメッセージと送られてきた写真を確認すると、「加賀 和那様」の宛名で実家の住所が書かれていた。わざわざ実家に郵便とは誰からだろう、と次の写真へ画面を移す。内容は「お久しぶりです」と挨拶から始まった。
「ひとり暮らしを始め、生活にゆとりが出来たので、お会いできればと思い筆を執りました。僕に覚えがなければ、この手紙のことは忘れて気になさらないでください」
筆ではなく鉛筆で書かれた文の最後には、「迫田 藍」の署名と090から始まる電話番号が記されていた。
「藍色のアイ?」
あい、あい、と昔馴染みの顔を思い浮かべてみるが、「アイ」が当てはまる人物は無い。
「他の読みはラン、あ」
ランで思い当たる顔が一つあった。名前の漢字はおろか苗字すら知らないが、すぐ番号をスマホに打ち込んだ。
トゥルル。呼び出し音が鳴る間、人違いだったらどうしようが頭をよぎった。
「はいもしもし」
イメージしていた声と違う。
「え~っと加賀です。うちにハガキくれたおった? さこた? 藍さんですか」
加賀はハガキを眺めながら尋ねた。
「さこたです。和那、くんで合ってますよね?」
「はい」
「そっか電話ありがとう。僕、苗字変わったんだ。書いておくの忘れてた」
「ごめん苗字はすっかり忘れてた」
スピーカーから「ふふ」と笑い声が漏れてきた。加賀も口角が上がって「ごめんって」と笑いながら返した。
「そういや引っ越したって、どこに? ハガキに書いてないけど」
「葉中のマンション。和那の家から少し離れてるでしょ」
「いや、離れてねーよ? 俺も今ひとり暮らしで葉中に住んでる」
時刻は夕方十七時。二人は待ち合わせを取り付けた。