スフィア・ホワイトレイ
ゼーグ島の最南端。
海が一望できるこの場所に、歴代の長達が眠る墓地がある。
天気の良い昼下がり、ダリルはとある墓石の前に跪き、持っていたカサブランカの花束を供える。
「シリウスが結婚した」
ダリルは呟きながら、墓石に掘られた文字を指先で撫でる。
『スフィア・ホワイトレイ』
18歳でこの世を去ったダリルの妻にしてシリウスの母。
「今の私があるのはお前のお蔭だ。ありがとう」
海から上がってくる風がダリルの前髪を優しく揺らした。
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「もう一度言って頂けますか?」
スフィア・ブラックレイは目の前の医師に聞き返す。
ダリルとの婚約発表を10日後に控えたこの日、ここ数日続く体調不良の為に病院に足を運んだスフィアは、医師からとんでもない言葉を聞かされる。
いつもは自信に満ち溢れたコバルトブルーの瞳が不安気に揺れる。
「……残念ながら魔力逆流症です」
「ま、魔力逆流……」
スフィアの身体から力が抜け、椅子から崩れ落ちる寸前で侍女に受け止められる。
「父に、長に連絡を……」
スフィアの父は現ブラックレイの当主である。
長きに亘る歴史の中で、ブラックレイがホワイトレイ家当主に輿入れする機会は一度も無かった。
つまりスフィアの婚約はブラックレイ家初の快挙であり、一族の悲願でもある。
彼女は青白い顔で医師に伝えるのがやっとだった。
魔力逆流症。
未だ解明されていない病気の1つで、その名の通り魔力が逆流する病である。
特に魔力量の多い者に起こる病気で、現段階では治療法は見つかっていない。
完治しないまま魔力を消費すると病状が悪化し、あっと言う間に死に至る。
魔術師にとっては致命的な病気であったが、逆に魔力さえ使わなければある程度普通の生活は送れる。
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「婚約は解消された」
それから2日後、自室で安静にしていたスフィアに伝えられたのは無情な言葉だった。
スフィアの兄ケイレブは優しく目を細める。
「ここでも良いがもう少し自然豊かな場所で療養するといい。お前はよく頑張った。父上の許可も頂いている」
「……」
「今後は魔力を使わずに静かに暮らすといい」
ブラックレイはホワイトレイ家を守護する一族。
魔力を使う事の出来ない自分は、既にブラックレイの中で用無しとなった。
その事を実感したスフィアは悔しさの余り唇を噛む。
「魔法が使えなくともお前は私達の大切な家族だ。心配するな」
「婚約は……解消したくありません」
「……お前は何を言っている?」
「どうか、どうか解消の取消を父様にお願い出来ませんか」
スフィアは頭を下げる。
「…………」
「どうかお願いします、兄様」
「駄目だ」
ケイレブは息を吐く。
「我が一族はホワイトレイ家を守護する為に存在する。魔法も使えず子も成せない者をみすみす我が家から出せるものか」
魔力を持つ者は子にも魔力が遺伝する。
その為、妊娠後期になると胎児は母体からかなりの量の魔力を吸い上げる。
それは言わば魔力を使っているのと同じであり、母体にはかなりの負担がかかる。
つまりこの病を患った者が妊娠すると、高確率で出産間近に死んでしまうのだ。
もし万が一生き残れたとしても、二度と普通の生活を送る事は出来ないだろう。
「やってみなければ分かりません!私はブラックレイの中でも三本の指に入る程の魔力量です」
「お前、我が一族の名に泥を塗る気か?」
ケイレブは目を眇め、冷たい声でスフィアに言い放つ。
「いえ、いえ。決してその様な事では……」
「では一体どういう了見だ」
じっと睨まれてスフィアの額に汗が滲む。
「結婚はしません……出来ません」
「当然だ」
ホワイトレイ家の当主は、生涯1人の妻を愛し慈しむ。
自身が当主の期間、紋章に妻の好きな花を描かせるのもその表れである。
それなのに子が産めない、もし産んでも高確率で死んでしまう者を妻としてブラックレイから出す事など出来る訳はない。
それこそ忠誠心を疑われかねない。
たとえこの婚姻がブラックレイ一族の悲願だったとしてもだ。
「……ダリル様に子を生んであげたいのです」
「は?」
ケイレブは思わず聞き返す。
「私はダリル様に子を生んであげたいのです。それ以外は望みません。勿論妻の座など恐れ多い事です。どうか、どうか私の願いを叶えて下さい!兄様!どうか!!」
ケイレブは土下座するスフィアの姿を驚愕の表情で見つめる。
「……兄として問う」
長い沈黙の後にケイレブは口を開く。
「はい」
「……ダリル様は間違いなくお前を大切に思っている。だがそれは女としてではない。家族、妹としてだ。それでもいいのか?己を女として見ていない者の子を、命と引き換えにしてでも生むと言うのか?」
ケイレブの問いにスフィアは鼻で笑う。
「何を言ってるのですか?兄様。ダリル様は私の全てです。ダリル様の子を生む事こそが私の幸せ。ブラックレイ一族の悲願ではありませんか?それに今この時、ダリル様が一番大切に想っている女性は間違いなく私です。それだけで十分ではありませんか。ダリル様の御心が欲しいだなんて!兄様、傲慢もいいところです」
「…………分かった」
ケイレブはそれ以上口を開く事無く、スフィアの部屋を出て行った。
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結局婚約の解消は保留となった。
子を成す事はホワイトレイ、ブラックレイ双方に利がある為、2人は婚約状態のまま正式に婚姻せず、無事子が生まれた暁には男女どちらであってもホワイトレイ家に迎えられる事が決まる。
「お前、何を考えている」
カサブランカの花束を携え、珍しく不機嫌さを隠す事なくダリルがスフィアの部屋を訪れた。
ダリルが近くにいた侍女に花を渡すと、ベッドの側の椅子にドカッと腰を掛ける。
「体調はどうだ?」
「お蔭様でようやく落ち着きました」
「そうか……」
ベッドで身体を起こして座っているスフィアに向けて、ダリルはほっと息を吐く。
「婚約は」
「解消致しません」
「スフィア、お前」
「ですが婚姻は致しません。これからの人生、お側にお仕えする事が出来ず、申し訳ございません」
「止めろスフィア、そんな事はどうでもいい。一体何故こんな話を言い出した」
ダリルは苛立ちながら問う。
「恐れながら、ダリル様に生きる理由を差し上げたいのです」
「生きる理由だと?」
「これから先、あなた様に真の幸せが訪れるまで、何よりも愛しいと想える御方が現れるまで生きて欲しいのです。それが私の願いです」
「そんな事……」
ダリルは押し黙る。
幼い頃から共に育った2人は仲が良く、好みや趣味、性格までも互いの事をよく理解している。
2人は共によく笑い、よく遊び、よく学んだ。
だが、いつの頃からかダリルからすっぽりと感情が抜け落ち始める。
頻繁に遠くを見つめ、瞳に温度が無くなり、元々口数が少なく落ち着いていた性格が形を変え今や『冷酷』と囁かれるようにまでなっている。
今はまだ少し頼りないその肩に、想像を絶する責任が重くのしかかっている。
常に取捨選択を迫られ、表情をおおっぴらに出す事も許されない。
顔色を無くし、まるで人形の様になってしまったその姿はスフィアの目にはとても辛く映った。
日々を生きているのは、死んでいないから。
死ぬ理由がないから生きている。
そして側にいながら、自分では彼の心を癒してあげられない事も分かっていた。
「私はそんな事を望んではいない」
「私が望んでいるのです」
「スフィア。私はお前の幸せを望む事は出来ないのか?」
「私の幸せはダリル様のお側にのみあります。それ以外にはありえません」
「……っ」
「どうか、どうかお情けを。16年間お側にお仕えした私にご慈悲を。ダリル様の御子を生ませて下さいませ」
スフィアは頭を下げる。
「……また来る」
長い沈黙の後、ダリルは席を立って部屋を出て行った。
「……お許し…お許し下さい……」
1人部屋に残されたスフィアはベッドに倒れ込む。
嘘だ。
全くの嘘だった。
確かにダリルの為に子を生みたいと、彼の生きる理由を作りたいと思っていた。
今日、ダリルの顔を見るまでは。
「ああ……愛しているのです」
当たり前に側にいて、これからも当たり前にそうだと思っていた。
それなのに、その場所を別の女に取られるなど許容する事など出来るものか。
同年代で自分よりも優秀な女などいない。
だからこそ自分が婚約者に確定しているのだ。
どこの馬の骨かも知れない女が彼の側に立ち、そんな彼を遠くから見なければならない事実が我慢ならなかった。
彼が繊細で優しいのを知っているのは私だけ。
負けず嫌いで笑顔が可愛いのを知っているのは私だけ。
たとえ私が死んだとしても、存在を忘れ去られない為に彼の子を産みたい。
私と彼の血を受け継いだ子を。
彼に愛されたい。
抱かれたい。
そして子を生みたい。
何とおぞましく醜い独占欲。
「いいではないですか。妻の座は譲ると言っているのよ……」
スフィアは悔し涙を流しながら、いつかダリルの隣に立つであろう未来の女性を思い、自嘲気味に笑った。




