第五話
「……国?権利?私はそんなルールや法律は存じ上げませんけれども」
楓の母は久代への反論を再開した。
「私の娘が父親……、いえ、あの男の遺伝子を継いで魔法なんてものが使えるなんて、私は信じませんよ。こんな変な模様、どうせマジックか何かで書いたんじゃなくて?それに、私が学生の頃には学年に魔法が使えるなんて言われていた生徒も普通にいましたよ?あまりいい噂は聞きませんでしたがね」
ふふふ、と笑う母と反対に、久代の顔が険しくなる。
「それが原因ですよ、お母さん。この権利は、日本にいる全ての、魔法が使えようと使えなかろうと、全ての学生が互いを傷つけることなく、平等に学び、生活できるようにと15年ほど前に魔法を使う素質がある者に与えられたものです。その権利をあなたが奪うことはできません」
しかし楓の母は怯まない。むしろ、さらに勝ち誇った顔をしてこう言い放った。
「ああ、楓の語学力なら、今すぐにでもアメリカでの移住権を得ることができますわ。アメリカで暮らすのならば、日本での権利なんて関係ないでしょう?所詮は権利。義務ではないのよね?」
強気な楓の母の声に表情を変えることなく、女性は楓に向き直って尋ねた。
「楓ちゃん。これはあなたが決めることよ。あなたのお母さんのことは気にしなくていいわ。あなたの意思が大事……」
「あら、そういえば……」
わざとらしく話を遮った楓の母は、含み笑いを浮かべて楓に言葉を投げつけた。
「お友達が学校にいるって言っていたじゃない。その子は置いていっても良いの?」
女性と母の攻防に押し黙っていた楓は、はっとして母の方を向いた。攻撃的な目、たくらみを含んだ笑みに気圧されながら、楓の声を絞りだした。
「お母様……、あの夕食の日……私の話……本当は聞いていたの……?」
『……汚いなぁ……』
『声』は楓の母の意図を読んだように感想を呟く。楓と目線をしっかり合わせ、母は囁いた。
「楓。どうしても嫌なら、アメリカの留学は取り消してあげましょう」
「え……?」
いつになく優しい表情で、しかし笑っていない瞳を楓に見せて、こう言った。
「その代わり、この女……お客様の言う意味の分からない学校には行かずに、今の学校にそのまま通うといいわ」
驚いた楓は思わず質問をしてしまう。
「どうして……ですか……?あれだけ留学は私のためだって……」
「黙らっしゃい、楓。今まで通りなものは今まで通りなの」
ピシャリと母に突き離された楓は再び俯いたが、あれほど悩み苦しんだ留学を取り消してもらえることに楓の気持ちは沈まなかった。
「……今まで通り……」
『まあ、それなら楓としては願ったり叶ったりだよね。……僕としては久代さんが提案してくれた学校に行ってみたいな。』
そんなことを言う『声』をよそに、柚の笑顔が楓の脳裏によみがえっていた。木陰のベンチ。二人で話したたわいもない話。
「柚ちゃん……」
「楓ちゃん、学校にお別れしたくないお友だちがいるんだね」
優しい女性の声が聞こえたが、楓には何を言ったのかさえ分からない程に柚のことで頭がいっぱいだった。転校しなくてもいいということは、柚ともう一度、一緒に過ごせる……?いや、一度と言わずこれからもずっと……?
「お母様……、私……!」
言葉の途中で、楓は母の瞳に映る自分の顔に気づいた。その表情に見えるのは、滲み出る、母に対する怯え。それを認識した途端、楓の脳内に昼休みの出来事がフラッシュバックした。うるさい鼓動。頭上に浮かんだ弁当箱。そして今までに見たことのない、自分に向けられた、恐怖に震えた柚の声と顔。
「あ…………」
柚を怖がらせてしまった。無意識だったとはいえ、事実だ。初めてできた、あれだけ自分を笑顔にしてくれた、人といる幸せを教えてくれた友人にあんな顔をさせてしまった自分には、柚と合わせる顔がない……。楓はそう思った。
「私……今の学校には……、戻れない……」
「なによ、今の学校に通いたくないの?それなら別に今の学校でもなく、このお客様の言う学校でもなく、アメリカに行ったっていいわよね?」
……そうだ、もう今通っている学校に固執する意味が、ない。また、母に定められた道を歩く……もう、それでいいのかもしれない……。やはり私は母の言うとおりにするべきなのかもしれない。
そう思った楓は床に目線を落として、ふう、と息を吐いた。何も知らない父のこと、無意識にではあったが、初めて使った魔法のこと、自分に『声』が聞こえるのと同じように普通でない体質の人に会えるかもしれないということ。いろいろあった知りたかったことが、楓にはどうでもよくなってしまった。
「ならあの夕食の日、『転校したくない』って思ったことを今謝りなさい。そしてこの書類にサインするのよ。初めて登校する日に提出する書類らしいわ。これだけはどうしてもあなたがサインしないとだめらしくてね」
楓の目の前にある机に、紙とペンが置かれた。
「さあ楓。私の方へ向いて。友だちだなんてしょうもないことを理由にして母の想いに背いた事を謝るのよ」
『……僕は別に謝らなくてもいいと思うよ。別に悪いことしてないじゃない』
『声』はそう言ったが、楓にとって母は、逆らえないものである。それに「背いた」と、「謝れ」と言われたら謝るしかない。今までそうやって生きてきたように、「自分が悪い」と母に示すために謝ろうと思った。母に向き直り、頭を下げようとした楓はそれまで二人を静かに見つめていた女性が、再び口を開いた。
「楓ちゃん、これはあなたの選択よ。あなたのお母さんでも、私でもなく、あなた自身の。もしかしたら、これまではお母さんの言う通りに生きてきたのかもしれない。でも今、この選択はあなたの物。お父さんから登校許可は得ているから、本当にあなたの選択次第なの」
再び登場したのは楓の父という存在。久代の言葉を聞くなり楓の母の心のうちはさらに穏やかではなくなった。
「何を言っているの?あの男に親権はもうないはずでしょう?」
「楓ちゃんのお父さんは、楓ちゃんが本当に本当に小さい時に、もうすでに登校許可の書類を学校に提出なさっています。当校は生徒のご家族、または生徒と血縁関係がある魔法使用者の許可があれば入学できるようになっておりますので、楓ちゃんの決断、意志によって転校していただけます」
そう言った後、目線と声を落として久代は言った。
「……そもそも楓ちゃんは、本来ならばもっと幼い頃に魔法が使えるようになっていたはずなんです。でもそうならなかった理由が、今日お家に訪問させていただいてわかりました。その可能性を潰していたのは……この家庭環境だったんですね」
「……意味が分からないわ。私は楓が立派な大人になれるように……」
そう話し出した楓の母親を無視して、今度は女性が一枚の書類を机に置いた。
「永井家の娘としてではなく、『楓』という一人の人間として、後悔しない選択をして、楓ちゃん。楓ちゃんのお母さんは何もあなたに強制できないわ。そして私もね。どちらかの書類にあなたが、あなたの名前を書いた時、それがあなたの選択になる。そしてどちらを選んでも、それはあなたがあなたとして生きる第一歩となるわ」
「本当に失礼なお客様ね、人の話も黙って聞けないなんて。楓、そもそも面識のない人が勧誘してくることにのっかる必要はないのよ。もう一度言うわ、この人の言うことを聞いてはだめよ」
まっすぐに楓を見つめる久代と、いつものように恐怖心を生む母の声に挟まれどうしたらいいのかわからなくなった楓に『声』は言った。
『ねえ、楓。僕もいつも言ってるでしょ、なんで言い返さないのってさ。君はもっと自由にしていいのに』
「……で……も……、アメリカに行ったら私は一人よ……?それは自由とは言わないの?」
『僕は違うと思うな。アメリカに行くって決めたのは誰?楓じゃないでしょ。それも今回だけじゃない。今までだってずっと、大人しくお母さんのいうことを聞いてきたじゃないか。それは自由だった?』
「……わからないわ。自由に……したいようになんて……私にはわからないもの……」
楓が一人で話し始めたように見えた母は驚いて、叫ぶような声をあげる。
「っ、楓!何をまた一人で話しているの?!気味が悪いしおかしな子に見えるからやめなさいと言ったでしょう?!」
楓の母とは反対に、女性は落ち着きを保ったまま、しかし驚きを隠せていない声で小さく呟いた。
「……!楓ちゃん、何かが聞こえているのね……?そうだとしたらなおさら国外には出ずにうちの学校にいた方が……」
「あなた……!あなたが何か楓におかしな呪文をかけて惑わせているのではなくて?!楓に何をしたの?!」
楓の母の出す大きな声に目を見開き、小さくため息をついた女性は答えた。
「私は何もしていませんし、魔法はそんなことには使えませんよ、お母さん。そもそも私には魔法は使えませんから……」
母と久代がそんなやり取りを繰り広げている間にも、楓は『声』との会話を続けていた。
『楓を縛ってるのはお母さんでもあるけど、楓自身でもある。僕を見てみなよ、楓に黙ってって言われてもずっと話してるでしょ?楓が小さいころからずーっと一緒にいる僕と、同じ生き方してもいいんじゃないのかなって僕は思うよ』
「じゃああなたは、私がアメリカに行かずに久代さんの言う学校に行くことが私にとっての自由だと言うの?」
「自由ですって?!」
楓の母は悲鳴をあげた。
「どうしてあなたに決める権利があると思っているの?!全ては永井家のため、あなたのため!それなのにその道を外れるなんて、ましてやあの男と同じ道を行こうだなんて、身の程知らずにも程があるわよ、楓!」
楓は、ここまで母が感情的に声をあげているところを見たことがなかった。叫ぶ母に驚き、呆気にとられている楓に『声』は返事を返す。
『じゃあ逆に聞くけど、あれだけ仲良くしてた柚ちゃんにはもう会わない、今の学校に通わない、お父さんに会える可能性を蹴ってまでして、お母さんが勝手に決めたアメリカの学校に行くことになったら、楓は幸せなの?それに、どうして柚ちゃんには会えないって意固地になってるの?』
叫び続ける母と問い続けてくる『声』に押しつぶされそうになった楓は耳を塞ぎ、目を強く瞑った。わななく唇を噛み、顔を横に振った。耳を塞いだにもかかわらず、『声』は耳の奥にはっきりと響く声で話し続ける。
『いいんだね?せっかく仲良くなった柚ちゃんを放って、お母さんの思惑通りにアメリカに行って?お母さんは今の学校に残って柚ちゃんと時間を過ごすっていう選択肢もくれたのにーー』
「柚ちゃんには!!!!」
楓の大声に、母は目を見開いた。母の前で、楓は生まれて初めて大声を出したのだ。久代も目を丸くさせたが、密かに優しい笑みを口元に浮かべた。
一方、勢いあまって立ち上がってしまった楓は、はっとしてソファに再び腰を下ろした。そして続きを口にした。
「……柚ちゃんには、もう、私はいらない……。あんなに怖がらせてしまった……、私の、魔法……で……」
それを聞いた久代は優しく楓に声をかけた。
「そういうことだったのね、楓ちゃん。確かに、初めのうちは魔法を制御するのは難しいこと。それを学ぶためにも、私はこうして魔法の素質のある子を探して、うちの学校への転校を勧めているの」
『ほら、久代さんもこう言ってるじゃん。楓~』
静かに聞いていた母も楓に話しかける。
「……ま、それなら確かにあの高校には戻れないわね。でも他人を怖がらせ、傷つけるようなものなんて、これから先関わる必要ないのよ。このお客様の言う学校に行けば、嫌と言う程、その友達を怖がらせてしまった魔法について考えなければいけないのは確かだわ。それなら、あなたにとって一番楽なのはアメリカに行くことなんじゃないかしら、楓。……魔法なんて、不幸になるだけよ」
またも板挟みになってしまった楓は、膝の上に置いた手をぎゅっと握った。
あぁ、長引く長引く……。楓の葛藤を何とか表現したいんですけど一話に収まりませんでした……。