2『二十四時間前』②
我々は語り部である。語り部の本分は陰である。我々は物語の傍観者であらねばならない。
語り部の魔人は、かつて魔女より約定を賜りし『意志ある魔法』という存在だ。
『我々は主の生誕の瞬間からこれらの文句を誓約とし、約定の証としてアトラスの民を記録するために文字を操る意志と、物語る腕と、見つめる瞳と、詩を紡ぐ舌を得た』
我々の先祖が魔女と交わした百八の誓約は、この文句から始まり、こう締められる。
『誓約を守れぬ語り部は語り部にあらず。語り部にあらざるものは、約定により一族の原初たる宇宙の一部となることとする』
この誓約により、我らはフェルヴィンの末までを見届けるのだ。
我々にとって、主となる彼らは生涯の主人公。傍観者たる語り部は、決して物語には浮上しない。語り部は自己を描写しない。主人公の運命に干渉してはならないからだ。主人公の睫毛の影として、その瞳に映る世界を記録する装置でしかないのである。我々はその小さく微かな影から出てはならず、主が最期を迎えれば、睫毛の影を滑り落ちて、ただのインクとして、物語に……我らが主人の生を文字として編み上げ、ピリオドを打つ。そういう魔法。それだけの魔法。
それが誓約。誇りある役目。
主がこの世に産まれたその瞬間、そのために私は私として世界にまろび出た。以降、本日までの十四年と九十八日間、瞬きも惜しんで彼を見つめてきた。
誓約は、我々にとっての肉だ。これによって我々の存在は元始たる宇宙の法則から抽出され、この世に顕現することができる。
誓約では、たとえ目の前でアルヴィン様の首が刎ねられようとも、私はそれを黙って見ていることしかできない。
……でもそんなの、耐えられるわけがないじゃあないか。
アルヴィン様が恐怖に身を捩ることも自分に許さなかったその時、私は、私の何もかもを忘れた。
私の胸に溢れるのは、アルヴィン・アトラスという、ただ一人のこと。
たった十四歳しか生きていない生命のこと。
私が十四年と九十八日、ずっと一緒にいた、たった一人しかいない貴方のこと。
だって、おかしいじゃあないか。十四歳が抱える悩みなんて、十年もすれば教訓になる。間違いで人は成長する。なのに貴方にだけ、その十年後が無いなんて。そんな悲しい覚悟を抱えて死ぬなんて。あの十四年が、悲劇で終わるなんて。
ジーンとコネリウスのようにならなくていい。先祖のような勇者でなくていい。
―――――貴方がいなくなるくらいなら、ミケはなんだってできる!
「お兄様たちは生きておられます」
傍らを歩く見張りから掛けられた言葉に、アルヴィンははっと顔を上げた。
床を踏む自分の歩みがようやく見えるほどの仄かな灯火しかない地下の回廊。
自分よりも頭一つ高い位置にある素顔は、ローブの奥の陰に沈んでいる。アルヴィンは先ほどまで姉といた明るい牢獄で垣間見た、この人物の髑髏のように痩せた頸を確かに覚えていた。その血の気のない薄い唇から紡がれたはずの声に耳を疑う。それは確かに、誰よりも聴き慣れた、少年と少女の間のような声。
「……ミケ、か? 」
「もちろん貴方様のミケでございますとも。今ならば誰が聞いているということもございません。よく辛抱いたしましたね」
「ミケ……おまえ、今までどこにいたんだ」
「もちろん、貴方様の陰におりましたとも」
「じゃあなんで……っ」アルヴィンは語尾を強くしかけ、荒ぶる感情を千切るように首を振って気を取り直すと声を落とした。
「……兄上たちの行方はわかっているのか」
「語り部はより深く物語るため、糸のようなもので繋がっておりますから」
「逃げるといっても、算段はどうなっている? 」
「このミケにお任せください。活路を開くすべはあります」
「……語り部には誓約があるだろう」
自分で言ってすぐ、アルヴィンは顔を歪めた。嫌いなものの匂いを嗅いだ猫のような顔だった。
「おまえ……誓約を破るつもりではないか? ぼくのために」
「御心配にはおよびません」
闇に沈んだ口元が、明るい声で言った。
「語り部とは慎重であるものなのです、アルヴィン様。同胞共がお兄様方の危機を静観しているのがその何よりの証。しかし私は違います。『舌の誓約 第五条』にはこうありますでしょう。『主の意志にみだりに口を開くべからず』……しかし、このお喋りミケが、今まで罰せられたことがありましたでしょうか? 誓約とは、はたして何がどこまで禁忌に障るのか、それは我々にも分かりません。同胞は自らの生末に怯えていて動けずにいるのです。しかしこのミケ、語り部とは主の一の従僕であると心得ておりますので、私こそが勇気ある一番槍というわけです。これで他の語り部どもも重い腰を上げて動きましょう! そうなれば我ら語り部十二人衆が殿下たちを―――――」
「誤魔化すな……! 『舌の誓約 第二条』には、『語り部はあらゆる虚偽とごまかし、曖昧で誤解を招くような文言を禁ず』とある! ぼくを騙せるつもりでいるのか? 語り部の誓約がそんな甘いものではないのは知っているぞ! コネリウス皇子の語り部は、死にかけた皇子に水を運んだばかりに誓約に触れて死んだ! 語り部は主の運命を変えたら死んでしまう生き物なんだから! 」
「皇子。らしくない間違いをいたしましたね。我々は『生き物』ではありませんよ?」
悪戯が成功した子供そのものに笑う声が、囁くようにそう訂正する。
「我々は意志ある魔法……生命あるものではありません。魔法は解ければ宇宙の法則に戻るだけ。それは死ではない」
「今さらぼくが……兄さんや姉さんが、お前たちをそんなふうに見ているわけがないだろう? 語り部を亡くした数多の先祖たちがどれほど悲しんだと? 意志があるなら、それは命というんだ! 」
「貴方様なら、そのように仰ると思っておりました」
「主人を泣かせておいて、何が可笑しい! ぼくはもう十四歳だぞ! 」
「アルヴィン様、足を止めてはなりませんよ。歩き続けて。そしてよくお聞きください。大切なことです。ここは王城の地下にある空間です。縦に連なる二十二の世界のうち最も深い、最も冥界に近い場所。ここでの一年は、外での半日にも百年にもなります。ひどく時間が曖昧なのです。少しならあの『死者の王』をも欺くことができましょう。さあ、一語一句ミケの言葉を逃さずに。いいですか」
真剣なミケの声が、すべての首尾を話し始め、アルヴィンはひとつひとつに頷きながら聞いた。
「姉さんたちは、うまく逃げられたんだな」
「皇子の功績です! 皇子があそこで部屋を出たから、見張りが分散してうまく皇女を逃がすことが叶ったのです! 」
「そうか……よかった」
やがて一瞬の間が空き、言葉に迷うアルヴィンに肩に、やおら灯を床に置いたミケが手を置き、ふたりはしばしの時、闇に浮島のように浮かんだ灯火の中心で向かいあった。
「……アルヴィン様。運命とはつかみ取るものではございません。向こうからやってくるものです。歴史上数々の英傑が、英傑たる者になったきっかけとは、運命という暴走車に正面衝突されたようなものでございます。そして、危機となれば救けの手がどこぞより降ってくる。……ですから貴方は、この身勝手なミケに、勝手の『手』に救われて生き続ける運命なのです。いいですか、私は今から、とても残酷なことをします。貴方は傷つくことでしょう。傷が癒えた後も、ふとした時にミケがいなくなって困ることもあるでしょう。貴方から見える現実は、物語のように脚色されません。数々の心無いものたちが、貴方を挫かんと待ち伏せています。しかしどんな困難も、これを乗り越えた先にいる貴方なら、何一つとして恐れることは無い。アルヴィン様は類まれなるイケメンで、勇敢で優しく、頭がいい! アルヴィン様の語り部であることは、ミケの最大の誇りなのです」
「くそ……! くそっ! ぼくは、ぼくは――――」
「……まったく。子猫のようかと思えば、今度は猟師に耳を掴まれた兎のようですね。今こそ悪に抗い戦うべき時。勇者に涙は似合いません」
「……そんなのは、自分の目玉にも言え! 」
「おや……これは私に許された最後の褒美ですもの。……さあ、もうすぐです」
長くも短い回廊が終わった。
アルヴィンの目の前には、見慣れぬ扉がある。ミケが掲げた灯火で、ひととき粘的に闇が退き、神話の巨神が剣を持って立ち塞がる姿が浮かびあがる。荘厳であったのだろう、こんな煤けた地下には不釣り合いな鉄扉であった。
それを見て今さらながら、アルヴィンはこの場所を居城の中のどこかだと確信する。巨神アトラスは、フェルヴィン王家の始祖神であるからだ。