何か思い出しましたが…
今から約200年程前、ブラン王国の北の大地に精霊の女王が降り立った。
彼女は『死の大地』と呼ばれたこの地に、草木を芽吹かせ楽園を作り多くの精霊をこの地に呼んだ。
その噂を聞きつけた当時のブラン王国の王は、多くの供物と引き替えに女王にこの地に留まってもらうように願った。
すると、気まぐれな女王は言った。
『飽きるまで』と。
国王はその言葉を喜んで受け入れ、王都に彼女を祀る神殿を作った。
それから彼女に体面的な爵位と、すでに楽園となっている土地を領地として贈った後、彼女の気分を害さない様に他の貴族達に言い含め、治外法権を適用させた。
それ以来、この地域一帯は精霊の女王の血を引くサイファード伯爵家が治め、豊かに生い茂る森はいつしか『女王の森』と呼ばれるようになった。
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アーサーはオリビアとの婚約が決まった時から、サイファード家の童話や伝承を暗記するほど読まされていた。
父であるロドリーからは、サイファード家がいかに我々にとって大切か、オリビアと婚約する事がどれだけ名誉な事かを聞かされ続けた。
『常にどんな時もオリビア様の意思を尊重して行動せよ』
言われ続けたその言葉は、いつしかアーサーの中で澱となっていく。
アーサーには5歳上の文武両道の兄がいる。
勉強も魔法も剣術も優秀で、将来有望の侯爵家の跡取りである。
アーサーはどんなに頑張っても兄には遠く及ばず、父に認められる事の無い所詮スペアであった。
しかし、王命によりオリビアとの婚約が決まった際、自分に向けて嬉しそうに頷いた父親の顔を見たアーサーは、経験したことの無い高揚を感じた。
これでようやく自分も見てくれる。
しかしアーサーが喜んだのもつかの間、口を開けば
『オリビア様、オリビア様、オリビア様』。
ロドリーは少しもアーサー自身を見ることは無かった。
僕は、たかが伯爵家の女にすら負けているのか?
なぜ自分よりも爵位の低い家を敬わなければならないのか?
なぜ自分より、女のオリビアの方が大切なのか?
アーサーは答えの出ないこの問いを繰り返す内に、次第にオリビアに対して暗い感情が芽生え始めたのだった。
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「アンナ。君は可愛いな。オリビアとは大違いだ」
美しく咲き乱れる庭の薔薇を見ながら、アーサーはポツリと呟いた。
アンナはうふふと笑いながらアーサーの胸に身体を預ける。
無口で可愛げも無く会話も弾まない、というか成立しない。
初めての顔合わせの時ですら、アーサーはオリビアを気味悪がった。
確かに外見は人形のように愛らしい少女であったが、空虚でどこを見ているのか分からない瞳は、同年代の子供達とは明らかに違う雰囲気を纏っていた。
アーサーは子供心に怖かった。
あの瞳でじっと見つめられると、全てを見透かされた様な何とも言えない落ち着かない気持ちが湧き上がってくる。
義務として行われる7日に1度の茶会ですら、彼にとっては苦痛でしか無かった。
しかし2年前、オリビアの実母が亡くなった事で状況が変わる。
オリビアの義妹となったアンナが、アーサーに懐くようになったのだ。
天真爛漫な彼女は喜怒哀楽が非常に分かりやすく、一緒にいてとても安心出来る存在だった。
アーサーはこれ幸いとオリビアとの茶会に彼女を参加させた。
そのお蔭で、気まずかった茶会は和やかにアンナとの会話を楽しむ事が出来るようになったのだった。
「お可哀想なアーサー様。あんな気味の悪い姉様が婚約者だなんて…」
アンナは上目遣いで眉を下げながらにアーサーを見つめる。
「ああ。本当に…。君が僕の婚約者だったらどれだけ良かったか…」
アーサーは大きく息を吐く。
「大丈夫ですわ。きっと母様が何とかしてくれますわ。私もサイファード家の娘ですもの」
アンナは嬉しそうに微笑んだ。
しかしアーサー自身、それが不可能であることはよく理解していた。
貴族とは、血筋を何よりも重要視する。
アーサーはサイファード家の直系であるオリビアと結婚しなければならない。
それがノルンディー侯爵家の意向であった。
しかし…。
もし…?
もしオリビアがいなければ。
もしオリビアさえいなければ?
もしアンナが自分の婚約者であったなら、きっと自分はもっと楽に生きられたのだろうか。
アーサーはそう考えずにはいられなかった。
「ごめんアンナ。気持ちは嬉しいが、オリビアがいる以上それは無理だよ」
アーサーは呟きながら、切なそうにアンナの頭を優しく撫でた。
気分が一気に下降し始めたアーサーは、軽く頭を振って思考を切り替える。
4年後、オリビアが成人した際に自分は彼女と結婚してサイファード家に婿養子に入らなければならない。
これは覆らない決定事項だ。
それならば、自分が領地を治めた際に誰もが驚く領地にしてやろう。
多くの事業を手掛け、ノルンディー領よりも豊かにし、今度こそ父に認めてもらおう。
アーサーは決意を新たにしたことによって、次第に気分が上昇していく。
しかし、自分の隣で恐ろしい顔をしたアンナの表情には気付かないままだった。
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「お嬢様、お部屋へ」
2人が去った後、東屋で1人座ったままのオリビアに使用人の1人が声を掛けた。
しかしオリビアは俯いたまま動かない。
「お嬢様、お部屋へお戻りください。奥様のご命令です」
使用人が厳しく言い放つと、オリビアはゆっくりと立ち上がり自室のある屋根裏へと戻っていく。
部屋に入ると、いつも通り外から鍵が掛けられた。
オリビアの部屋は屋敷の3階の屋根裏にあり、簡素なベッドと朽ちかけた机と椅子、ほぼ空っぽのクローゼットと姿鏡が置かれた六畳ほどの狭い部屋で、奥にあるドアを開けると小さな備え付けの便器があるのみだった。
机の端に置かれたトレイの上には、今朝配膳されたばかりのカビの付いたパンと、明らかに異臭のするスープが置かれていたが、彼女はそれを無視して机の引き出しを開けて1枚の紙を取り出した。
そこには数人の名前が書かれており、彼女はその中の『アーサー』の文字にバツと付けた。
「はぁ~~ダメだったか。まあ仕方ないか。しかしあれはかなり嫌われてるみたいだわ~~」
オリビアは机の上に座って足を組むと、先程の紙を指で挟んでぴらぴらと動かす。
ちらりと窓から外を眺めれば、眼下の庭に美しく咲いた薔薇が見える。
窓を開けると優しい風が室内に吹き込み、オリビアは少し身を乗り出して大きく息を吸い込んだ。
目の端に抱き合っているアーサーとアンナの姿が映るが、特に気にすることもなくオリビアはゆっくりと身体を戻した。
「しかしまあ。こんな状況、よく我慢出来たもんだわ」
オリビアはぼやきながら、ぴょんっと机から降りると姿鏡の前まで歩く。
母親譲りのシルバーブルーの髪と瞳を持つとんでもない美少女であっただろうオリビアは、現在見る影も無い。
艶の無いパサパサの髪と痩せ細った身体。
手入れのしていない肌とカサカサの唇は、とても12歳の少女とは思えなかった。
やせ細った身体には、唯一持っているサイズの合わない黄土色のドレスを着ており、裾を少し捲ればいくつかの痣が見える。
「可哀想に…」
オリビアはどこか他人事のように呟くと、自身の映った鏡の表面を指先で優しくなぞる。
2年程前、オリビアの母親であるシェラがこの世を去り、彼女の生活は一変した。
葬儀から10日もしない間に、父であるアレクが新しい家族と言ってローラとアンナを屋敷に迎えたのだ。
最初は優しかったローラとアンナも、いつしかオリビアを疎ましく思い始めたのだろう、『鬱陶しい』『気味が悪い』と罵り、屋根裏部屋に放り込まれ、外から鍵を掛けられるようになった。
シェラの代からいた使用人達はすっかり姿を消し、屋敷にはオリビアの知らぬ者ばかり。
最近ではストレス発散にとわざと階段から押されたり、足を引っかけられる事が増え、使用人達も便乗して収拾が付かなくなっていた。
食事も腐りかけの物を出され、1日まるまる抜かれることもあった。
頼みの綱である父アレクは王城勤めの為、1年の殆どを王都の屋敷で暮らしている。
オリビアの現状など知る由も無いし、知ったとしても頑なに会おうとはしないだろう。
オリビアは改めて手に持った紙を眺めた。
アレク(父)・シェラ(母)・シリウス(母の知人)・ローラ(義母)・アンナ(義妹)・アーサー(婚約者)
ほぼ監禁されているから仕方が無いが、彼女の交友関係は異常に少ない。
「はあ~~後はシリウス兄様だけか」
オリビアは大きく息を吐いてドカッとその場に胡坐をかいた。
さて、彼女の態度が何故こんなにも大きいのかと言うと、それは昨日の夜までさかのぼる。