第四話
『楓、なんで?どこに行くの?』
楓は走っていた。どうしたのと聞いてくる『声』も、落とした弁当も、クッキーも、教室に置いてきたカバンも、教科書も、筆箱も、彼女にとってはそんなものはどうでもよかった。楓に向けられた柚の目を見て、楓に恐怖し、震える柚から離れなければと、その一心で走った。柚の怯えた顔を思い出し、楓はもう彼女とはいろいろな意味で二度と会えないことを悟った。ちょうど良かったんだ。どうせ最後のお昼を楽しく、笑顔で過ごせていたとしても転校のせいで別れは避けられなかった。そんなことを考えながら走っていると、気づいたら家の近くの角まで来ていた。
立ち止まった楓は、まだ午後の授業が終わっていないのに学校を飛び出してしまったことに今さら気づき、驚いた。しかし学校へ引き返そうとは思えなかった。というよりも、引き返せなかった。楓は運動が苦手というわけでもなかったのに、学校から家まで少し走っただけで、だんだんと脚から力が抜け、自分の体を支えることができなくなってしまっていたのだ。耐えきれず塀に寄りかかり、そのままずるずると座り込む。
『楓、大丈夫?』
「大丈夫……じゃないみたい……。何……これ…………」
心配そうな『声』への返事は辛うじてできたものの、だんだんと頭が回らなくなっていく。今までこんな症状に見舞われたことはないのに、と楓は混乱した。脚だけでなく、全身から力が抜け始め、顔を上げていられなくなる。ただ地面を見つめてゆっくりと呼吸を繰り返していた楓は、誰かが自分の前に立ち止まったことに気づかなかった。
「楓さん、大丈夫ですか?」
『久保さん!ナイスタイミング!』
たまたま通りかかったのか、久保が楓を見つけて声をかけたのだ。執事の存在に気づいても相変わらず立ち上がれそうにない楓を見て、久保はおもむろに楓の口へ何かを放り込んだ。驚いてびくっと震えた楓に久保は優しく教える。
「何も変なものではありません、飴みたいなものです。これを舐めれば、きっとすぐに元気になりますよ」
久保の言葉通り、口の中で少しずつ溶けていく丸い玉は飴のように甘かった。その甘さは口の中だけでなく、体全体にも染み込んでいく。それに合わせて靄がかかったようにぼんやりとしていた思考がはっきりとしてきて、楓は自分が置かれている状況に気づいた。制服のままで道の端で座り込んだ楓の目線に合わせるように、久保が楓の目の前でしゃがんでいる。
「久保さん……、ありがとう」
「よかった、落ち着いたみたいですね」
にっこりと笑う久保を見て、楓はふと幼い頃の記憶を思い出した。
「なんだか、小さい頃にもこんな感じでお話をしたこと、あったわよね……」
「おや、楓さんも同じことを考えていたんですね。確か、中庭で楓さんが転んでしまった時でしたかね?」
楓は頷く。
「ええ……。あの時も立てなくなった私に、久保さんはこうやって飴をくれたのよね」
「そうでしたねぇ……。でも実は、今回は飴玉とは少し違うんです」
確かに、久保は楓に「飴みたいなもの」と言った。では今自分の口の中で転がっているものは何なのか、と楓は少し首を傾げた。それを見た久保は少しくすりと笑って、話題を変えた。
「それはそうと楓さん、カバンなどのお荷物は学校に置いたままですか?」
『おもいきり置いて来たよね、楓』
「あっ……。学校……まだ終わってないのに……。あの、久保さん、実は私……」
楓が昼休みでの出来事を話しかけると、久保は自身の口にいつもの白い手袋をした人差し指を当てた。
「口になさらなくても大丈夫ですよ、楓さん。大方なにがあったかは分かっておりますから。少し魔法を使ってしまったんですよね?」
「……あれはやっぱり魔法なの……?というか、なぜ久保さんが知っているの……?」
楓の質問には答えずに、しかし楓を安心させるように笑って立ち上がった久保は、さらに首を傾げ、混乱した表情を見せる楓に手を差し出し、彼女が立ち上がれるように手伝う。
「それでは、私は楓さんのお荷物を学校に取りに行って参りますね」
「あ、私も、学校に戻らないと……」
学校を途中で抜け出してしまうなんてとんでもないことをしてしまった、と楓は焦っていたが、久保は静かに楓の言葉に首を横に振った。
「楓さんはこのままご自宅にお戻りください」
「どうして……?」
「お客様がいらっしゃってますので」
「お客様……いつものように、お母様の親戚の方……?」
楓にとって、母や祖母に来客あったときに同席することはよくあったのでそう聞き返したが、またも首を横に振られる。
「いいえ、楓さんを訪ねて来てくださった方ですよ」
「私に……来客……?」
『よかったねー、楓!わくわく』
「……なんであなたがわくわくしているの?」
いつものように『声』に返事をしてしまった楓は「今のは久保さんに言ったわけじゃないんです」と慌てたが、久保は安心したようにほ、ほ、と笑い、楓に声をかけた。
「『見えない方』もご一緒ならきっと大丈夫です。お客様とお話、しっかりとなさって来てくださいね」
そう言って学校の方面へ歩き出した久保に、未だ学校へ戻らないことへの後ろめたさを断ち切れない楓は「でも……」と声をこぼす。
それを聞いて楓を振り返った久保はまた、にこりと笑ってこう言った。
「大丈夫ですよ。楓さんなら、きっと……」
久保の言っていた言葉が最後まで聞き取れなかった代わりに、楓は彼が今までに見せたことのないようなニヤリとした表情をしたことに驚いた。
久保は学校の方へと去って行ってしまい、楓だけが道端に取り残されてしまった。久保が道の向こうに消えて行くのを眺めていた楓を『声』が急かす。
『ねぇ、行かないの?お客さん来てるんでしょ?』
「あ、あぁ、そうだったわね。久保さんも大丈夫と言っていたし、とりあえず家に……帰りましょうか」
そう返事をした楓は、ごま粒程までに小さくなった『飴のようなもの』を飲み込んで、すぐそこにある自分の家へと歩き出した。
*
門を抜け、玄関の扉を開いてすぐに聞こえたのは母の怒りに満ちた声だった。
「そんなこと認めないわ!」
学校を抜け出して来たことを叱られたのかと思い、思わず身をすくめた楓だったが、母は玄関の周りには見当たらなかった。気を取り直して客間へと足を進める。
客間の扉を開くと、ソファに腰掛けている、母と同じくらいの年齢の女性が目に入った。楓と同じくらいに長い、腰まで届く髪が目を引いた。しかしその髪は頭の低い位置で一つに束ねられており、色も楓とは異なる濃い茶色をしていた。白く長いスカートをはいた、上品そうな女性である。その女性の正面に立つ楓の母は、先ほど聞こえた声の怒りが現れた表情をして、女性を睨んでいる。
表情を変えず、母は楓の方を向いた。
「楓、あなた学校は……、いえ、この際そんなことはどうでもいいわ。ある学校の先生だと言うから家に上げてしまったけど、いい、楓、この方の言うことを聞いてはだめよ。私が許さないわ」
『楓のお客さんなのに何言ってるんだ、このお母さんは……』
いつも通り、『声』は楓の母に対して突っ込んだ。対して女性は楓の母の言葉に構うことなく、楓に向かって微笑んで見せた。
「こんにちは、永井楓ちゃん……かな。第三国立稀代高校から来ました、久代です。お会いできて嬉しいです」
久保が言っていた通り、この女性は楓を訪ねてやって来たようだった。楓は久代にぺこりとお辞儀をした。それを見てため息をつき、ソファに腰を下ろした母の隣に、楓も座る。
「お母さん、私は楓ちゃんとお話をしに来たので席を外していただいても結構ですよ」
「何をおっしゃるの。この子と貴方だけでお話なんて絶対にさせませんから」
どうやら楓の母は来客である久代に対してかなりカリカリしている。ソファから腰を上げない母を見た久代は、諦めて楓に話し始めた。
「楓ちゃん。今日は転校のお話をさせてもらうためにお邪魔させてもらってます」
「転校……。アメリカの、ですか……?」
楓にとっての転校は、母から言いつけられたアメリカの学校への転校しか思い当たらない。しかし母はこの女性の言うことを聞くな、と楓に言った。よくわからないことが今起こっていることだけは、楓にとって唯一確かなことである。
そして楓が不思議に思ったように、女性はアメリカの転校についての話ではない、と首を振った。
「楓ちゃん、今日、初めて魔法を使ったよね?」
「魔法……。なんでそれを……?久保さんも知っていたようだったし……」
『わかる人にはわかるんだよ~、きっと。僕にもわかったよ』
自慢げに話す『声』に返事はせずに、楓は昼休みの出来事を思い出す。地面に落としていたはずのクッキーと弁当が宙に、頭上に浮かんでいた。見上げるとすぐに落ちて来たが、確かに浮いていた。そこまで思い出して、楓はふと歴史の授業を思い出し、はっとした。『ものが浮かぶ』、それは『普通ではあり得ない』ことであり、魔法だ、と教科書に書いてあった。そして楓はもう一つ、歴史教師が言っていたことを思い出した。
「ということは、転校というのはもしかして……」
「先程から申し上げておりますが、うちの子が魔法を使うなんて、そんな馬鹿げたことをするはずがないでしょう?ねえ、楓?」
楓の久代への質問を遮った母は、娘をきっと睨んだ。母と目を合わせないように俯いた楓を見てから、久代は楓の母に話しかける。
「……ではお母さん、楓ちゃんの指を見て、同じことが言えますか?」
「指?指がどうし……」
どうしたの、と言い終わる前に楓の母はひっ、と息を飲んだ。楓が膝の上に揃えて置いている手の指に浮かぶ紋様を見つけ、手を口に当てる。
「なんて……汚らわしい……!楓……あんたは違うと思っていたのに……!」
「楓ちゃん。魔法を使う能力がどうやって発現するか、知ってる?」
楓をにらみつける母の目は鋭くなっていたが、楓の気は母ではなく、なぜか久代の声と目に吸い寄せられた。魔法が使える人の指に紋様が出るのは習ったが、どうして発現するのかは習っていない。首を横に振った楓を見て、客は話を続ける。
「突発的に発現する人もいるけど、ほとんどが遺伝なの。楓ちゃんも遺伝だよ」
「遺伝……?まさか、お母様……」
しかし、楓は母の指に紋様があるところなどは見たことがない。ふん、と鼻で笑った母は楓に答える。
「まさか、私が魔法なんて非科学的で馬鹿馬鹿しいものを使えるわけがないでしょう。楓、母に対してあまりにも失礼よ」
母の言葉に久代は少し顔をしかめたが、すぐにまた話し始めた。
「楓ちゃんは、お父さんからの遺伝だよ。素敵な贈り物をもらったね」
「お父様……?」
楓にとって父とは、顔も声も思い出せない、闇に包まれた存在。何度も父がどのような人物なのかを考え、諦めてきた。しかし確かに、楓の中には父に残してもらった贈り物があったのだ。
「だからね、楓ちゃん。今日は学校を転校しないかっていう提案に来たの。魔法の素質がある子特有の、何か普通じゃないことが身の回りで起こって、辛かったり、孤独な思いをしてきたこともあるんじゃないかな。だから、魔法を使える生徒だけが通う学校に来ればきっと……」
楓の心がとくんと鳴った。今唐突に、楓が生きてきた中で初めて、母によって敷かれたレールから外れる道ができたのだ。決められた生活、決められた進路。そこから離れられる。そして、母が一切明かしてくれなかった、父について知ることができるかもしれない。長い間わからなかった、(あまり積極的に知ろうとしたことはなかったが、)『声』の正体を知ることができるかもしれない。今まで全く知らなかった、魔法を、世界を見ることができるかもしれない。
めったに自ら物事に好奇心を抱かない楓は次々と知りたいことが浮かんでくることに驚いた。しかし、そんな楓の思考を遮るかのように、楓の母は声を張って否定した。
「失礼ですが、そのご提案にはお答え出来かねます。なにせ、娘は来週末にはアメリカに発って、留学をするんですから」
勝ち誇った顔をする母に、楓は身を縮こませた。母が強気になると、楓はもう何も言い出せなくなる。
「そうだったの?楓ちゃん」
「……」
黙って俯いたままの楓を見て、久代は母親に話しかけた。
「お母さん。魔法が使える子どもたちは、どんな環境にある子であっても専門の学校に転校できるんです。これは、国が定めた、国民への権利なのですから」
その言葉には強い信念と、楓の母の意見を否定しようとする強さが垣間見えた。久代と楓の母がにらみ合う中、『声』は少し楽しそうにひとり言を言った。
『これはひと悶着起こりそうだ……。わくわくしちゃうなぁ』