母と娘
ゆらゆら ゆらゆら
ゆらゆら ゆらゆら
意識がゆっくりと浮上すると、身体に感覚が戻ってくる。
温かい湯船に全身浸かっている様な、心地良い揺れと倦怠感。
「・・・・」
「・・・・・・・・・」
遠くで誰かの話声が聞こえる。
気持ちいい。
このままずっと揺蕩っていたい。
「・・・・わね・・・」
「・・・・か?」
声の主は、どうやら2人?
何か話し合っている。
でもまだ眠い。
瞼が重くて開かない。
再び意識が下降し始めた時、
「別にこのままでもいいのだけれど、人間ではいられなくなるわよ」
耳元ではっきりそう囁かれる。
驚きの余り目を開くと、2人の人物が空中から見下ろしていた。
「あら?ようやくお目覚め?おはよう、オリビア」
「・・・・?」
「ふふふ。寝ぼけているのかしら?可愛い。さあ、いらっしゃい」
ようやく意識がはっきりし始め、オリビアは辺りを見回した。
すると何故か自分が、虹色に輝く水面に仰向けでぷかぷかと浮いている事に気付く。
目の前に差し出された両手に思わず手を伸ばす。
力強く水面から引き上げられた後、オリビアが顔を上げると、至近距離でシェラが可笑しそうにこちらを見つめていた。
久しぶりに会った母は、記憶の中と同じ様に美しく微笑んでいる。
「お母様・・・」
その声にシェラは笑みを更に深くし、隣にいたダリルがほっとした顔でオリビアを見た。
ふと眼下を見下ろしたオリビアは、自分がとんでもない広さの湖の真ん中に浮いていた事に気付いた。
「大きい湖・・・」
湖面は風も無いのに波打ち、ゆらゆらと虹色に輝いている。
そういえば、どこもかしこも眩しい。
オリビアはそう感じた。
見上げた空は紫に近い色で覆われ、とんでもない大きさの星が沢山見える。
彗星の様に横切る光はゆらゆらと揺らぎ、時折鳥やドラゴンの姿に変わっていく。
見渡す限り広い大地は、鮮やかな色彩の木々がどこまでも続き、淡い光を放っていた。
精霊界・・・。
オリビアは幼い頃、母に連れられて数回来た事があった為、何となく頭の片隅で覚えていた。
「あの大穴、貴方が作ったのよ?」
「え?」
シェラは先程の湖を指差す。
「あなたに溜まった魔力が爆発して大きな穴になったの。そこに更にあなたの魔力が溜まって出来たのよ」
「へ?」
理解出来ずにオリビアは首を傾げるが、
「うふふ、お話ししましょうか」
そう言うと、一瞬にして周りの風景が変わった。
どこかの室内だろう。
目の前のテーブルにティーセットが置かれ、温かそうに湯気を立てている。
ダリルはシェラをエスコートして席に座らせ、自身もその隣に腰を下ろした。
それを見て、オリビアは彼女達の対面に腰を掛けた。
「身体の調子はどう?」
シェラに尋ねられ、オリビアは初めて自分の身体の状態を意識する。
「何だかとっても身体が軽い・・・。浮いてるみたい」
「そう、良かった」
シェラはほほ笑む。
オリビアは、改めて自分の身体の状態を確認する。
気を失うまでに感じていた切羽詰まった感じは綺麗さっぱり無くなり、引きずられるように重かった身体は羽の様に軽かった。
「それにしても、どうしてあそこまで魔力を溜めていたの?何か面白い遊びでも思い付いたの?それだったらお母様にも教えて欲しいわ!」
キラキラした瞳でシェラは尋ねる。
「え?溜める?魔力を?」
「ええ。あら??」
「?」
オリビアは何を言われているのか分からなかった。
「う~ん」
シェラは少し考え込む。
「ほら、あの国にいた時、サイファードのお話ね。魔力を沢山使っていたわよね。どうして今は使っていないの?」
オリビアは、言われてようやく気が付いた。
サイファード領にいた際、シェラがいなくなった後に大地への魔力供給をしていたのはオリビアだった。
特に意識する程の事もない日常だった為、彼女はすっかり忘れていた。
「あの時の量を常に使えとは言わないけれども、魔力循環は私達のお仕事よ?何をしてもいいけれど、それだけは怠ってはいけないわ。と言うか、私達精霊は、放って置いても勝手に魔法って発動すると思うのだけれど・・・」
シェラはコテッと首を傾げる。
「どうして使っていなかったのか、お母様に教えて。理由はその瞳と関係がある?」
シェラがオリビアの左目を指摘する。
「か、関係・・・・・」
オリビアには心当たりがあった。
魔法を使わない!と決めた訳ではない。
ただ、精霊の自分をあからさまに出すと、自分自身を制御する事が出来なくなるのだ。
あの、バルコニーの一件。
精神年齢が恐ろしく下がり、周りの状況を一切考える事が出来なくなった。
オリビアは後々とんでも無く恥ずかしい思いをしたのだ。
人間の自我が、そうならないようにストップをかけている。
そうでなくとも身体が幼い分、言動がそちらに引っ張られているというのに。
あんな恥ずかしい思い、二度としたくない。
あの時、行動には十分注意しようと誓ったのだ。
「随分しっかりとした自我が入ったのね。それは素晴らしい事だけれど、精霊を否定してしまっているのね」
シェラは、まるでオリビアの心を読んだかのように言った。
「・・・・・」
否定。
そうなのだろうか。
確かに前世の記憶がある分、精霊の言動は到底理解出来るものではない。
「その瞳だって、そんな中途半端に癒さなければ、元の通りに戻っていたはずよ?そうさせたのはシリウスかしら?」
「え!?」
突然のシリウスの名にオリビアは驚く。
「でも残念。あなたの本質は人間では無く精霊なの。もし今の環境が、あなたにそう思わせているのだとしたら、彼からは離れる必要があるわね」
オリビアはひゅっと息を飲んだ。
「そもそも精霊とは元来自由なの。何かに囚われたり一所に留まるモノでは無く、思うがままに生きるモノなの。彼があなたをそうさせていないのだとしたら、あなたにとって彼はとても害悪な存在ね」
「え?え?害悪?」
「だってそうでしょ?本人の人格を無視して自分の思い通りにしたいだなんて。たかが人間1人の想いで、精霊を縛りつけようなんて御大層な事。何様かしら?そもそも彼には加護を与えている訳だし、滅多な事では死なないでしょう。思い出したら顔を見に行く程度で丁度良いのよ」
「・・・・・」
言い返せなかった。
確かにそうだと、納得しているもう1人の自分が確かにいるのだ。
考え込んだオリビアは、急にお腹に違和感を覚え、無意識に下腹部に手を添える。
「取り敢えず、今の状態を戻す為にしばらくここにいなさい。精霊としての自分に慣れるのです」
「え?しばらくって?」
戸惑いながら、オリビアは尋ねる。
「心配しなくても、こことあちらの時間は全く違うから、放っておいても直ぐに彼の事は忘れるわ」
・・・え?
「そんな・・・・・」
嘘、違う。
彼は悪くない。
シリウスは悪くない。
彼はいつも私の事を考え、真綿で包む様に大切にしてくれる。
私が勝手に彼に甘えていただけだ。
「・・やだ・・・」
オリビアの瞳にみるみると涙の膜が張り、あっと言う間に脹れあがっていく。
会えないなんて嫌だ。
あの笑顔が見れないなんて。
温かくて大きな腕に抱かれる事がないなんて。
あの声を聞けないなんて。
オリビアの腹部から、黒い靄が立ち昇る。
ダリルはそれを見て目を眇めるが、シェラはじっと様子を窺っている。
「・・やだ。帰りたい・・・。忘れたくない・・シリウスの元に・・帰りたい」
「それは何故?」
シェラはじっとオリビアを見つめる。
オリビアの瞳から、ぽつりと一粒の滴が落ちた。
「び・・・」
「び?」
「びえ~~~ん!!うわぁあ~~~~ん!!!!好きなんだもん、ずっと一緒にいたいんだもん~!!うぎゃあ~~~~ん!ばかぁ~~~うふゃ~~~!!」
堪え切れなくなったオリビアは泣き始めた。
ぎゃん泣きである。
それに比例するように黒い靄は大きくなり、触手の様にぐにゃぐにゃと動き始める。
ダリルは呆れたようにチラリとシェラを見る。
すると彼女は頬を染め、両手をワキワキさせながらうっとりとオリビアを見ていた。
「な・・なんて可愛いのかしら!!子供って最高ね!!」
「ほどほどにしないと嫌われるぞ」
「そんな!!」
興奮していたシェラをダリルが窘めると、彼女は黒い触手を物ともせずにオリビアを抱き寄せた。
「ひっくひっくひっく、うぅ~~~」
シェラはぐずるオリビアの頭をよしよしと撫でる。
「大丈夫よ、オリビア。お母様がついてるわ」
そう言うと、オリビアの下腹部に手を当てて、おもむろに黒い触手をがしっと鷲掴んだ。
「たとえ闇に囚われても、何ら問題ないわ」
「え?」
ぴたりと泣き止んだオリビアは、シェラの手の中にある黒い触手を見て驚く。
「精霊には負の感情は無いの。だからこそ耐性が無いわ。引っ張られると直ぐに闇に落ちてしまう。あなたがもし闇の精霊になったとしても、私は一向にかまわないのよ」
「や、闇、の精霊?」
シェラは、オリビアの腹から一気に触手を抜く。
するとそれは形を変え、彼女の手の中で黒い石となる。
「ここにあるこの感情は何かしら?嫉妬?独占欲?それとも苦しみ?さあ、お母様に教えて頂戴。これこそが、私があなたに託したモノなのだから」
シェラは目を見開き、手の中の石を握り潰す。
「抵抗するのも受け入れるのもあなたの自由。さあ、見せて頂戴」
人間の感情を。




