第二話
変にもやもやとした気持ちになった日の午後も、(何度も物を落としながら)授業を受け切った楓は帰路についていた。
「ねえ」
もちろん楓は誰かと帰っているわけではない。『声』に話しかけたのだ。
『なーに?』
「お昼に柚ちゃんの言ってた言葉が、何でかわからないけどものすごく引っかかってるの。あなたならなぜだかわかる……?」
『えー、どの言葉?』
こんな質問をしてくるほど、この『声』は何も感じていないらしい。しかし、とりあえず聞いてみる。
「あの……、魔法ってなんとなく怖い、っていう言葉……かしら。それを聞いてからずっと変な気分なの」
『ふーん、そうなのかぁ。まあ、僕には人間の考えることや感情なんて、理解できないことの方が多いからなぁ……。僕としてはわからないことで悩むよりも、今日は柚ちゃんの、『楓ちゃんがどんな人でも、大好きだよ!』って発言の方を喜ぶべきだと思うよ?』
「……そうね、確かにそうかもしれない……」
そう言われた時のことを、楓は今でもはっきりと思い出すことができた。胸の奥の方がじわじわと暖かくなり、自然と笑みがこぼれてしまった、あの感覚。大げさな感じもするが、世界の色が変わったような気さえもした。
「本当にうれしかった。生きていれば、こんなこともあるのか、と思ったわ」
『僕も嬉しかったよ、楓の喜びが僕にも伝わってきたからね』
そんな話をしているうちに家の門までたどり着いた。一般的な一軒家が立て並ぶ住宅街にひとつ、異様に広大な土地を利用して建てられた屋敷のような家。それが楓の住む家だ。
門を抜け、家のドアを開く。
「……ただいま帰りました」
いつもと変わらない静寂。ただいまと言って、誰かに「おかえり」なんて言われたことはほぼ無いに等しい。
『本当に大きなお家だよねえ……。今日もお母さんとおばあちゃんいないの?』
ただでさえ静かな広い家で学校でしているように『声』に返事をすれば恐ろしいほどに音が反響してしまうので、最小のボリュームで返事をする。
「いいえ、今日は二人ともいるはずだわ……、夕食を一緒に食べなさいって言われてたのが今日だったはずだから……」
「楓」
楓ははっとしてあたりを見渡した。玄関を入ってすぐにある大階段から、楓の母が降りてきた。短く揃えられた髪は楓と同じ漆黒色だ。
「帰ってたのね。今、また一人で話してたんじゃないの?」
「……いいえ」
楓は母と目を合わせず、うつむいて答えた。楓にとって、母や祖母は理解をしてもらえない存在だった。娘、孫の話も意見も聞かず、ただ自分たちの思い通りに育て、教育し、立派な永井家の女性となれるようにと尽力する。それが楓のためだと言うような人たちだった。
「いつまでその『イマジナリーフレンド』と話しているつもりなの?それとも霊か何かなのかしら。また神社に行ってお祓いでもしてもらう?学校にちゃんとしたお友達はいるんでしょうね?」
『この女はいつもそうだ!僕をそんな物と一緒にするなって言ってるだろ!お祓いしたところで祓うものが無いよ、楓には!お祓いしすぎ!それに友達だっているよ、今日その子が大好きって言ってくれたんだぞ!』
何も言えない楓の代わりに『声』が猛反論をするが、もちろん楓の母には聞こえてはいない。
「まあいいわ、とにかく今日の夕食には来なさいね。お話があるから」
「……話?」
「今聞くんじゃないよ。19時には席についてなさい、いいわね?」
そう言って楓の母は再び上の階に戻っていった。楓はまだうつむいたまま、動けないでいた。
『なんで楓は我慢するの?僕だったら一発殴ってやるのに……!』
声だけでもカンカンに怒っていることがわかったが、楓が返せたのは力無い声での弱音だけだった。
「逆らえなんてしないわ……」
『ほんと、楓は優しいのか弱いのかわからないなあ。人間特有の行動だよね、そうやって自分を隠すの』
勝手に言ってなさいよ……、と心の中でつぶやいた楓は、重い足取りで自分の部屋に向かった。
部屋に戻った楓はすぐにベッドに寝ころんだ。幸い今日はしなければならない課題もない。今日のお昼に友人の言葉であんなに幸せな気持ちになったのが嘘のように、体が重い。実の母と話すだけでここまで疲れるとはどういうことなのか、と楓はつくづく思う。
そんな母と、楓が顔も覚えていない父はなぜ互いに愛を誓い、自分のような子をもうけたのかが楓は不思議でならなかった。父も母のように人を疎ましく扱う人物だったのだろうか。それとも……。
楓がそんなことを考え始めたのは小学生になってからのことであり、かれこれ父がどのような人物なのか、どうすればわかるのかを10年ほど考えていることになる。しかしどれだけ思考を巡らせたところで推測に過ぎないことを楓はわかっていた。幼いころ、恐る恐る母に父について尋ねた日には「そんなどうでもいいことを気にする前にもっと有意義なことをしろ」とさんざん怒鳴られたことがあるので、父の人物像はつかめないままだった。
10年考えたところで、また、誰かに話を聞けたところで、会ってみないとわからないものなのだろう、と今では考え始めてもすぐに諦めるようになった。
仰向けに寝転んでいた楓はふうと息を吐き、腕で目元を隠して『声』に尋ねた。
「ね、18時半になったら起こしてくれたりしない?」
『僕をアラーム代わりに使わないでよ?!それに、僕には人間の時間感覚が備わってないからそんなことできないよ……、え、まさかもう寝ちゃった……?』
『声』が言った通り、楓はもうすでに夢の中だった。
彼女は夢を見た。顔も声も、少しも覚えていない実の父に会う夢だった。父は笑っていた。よく頑張っているね、と声をかけてくれる。そして楓は、右手を誰かと繋いでいて……
コンコンコン、という音がして楓は目を覚ました。しまった、今は何時なのだろう、と楓は焦った。時刻を確認をする間もなく、ノックの聞こえた自室のドアを急いで、しかし恐る恐る開いた。そこに立っていたのは……
「あ……よかった……久保さんだったのね……」
この家に住み込みで働く、執事だった。白とグレーの混じった髪をきれいに整えた、言わばご老人であるが、その仕事ぶりは楓の母にも祖母にも認められている。
「楓さん、今夜はお母様とお祖母様とのご夕食でしたよね?ご準備を勧められているかの確認に参りました」
「久保さん……本当にありがとう。あなたが来なかったら私、眠ったまま夕食をすっぽかすところだったわ」
「ほほほ、やはりそんなところでしたか。大丈夫ですよ、まだまだ十分にお時間はありますので、身支度を済ませて食堂にお越しください」
白い手袋をした手を口に当てて笑った執事は、楓の考えていることや行動を完璧にわかっているようだった。これが、久保という執事のすごいところである。
楓が久保の相変わらずの働きぶりに感心していると、久保は少し声を小さくして楓に尋ねた。
「先月ごろから少しだけ、楓さんは学校に行くのが楽しそうに伺えます。なにか学校生活で良い変化がありましたか?」
初めての友人が一人できたことを楓はこの家の誰にも話していない。しかしそれも久保にはお見通しだったのだ、
「そんなことまでわかるのね……。ええ、先月の試験が終わってすぐに、ちゃんと目に見える人間のお友だちが……初めてできたの……」
『なんでそんなに見た目にこだわるのさー』
『声』は少しむくれているようだったが、それでも彼女の初めての友人を歓迎してくれているのは確かだ。そして楓以外の人間と同様に『声』は聞こえていないものの、久保も楓の初めての友人を歓迎してくれた。
「そうでしたか……それはよかったですね。しかし、見えないご友人さんとも、是非仲良くなさってくださいね?」
にっこりと笑った久保は「それでは」と業務に戻っていった。
『あのおじいちゃんだけは、僕のことちゃんと信じてくれてるよねぇ……。いい人だ』
「おじいちゃんではなく、久保さんね。本当に優しい方だわ」
久保は唯一、この家の中で楓の話を聞いてくれる存在だった。しかし母たちは、久保と楓が二人きりで個人的な話をすることを禁じているため、なかなかこうやって会話をする機会もないのだった。
「さ、せっかく久保さんが起こしてくださったんだから、準備しなくちゃ。本当は……あまり気分は乗らないけど……」
『僕もお母さんたちとの夜ご飯、気乗りしなーい』
「あんたは何もしないんだからいいじゃない……」
楓はそんなことを『声』に言いながら、制服を脱いで夕食用の服に着替えた。長い黒髪に櫛を通し、鏡の前で見た目をチェックをした。
「これで大丈夫……よね」
『ばっちりばっちり』
「今日はテーブルのカトラリーを落としませんように……」
時計は18:40を指している。今から食堂に向かえばちょうどいい時間だろう。
*
「ちゃんと来たわね」
「……はい」
今日は和食の日のようで、楓の目の前にはきれいに盛り付けられた筑前煮やいくつかの小鉢、ご飯などがお盆の上に並べられている。
「楓ちゃん、こうやってご飯を一緒に食べるの、いつぶりかしらねぇ」
「……ふた月ぶりです、お祖母様」
「そうか、もうそんなにもなるのね。さ、いただきましょう」
黙って食べ始める母と祖母に反して、楓は小さくいただきます、と呟いて食べ始める。勉学や生活態度については厳しい二人が、なぜ「いただきます」とは言えないのかが楓にとっては不思議でならない。
『せーっかく一緒に食べてるのにずっとだんまりじゃない。早く話せーおらおらー』
そんなことを『声』が言うが、もちろん聞こえてはいない。結局母たちが話し始めたのは、楓が最後の一口を食べ終えてからだった。
「今日あなたを呼んだのは他でもないわ。転校先が決まったのよ」
「て、転校……?」
「学校の先生によれば、あなた成績がかなりいいみたいじゃない。もっと上の学校に行っても差し支えないんじゃないかしらと思ってね、お祖母様といろいろ調べて、このアメリカの高校にしようと思ってるの」
差し出された学校案内のパンフレットを見せられた楓は、開いた口が塞がらなかった。高校一年生になって、まだ一学期も終えていないのに、何を言っているんだ、この母親は。そうとしか、思えなかった。
「お言葉ですがお母様……まだ入学してから一学期さえも終わっていませんし……」
「ええ、だから一学期は今のままでいいわ、夏休みに入ったらすぐ、アメリカに飛んで英語の勉強でもしなさいな」
「で、でも私、友だちが……」
バンッ、と祖母がテーブルを叩いた。
「楓ちゃん、あなたのお母様が一生懸命になって、あなたのためを思って探してくれたのよ?それにお友だちなんて、また見えない何かと話しているだけなんじゃないかしら」
「ちが……います、ちゃんと、3組の女の子で名前は……」
二人の顔がみるみる曇っていく。楓は柚の名前を口にできないまま、黙り込んでしまった。
「このごろ反抗することはなかったのに、どうしたの、楓?……とにかく、夏休みに入ったらすぐ出発よ。少しずつでも持っていくものをまとめておきなさい」
「……お母様、私は、」
「いいわね?」
楓が何かを言いかけたことを気にもかけず、二人は食堂から出て行ってしまった。
『楓、柚ちゃんとせっかく仲良くなったのに、これでいいの?』
「……なんて言ったって、変わらないもの……」
一人、静かに涙を伝わせた楓は、父ならこんなときどうするのだろうと考えて、またすぐに諦めて思考を止めた。