2『二十四時間前』④
「……立て。グウィン。この魔術師の前で膝を折ってはならない。ケヴィン、ヒューゴ、アルヴィン――――兄を守れ。グウィンが倒れたら次に引き継ぐのだ」
「ゲホッ……陛下……!? 何を仰っているのです……! まるで、そんな……」
「ケヴィン、頭のいいお前なら分かるはず。あれが魔術師に違いない! あれは必ず選ばれる! 」
「今なのですか! 三千五百年! そのあいだに何も起こらなかったのに! よりにもよって今……私たちの世代なのですか! 」
「そうです。ケヴィン皇子。材料は揃った。予言は果たされる……人類の選定が今、この夜、始まるのです」
魔術師が招くように持ち上げた指を曲げた瞬間、アルヴィンは隣を風が通り抜けたように感じた。風切り音に導かれたように首を回したアルヴィンの瞳に、耳に、今さらやってきた右の二の腕を爪が掻いた痛みに、起きたすべてが詳らかに晒される。
「アアアアア……―――――」
電池の切れかけた玩具のようにアルヴィンの舌が震える。
「ミケェ―――――ッ! 」
彼が視たのは、アルヴィンの二の腕を掴んでいた手首が弧を描いて皇帝の足元へと落下し霧散する瞬間だった。深緑のローブに包まれた矮躯が両断され、二つに分かたれた断面から、血の代わりとなって黒い霞が溢れる。遅れて、鉄を叩いたような硬質な音が広間に響いた。アルヴィンは足を踏み出し、手枷のついた両腕を伸ばした。
胴と足が分かたれたミケは、金色の瞳を見開いてアルヴィンをまっすぐに見た。
ぽっかりと開かれた口の中で、舌が何かを言わんと動いた。その口からも泥のような霞が吐き出される。代わりに千切れた右腕が持ち上がってアルヴィンに伸ばされた。深緑のローブが、アルヴィンの肌に触れた端から塵となって空気に溶けていく。魔法が解けていく。ミケを作っていたものが崩れて消えていく。鼻の先から黒い霞の中に顔を押し付けると、微かな肉体の名残りの抵抗と、古紙とインクと金臭さの混じった嗅ぎ慣れた体臭、その持ち主の囁くような最後の息吹が耳に触れた。
カラカラと音を立て、アルヴィンの膝を打って、両断された銅板が床に転がる。
霞を掻き集めるように虚空に両腕を伸ばしかけ、それがもうどこにも無いことに気が付いた瞬間、アルヴィンは膝を折って、語り部の亡骸――――魔法が解けた銅板の上で慟哭した。
魔術師が手を掲げる。
銅板の片割れが、見えない糸に引かれるようにして、魔術師の手に収まった。
「――――最初に、古えの魔女の魔法をひとつ鍋にくべました。まずひとつ……」
魔術師の足の裏が、地を離れた。巨神の像を背にして、魔術師はミケの生れの果てを掲げる。
「この国は魔女の墓。魔女の亡骸はすでにここにある。墓守の血もここに五人もある……あとは魔女の末裔だけ。」
魔術師が向けていた手のひらを下に向けると、広間にいくつもの、青くまばゆい炎が灯った。無数の青い火は儚げに揺れながらおのおの縦に伸びて、人型の陽炎をつくりだす。一瞬、魔術師以外の誰もが、その意味を理解できなかった。
「貴様ァァァアアアア――――ッ! 」
咆哮のような怒声を上げたのは、いつも物静かな次兄のケヴィンだった。怒声に驚いて顔を持ち上げたアルヴィンは、陽炎のように揺らめく青い人々の中に見覚えのある姿を見つけて、目蓋を掻きむしりながら床に額をつける。視線が勝手に犠牲者たちを数えてしまうことが恐ろしかった。
「選定されるのは二十二人。私が選ばれるためには、始まる前に一人でも多く殺して確率を上げておかなければいけなかった。分かるでしょう? 」
「これ以上は民には手を出さないでくれ! そのためなら望みはなんでも! 」
「なんでも? なんでもと言いました? 皇帝あなた、ふふっ! そんな体で……ふふふ……おかしい」
くすくすと魔術師は笑った。
「……いいえ。しませんとも。これ以上のリスクには触れたくない。だって私は、特等席に座りたい。選ばれし民の一人となりたいのです」
選ばれし民……? アルヴィンは涙に濡れた顔を上げた。
「――――では次に、我が忠実なる手駒を用意しましょう」
「逃げろ」と父の声が言う。アルヴィンの身体は氷像のように固まって動かない。動きたくないと思った。ミケを失って得た感情が体を重くした。
今度は下から風が吹いた。
いいや、それは風というよりも波だ。押し寄せ砕ける冬の海の大波に似ていた。
氷そのものとそう変わりはしない冷気と衝撃に、屈強なフェルヴィンの男たちの呼吸が止まる。アルヴィンは、自身の軽すぎる身体が渦に巻かれながら上へ流れるのを感じてもがいた。顔を庇って突き出した自分の指越しに、激しく揺らめく青い炎を見る。その炎の中に見上げるほどの巨大な髑髏が浮かび上がり、揺らめきながら屍の手足がもがいているのが分かり、それが溺れて漂う姿に似ていて、アルヴィンはつい、その小枝のような指先へ手を差し伸べ――――髑髏の眼孔と視線を交して初めて奔った悪寒に、それが間違いだったと知った。
その男は、いつしか立派な剣を握りしめていた。ゆっくりと剣先が上がり、ぬらぬらと煌めく鋼がアルヴィンの顎に添えられ、そして――――――。
……どこからか、魔術師の声が聴こえてくる。
「――――月白の金の髪……青銀の瞳……乙女にも勝る白磁の肌……! 嗚呼ッ……! 肉体は滅びても魂はこの墳墓に! 今こそ新たな物語を刻む時! お出で! 体をあげよう! この手を取るのだ!
ジーン・アトラスッ! 」
……視線を交している髑髏に、肉を持った肌が重なっていく。がらんどうの眼孔に輝くような青い瞳が収まり、白い瞼がその上に降りた。瑞々しい白い頬から続く首から下は、老人のままに乾いている。
「老いて病に屈した貴様に、再びの美貌と栄光を与えよう! 蘇るのだ! 虚無の生者、アルヴィン・アトラスの頭蓋骨を糧として! 」
アルヴィンは炎の中に見た。
かの皇帝が、微睡みから覚めるように再び瞼を開き、アルヴィンに向かって悲し気に青い瞳を揺らめかせて遠ざかる。
交差し結ばれた視線はアルヴィンの意識が闇に閉ざされていくことで離れ、アルヴィンの意識は銅板の片割れと共に、無音の暗黒を切り裂くように、どこまでも果てしないところへと落下していった。
……最後に聞こえた自分を呼ぶ声は、いったい誰のものだったのだろうか。