闇の精霊
「くそっ……一体何が起こっているのだ……」
直ぐに誰かに遭遇するだろうと安易に考えていたグレオだったが、半刻程城内を歩き回るも予想に反して誰にも会う事は無かった。
時間が早いにしても、流石に誰1人いないのはおかし過ぎる。
グレオは嫌な汗が背中に伝うのを感じながら、ふらつく足取りで式典などに使われるバルコニーに向かう。
あそこなら、ある程度王都の街並みを見下ろせる。
先程見た光景は、きっと何かの間違いだろう。
寝ぼけていたのかもしれない。
グレオは一縷の望みを胸に、ひたすら歩く。
静まり返った廊下に、彼の足音だけが響く。
王城はこんなにも広かっただろうか。
歩いても歩いても目的地に辿り着かない。
グレオは近くの壁に身体を預け、ズルズルとその場に座り込んだ。
やたら喉が渇く。
呼吸が速い。
まるで身体全体が心臓になったかの様に、痛いほど大きく脈打つ鼓動。
額には脂汗が滲む。
「はぁ……あれは、何だった?」
息を吐きながら力無く自問自答するグレオの頭には、先程からある言葉がチラつく。
「違う、違う違う違う違う違う違う違う違う」
グレオは頭を抱えながら、自分自身に言い聞かせるように呟く。
違う、違う、断じて違う!
あれが精霊の仕業などと!
『兄さん』
不意に彼の頭の中に、弟ルカの声が響いた。
グレオははたっと顔を上げる。
隣国に行ってから一度も会っていない弟。
手紙のやり取りすら無かった。
いや、こちらが書いても返事すら寄越さなかった薄情者だ。
元気にしているだろうか?
グレオは大きく息を吸って、ゆっくりと吐き出す。
次第に先程までの動揺は消え、平常心が戻ってくる。
「私は、私はこの国の王だ。問題無い。全ては上手くいく」
自信を取り戻し、胸を張ったグレオの頭の中に再びルカの声が響いた。
『本当に?』
「?」
『言ったでしょ?「これ以上サイファードにちょっかいかけると大変な事になるから覚悟しておいてね」って』
頭の中のルカがクスクスと笑う。
「ち、違う!あれは魔獣だ……そう!魔獣がやったんだ!!」
『本当に?』
「国境付近も魔獣の被害にあっている!その仲間だ!!きっと…そう、だ」
後半になるにつれ、グレオの声は小さく萎んでいく。
『国境付近って…街道の周辺だけでしょ?あの穴見た?王都全体を飲み込む程大きかったよね。そんな事、魔獣に出来ると思ってるの?もしそうなら簡単に国は滅んじゃうよね』
「……」
『分かってるんでしょ?』
「へ…ぇ…?」
グレオは力無く尋ねる。
それを見て、ルカはグレオに近付いて優しく囁いた。
『精霊の女王』
「違うっ!!!!!!!!!」
『あははははははははははははははははははは』
グレオはルカを手で払い、立ち上がって廊下を走り出す。
彼の背後でルカの笑い声が響く。
「違う違う違う違う違う違う違う違う………」
はぁはぁはぁはぁ
はぁはぁはぁはぁ
誰か。
誰でもいいから人に、人間に会いたい。
偶然が重なって、たまたま誰にも出会わなかった。
この不自然な状況が、ただの勘違いであってほしい。
グレオは目的地であるバルコニーの前に、ようやく辿り着く。
はぁはぁはぁはぁ
はぁはぁはぁはぁ
息を整えて額の汗を拭いながら、首から下げた懐中時計で時間を確認する。
執務の時間まで3刻もある。
問題ない。
きっとその時には、いつもの日常に戻っているだろう。
グレオは気を取り直して、ふら付く足取りでバルコニーに出る。
「気のせいだ、気のせい、だ」
自分自身に言い聞かせるように呟くと、望みをかけて王都の街並みを見下ろす。
しかしそこには、無常にも大きな穴がぽっかりと口を開いているだけだった。
グレオは無言でその場に力無く座り込んだのだった。
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『ソフィ、いい加減になさい。弟の部隊が壊滅してもいいのですか?』
「は~い。すみませ~ん」
タブレットから聞こえる冷たいリシューの声に、全く心がこもっていない女性の声が辺りに響く。
シルは聞き覚えのある声に、あからさまに眉を顰めた。
「じゃあ、いっきま~す」
軽い声と共に彼等の待機していた辺りが眩く光り、ドーム状の結界が出来上がる。
それと同時に、シェラの出現で感じていた圧や恐怖心が一瞬で消え去る。
「みんな~もう大丈夫~楽にしていいからね~」
いつの間にか現れたソフィが、結界の中央で騎士達に笑顔で手を振る。
跪いたまま恐怖で固まっていた騎士達は、その言葉に身体から力を抜き、地面に腰を下ろした。
「姉貴、お前いつからいたんだよ」
シルはソフィをジロリと睨む。
不機嫌の余り素に戻ったシルは、仕事モードの口調を完全に忘れている。
「え~ちょっと前からかな~」
「ちょっと前って……何してたんだよ?お前」
シルは呆れた顔で辺りを見回す。
既に張っていた物の外に、新しく張られた結界。
それは外からの干渉を一切受けない上に、心身共に回復している気さえした。
「先代からお預かりした魔石で結界を張ったんだよ~こういう状況を予想して、シェラ様から頂いた物らしい」
状況から先代、シリウス様、リシュー様が万全の対策を取って下さっていたのだろう。
シルは、自身の部隊の事をしっかりと考えてくれている主を、純粋に嬉しく思った。
だが……。
「……お前、結構前からいたくせに、わざと出てこなかっただろう?」
「え~~だってその方がシェラ様への免疫が更に付くでしょ?私は皆の事を思って、涙を飲んで出てくるのを我慢してたのよ~?」
悪気一切無しの返答に、シルはこめかみに青筋を立てる。
「四六時中女王と一緒にいるお前達と違って、こちらは元から免疫なんか無いんだよ!殺す気か!?」
「え~?酷い言われよう……男の子なら頑張ろうよう~」
およよよ、とソフィは泣いた振りをする。
シルはそんなソフィを無視して、騎士達の状況を確認する。
彼等は結界のお蔭か先程と違って顔色も良く、リラックスした表情でその場に腰を下ろし、眼下をしっかりと観察している。
先程まで泣いていたクロもけろっとしてシロの隣に立ち、穴から這い出てくる何かを興味津々で覗き込んでいた。
レオは映像の調整に、口笛を吹きながらタブレットを弾いている。
「状況が変わり過ぎて、頭が追いつかない…」
シルが呟くとソフィは可笑しそうに笑う。
「シェラ様は多分闇の精霊を呼んでいるの。みんなそれに感情が引っ張られていたんだろうけど、この結界は光属性なのよ。だから見事に打ち消して、おまけに回復も出来たわけ」
ソフィは自分の手柄かの様に胸を張る。
「闇の精霊……初めて聞くが…」
「詳しくは知らないけど、いるみたいだよ。負の感情が大好物みたい」
「へぇ…」
「ほら、出てくるわよ」
ソフィが穴を指差すと、そこから無数の黒い塊がゆっくりと姿を現す。
「な…んだ、あれは」
「ひょえ~~」
シルは驚愕し、隣にいたソフィも素っ頓狂な声を上げる。
まるでヘドロの様なドロドロとした何かが大量に穴から這い出し、辺り一帯の地面をゆっくりと侵食していく。
黒い穴がまるで虫食いの様に広がっていく様は、見ていて余り気持ちの良いものでは無かった。
溢れ出した黒いそれらは、魔力を纏いながら空中にも侵食し始める。
言葉にすると、それはまるで地獄の様な光景だった。
しかし不思議な事に、結界内の者達はそれに対して驚きはしたものの、負の感情は一切感じなかった。
現実離れしているせいでもあるし、結界のお蔭でもあるだろう。
温かくて心地良い室内から、嵐に荒れ狂う窓の外を見ている様な、そんな感じであった。
しばらくすると、その穴から数人の人型の何かが現れ、シェラの前に跪く。
皆それぞれ外見に違いはあれど、頭から角が生え、背中には黒い羽が生えていた。
「あれが、闇の精霊か?」
「う~ん。そうみたいね。角も羽も生えてるし目も赤いわね。一見すると空想上の悪魔みたいな外見だわ」
「よく見えるな…お前」
シルは目を細めて何とか見える距離なのに、それらの外見をぴたりと言い当てるソフィに驚いた。
「は?何あんた。望遠の魔道具持ってきて無いわけ?信じらんないんだけど」
ソフィは呆れた顔でシルを見る。
「各場所に置かれている魔道具から画像が送られてきているんだ。必要ないだろう」
「は?魔道具って、ほとんど消失してるじゃない?」
「……」
シルは図星をつかれて黙り込む。
確かに計画当初は魔法陣展開の様子がしっかりと映る様に、画角を計算して各所に魔道具を設置していたのだが、シェラが現れて全てが穴に消え去り、残ったのは丘の上で騎士達が直に管理している物だけだった。
勿論魔道具には望遠機能もあるが、限度がある。
「ほら、使いなさいよ」
ソフィは自分の掛けていた眼鏡をシルに差し出すと、彼はムスッとした顔でそれを素直に受け取って掛ける。
「……あれが闇の精霊か…」
初めてはっきりと見る精霊の姿に、シルは感嘆した。
何と言う美しさだ。
闇の精霊と言われているからには、恐ろしいモノかと勝手に想像していたシルだったが、彼等の艶めく美しさに心を奪われた。
光沢のある濡れ烏の様な美しい黒髪と、発光したような白い肌。
宝石で作られたような輝きを放つ角と、大きく広がる真っ黒い羽。
真っ赤な瞳と唇が美しさを際立たせ、男女の区別さえもつけることが困難だった。
シルは視線を移してシェラを見る。
布をかぶっていて顔は見えないが、神々しすぎて息をするのも忘れる程だった。
シルは大人しく、シェラから視線を外す。
直視すると人体に影響が出そうだ。
「お前、よく一緒にいられるな…」
「まあ、流石に慣れるまでは、ね。ちなみにオリビア様、シェラ様にそっくりだよ」
「我が主も、か……」
ダリルの影であるソフィは、シェラと共に過ごす時間も多いだろう。
ダリルとシリウスの人間離れした豪胆っぷりと、とんでもない精神力の持ち主である姉を、シルは改めて尊敬した。
「ねえ。あそこ見て」
新しい眼鏡を掛け直したソフィが、シルに指である場所を見るように促す。
「ん?」
「面白いものが見れるかも」
シルは言われた通り、彼女の指し示す方に視線を向ける。
そこにはバルコニーに座り込み、手すりの隙間から青い顔をして王都の街を見るグレオの姿があった。
「流石にこの騒がしさでは、呑気に寝ていられなかったか…」
「凄いね~この状況で結界無しで気を失わずにいられるなんて」
気を失ってはいないようだが、腰は抜かしている。
何なら漏らしているかもしれない。
「魔力が完全にゼロだからな。当てられないんだろう」
「でもそれって、相手の力量が全く分からないって事だよね。いや~無知って恐ろしいわ~でも見たところ、負の感情には囚われてそうね」
「生態が野生動物に近いから、直観だけはありそうだからな」
彼の側にいた数年は、シルにとってストレスでしかなかった。
話しても理解しない。
そもそも言語を理解していない。
意思の疎通が出来ない。
横柄で感情的。
怒鳴ってゴネれば物事が進むと勘違いしている。
典型的な俺様思考。
たまに閃いて、誰もが納得する案を出す事があり、それが更にシルの気に障った。
「あ~~殺してぇ……」
ボソリとシルが呟く。
「素が出てるよ。弟君」
「おっと。失礼」
シルは慌てて口を噤んだ。




