オリビアとの距離
ガチャンッ
乱暴にカップが置かれ、入っていた紅茶が零れる。
「つまり…?」
シリウスは言葉を続ける事が出来ない。
「つまり『死が二人を分かつまで愛し合う』という言葉を、オリビア様は誓いたくない、と」
リシューが代わりにミナに尋ねた。
「いえ、オリビア様の言葉を正確にお伝えするならば『誓いの言葉を変更出来たりしないのか』です」
「ふむ。同じ意味では?」
「……」
リシューの問いに、ミナはバツが悪そうに眉を顰める。
「他には何かおっしゃっていましたか?」
「そうですね。お独り言で、『最悪、誓わないっていう手もアリかな』と」
「誓わない、ですか…」
「……」
リシューは考え込む様に口元に手を添える。
「どのように変更したいのか聞きましたか?」
「いえ。ただ私では判断出来ませんので、リシュー様にその旨をお伝えします、と言っております」
「それならば明日にでもお聞きしましょう。オリビア様には明日、いつでも良いので執務室に私を訪ねて来て下さい、と伝えて下さい。それでいいですね、シリウス様」
「……ああ」
「ミナ、下がりなさい」
「はい。失礼致します」
ミナは一礼すると、シリウスの部屋を後にした。
「………」
「………」
リシューはチラリとシリウスを見る。
そこには完全に不機嫌になったシリウスが、そっぽを向いて座っている。
「振られましたかね」
「煩い」
「冗談はさて置き、まず何よりも理由を聞かねばなりませんね」
「…ああ」
リシューはキャビネットから年代物のワインを取り出し、グラスと共にシリウスの目の前に置く。
「私はこれで失礼しますが、寝酒は程々にしておいてください。明日から浴びる程飲む羽目になるかもしれませんので」
「黙れ」
リシューが部屋を出て行くと、シリウスは手元にあったワインのコルクを器用に抜いてゆっくりとグラスに注ぎ込む。
シリウスはそれを手に持つと、グラスの中で揺れる赤い液体をじっと眺めた。
「近付いたと思ったら、また離れるのか……」
低い声でポツリと呟く。
予感はしていた。
いつかは離れてしまうと。
いいや、違う。
これは諦めか。
いつか自分を置いてどこか遠くへ行ってしまうだろうと。
それは遠い未来の話なのだろうか。
それとも近い未来?
シリウスはグラスの中のワインを一気に呷る。
次を注ごうとボトルに手を掛けた時、不意に甘い香が部屋いっぱいに広がった。
手を止めて辺りを見回す。
するとシリウスは、窓際に置かれた鈴蘭の花が薄っすらと発光している事に気が付いた。
風も無いのに揺れる花弁と、部屋中に漂う香り。
シリウスは窓際に移動すると、花瓶から一輪の鈴蘭を手に取りくるくると指先で遊ぶ。
ふとカーテンの隙間から覗いた夜空には双子星が美しく輝いていており、シリウスは思わず目を細めた。
夜空を見て純粋に美しいと思う。
シリウスはオリビアと出会って、世界の色彩が明らかに変わったと感じていた。
この世界のあらゆる物が彼女と自分の世界を形成するかけがえの無いパーツなのだと知れば、全てが鮮やかに見えてくる。
頬を撫でる風もオリビアと一緒なら柔らかさとくすぐったさを感じ、暗いだけの夜空がこんなにも美しく感じる。
雨音が心地良く、雪の白さが眩しく見える。
草木が鮮やかに色付き、花々の美しさを改めて実感した。
シリウスは夜空から視線を湖に向けると、そこには愛しくて仕方が無いオリビアの姿があった。
湖面を滑るように歩き、美しい光を纏いながら踊る姿はもはや女神そのものだ。
シリウスは窓を開けようと取っ手を掴むが、そのまま手を止める。
そしてガラス越しにじっと彼女の姿を目で追う。
「愛してるんだよ。オリビア」
切なそうに掠れた言葉が、自分以外誰もいない部屋に溶けていく。
こんなにも胸が苦しい。
ねえ。
オリビア。
君も同じくらい、いや、少しでも私を愛してくれているのだろうか…。
オリビアがいなくなった後も、暫く湖を見ていたシリウスだったが、大きく息を吐くとカーテンを元に戻す。
それから持っていた鈴蘭を丁寧に花瓶に戻すと、自らのベッドに向かって歩き出したのだった。




