引っ越しの予定
「お帰りなさいませ」
北の拠点。
シリウスにエスコートされて馬車を降りると、そこにはリシューが立っていた。
「ただいま。リシュー…って、あれ?眼鏡…」
よく見ると、見慣れたリシューの顔にトレードマークの眼鏡が無い。
オリビアは、不思議そうに首を傾げた。
「ああ。いけませんね」
リシューは素早く胸ポケットから眼鏡を取り出すと、何事も無かったかのように掛ける。
「伊達眼鏡なの?」
オリビアは、リシューの眼前で手を振る。
「これは魔力カット用の眼鏡です。魔道具の一種ですね。視力は良い方ですよ」
「へえ…」
言っている意味はよく分からないが、オリビアはとりあえず頷いた。
一方シリウスは、長年の付き合いからリシューの態度が明らかに動揺していた事に気付き、これ以上突っ込む事はしなかった。
「それで…オリビア様。その辺りに浮かんでいる方々は?」
オリビアの周囲には、フワフワとスノウ達が浮いている。
彼等は北の地から、そのままオリビアについて来たのだった。
「スノウです!」
「スノウ、ですか…」
「はい!」
リシューはシリウスの顔をチラリと見て、事のいきさつを何となく理解する。
「畏まりました。それではお茶の用意をしておりますので、一旦執務室まで参りましょう」
リシューは何事も無かったかのようにくるりと方向転換し、2人より先に執務室へと歩き始める。
シリウスもオリビアを抱き上げると、リシューの後ろを歩いていく。
途中、廊下で待機している何人もの使用人達がスノウを見て一瞬目を見張るが、すぐにいつもの表情に戻ると何事も無かったかの様に仕事に戻る。
シェラの来訪があってから、ここ北の拠点では精霊に対する認識を改め直したのだ。
精霊を知り、精霊を学ぶ。
文献は大して残っていないが、それらを使って精霊の生態等を知るカリキュラムが組まれ、少しでもオリビアと接する事になる人間に徹底的に学ばせた。
存在を証明する事も出来ず、見えないのが当たり前の精霊。
だからこそ、それらに対する個々人のイメージや想像を徹底的に排除し、存在そのものをきちんと認識させる。
元々優秀で魔法特化の人材が多い北の拠点では、目の前に顕現した精霊姫であるオリビアがいるお蔭で、それらは思いの外容易く行う事が出来たのだった。
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「それでは、現時点でのオリビア様の側仕えとして、スノウ達を皆に周知しておきます」
「ああ」
執務室でシリウスと話をしていたリシューは、ふと彼の隣でクッキーを頬張っているオリビアの左手の薬指に、例の指輪がはまっている事に気付いた。
「おめでとうございます。正式に婚約指輪を贈られたのですね」
「ああ」
「ふふふ。綺麗でしょ!」
オリビアは嬉しそうにリシューに左手をかざし、指輪がよく見えるようにする。
そのキラキラした顔を見たリシューは、罪悪感で胸が痛くなった。
アレを貰って喜ぶ女性など、世界広しと言えど存在するのだろうか?
それがリシューの率直な意見だった。
とにかくシリウスの愛が重すぎる。
絶対に逃がさない!
と、胸を張って宣言しているようなモノだ。
幼い頃から彼を隣で見ているリシューは、シリウスの拗らせ具合に若干引いていた。
「オリビア様。何かあれば、必ずこのリシューに直ぐにご相談下さい」
「え?うん」
クッキーを齧るのを止めたオリビアは、何を言われているか分からないながらも、素直に頷く。
「リシュー、お前…」
シリウスがリシューをジロリと睨む。
「いえいえ、私はオリビア様の良き理解者になりたいのでございます」
リシューは満面の笑みでシリウスに答える。
「…好きにしろ」
シリウスは呆れて紅茶を一口飲んだ。
「シリウス様。こちらをご確認下さい」
リシューはシリウスに自身の持っているタブレットを手渡す。
「取り急ぎ、5日後には転居可能となります。建物、人員はそちらの通りです」
シリウスは、タブレット画面に映し出されている情報に目を通す。
「分かった。オリビア」
「ん?何?」
「5日後に引っ越しだ。身の回りの物は全て使用人が用意するが、何か必要な物があれば言ってほしい」
「え?引っ越しって、あそこに?もう?」
「そうだよ。既に住む所も用意出来ている。それからこれが今回の使用人達だよ」
シリウスはそう言うと、タブレット画面をオリビアに見せる。
そこには、使用人達の顔が一覧で載っていた。
「若干増減があるかとは思うが、基本はこのメンバーになる。オリビアの身の回りは、この2人がする事になるだろうね」
そう言って指差した先には、オリビアの知らない女性の顔が載っていた。
「見たことのない人だ…」
「今回新たに人選したからね。基本的に、ここに載っているメンバー以外はあの場所に入れないようにする」
「へえ…」
シリウスはオリビアの頭を優しく撫でる。
「ここには後5日だけ滞在する。今後は余り来ないと思うから、悔いの無いようにね」
「…悔い?」
「そう」
「……」
首を傾げたオリビアに、シリウスは優しくほほ笑んだ。
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「後5日か…」
スノウ達を連れて、ふらふらと北の拠点を散策する。
思えば1人でこんなに自由に歩き回った事なんて無かった。
ここに来た時から、必ず自分の側にはミナがいてくれた。
オリビアは、側で浮かんでいるスノウ達に視線を向ける。
彼等は間違いなく自分を守ってくれるだろう。
言葉を交わさなくても、全てを察してくれるだろう。
魔力を与え、名を与える。
それこそが僕であり、眷属だ。
「でもちょっと、寂しいな…」
オリビアは思った。
女子同士、悲しい事や辛い事を共有して励まし合って笑い合う。
そんな事は、きっともう出来ない。
でもこればっかりは、どうしようもない。
彼女の心の内は、紛れも無く自分への恐怖と不安で溢れていた。
悲しかった、と言えば少し言い過ぎかもしれない。
ただ単純に寂しかった。
それだけだ。
「女子会…もう出来ないかな…」
今振り返ると、もっと話しておけば良かった、なんて思ったりする。
自分はシリウスが好きで、甘いものが好きで、甲殻類が好き。
でもミナは?
改めて思い返すと、彼女の事を何一つ知らない事に気付いた。
「今更かな」
オリビアはこっそり溜息を吐き、気を取り直しつつ広い廊下をトコトコと歩いて行く。
「ここを抜ければ鈴蘭の咲く庭だったような…。新しいお家にも鈴蘭の庭が欲しいな」
オリビアが辿り着いたのは、鈴蘭が咲き乱れる中央庭園だった。




