終『アフター・ダーク』
まるく切り取られた青空が、足より下に見えた。
「ジジィ―――――ッ! 」
目の前にあるのは青空と黒。点滅する視界は、自分の瞬きなのかも判断がつかない。サリーの声が、うるさい風の音の向こう側に聞こえる。腕の中に皇子がいることを確かめて少し安心し、ボクは次にやらなければならないことをする。
瞼を閉じるにはまだ早い。
青空に、あいつの影。よく知っているあいつの手。
ボクは自分の生ッ白い手を伸ばし、ガクンと全身に重力を感じたその瞬間、全部のスイッチを切った。
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体中から噴き出た汗が、バラバラと落ちて行った。
「ジジ……ッ! 起きろっ、おい! 」
途切れ途切れに息を吸う。
右腕にぶら下がる重量は、明らかに腕一本、箒一本で支えられるものを超えている。重みに箒の尻が上がり、身体が滑らないようバランスを保つだけで必死。移動なんて論外。肩や腕は嫌な音を立てて軋んでいるし、ベルトが腹に食い込んで呼吸も苦しい。
魔人であるジジの体重は、自称する通り雲のようなものだが、だとすればこの重さは、ジジが抱えるアルヴィン皇子のものである。十四歳男児の痩躯が40キロを超えないものだとしたら、それを倍にもしているのは、この肉体を支えている鎧だろう。
加えて、サリヴァンは自分の身体の異変も否応なく感じていた。
動悸、視界の点滅、頭の内側から押し寄せる眠気、倦怠感、末端の冷えと痺れ。魔法使いだけが持つ飢餓症状。魔法の使い過ぎというやつだ。
髪に貯蓄していた魔力まで使っても、計算上ではケトー号まで帰還する余力はあるはずだったというのに、土壇場でつい力をこめすぎてしまったのか、最後に駄目押しで使った『南風の女神の加護』で、男嫌いの女神に嫌がらせされたのか。
こうしている間にも、箒はサリヴァンの魔力を吸っている。
目の前がチカチカと点滅する。イエローランプ。赤になったら、強制シャットダウンだ。
(……いや、シャットダウンってなんだ? )
ジジと契約してからというもの、時折こういった意味の分からない語彙が浮かぶ。いつもなんとなく状況と照らし合わせて納得しているが、知らない言葉が電波でも降りたように浮かぶことに、サリヴァンの気は散ってしょうがない。
(まずい。頭が現実逃避始めやがった。今はその考察してる容量ねえだろ……)
汗で滑る。そもそも自分の左手は、きちんとハンドルを握る仕事ができているのか。
(ああ……頭が霞む―――――)
とっくに規則性を失っていた自分の呼吸のリズムが、フッ、と途切れたのが分かった。
張り詰めた意識の糸が千切れる。
頭の奥にある堰が切れたような浮遊感。しかし、一向に衝撃はやってこなかった。感じるのは、柔らかく着地した強烈な油のにおいのする温かい振動する床。脳みそがくらくらする爆竹のようなエンジン音。そして、確かめるように額から首にかけてをなぞる柔らかい手の感触。
「間に合って良かった……」
サイドカーに重なる幼馴染と魔人、要救助者一名を見下ろし、ヒースはよりエンジンをふかしてハンドルをきった。黒い雪が降る森の上に、爆音が轟く。
銀色の機体は、魔法の箒の発展型。流線形を描く車体の内側には、二輪駆動に三つの魔力蓄積型エンジン。従来の箒との最大の違いは、重量級の運搬とスピードを両立するそのパワフルな機能性。
まだ法整備もできていない開発中の機体は、ヒース自慢の隠し財産のひとつである。ケトー号には負けるものの、手塩にかけて育てた愛機だった。
「ウウン……ヒース? なんで……ケトー号は……」
身動ぎしたサリヴァンが、薄眼を開けてヒースを見止める。
「いいから、少し休んで」
「すまん……ありがとう。助けてくれたんだろ」
「あなたはよくやったよ。こっちこそ、ありがとう。無茶をさせてごめんね」
「へへ……なんだよ。明日は猫が降るな」
サリヴァンはそう言って、重い瞼を閉じる。すぐに呼吸が寝息に変わった。ヒースは風に乱される黒髪を撫でつけるように耳にかけ、大きなため息を吐く。
グローブの中はもちろん、剥き出しの二の腕や下着の中の胸の谷間まで、肌という肌は冷や汗でびっしょりと濡れている。密室の運転席ではラフな格好を好むヒースであるが、これでも幼少期から厳しく教育されている彼女は、袖の無い恰好のまま空のもとに出たのは今日が初めての経験だった。
「なんて世話が焼ける許嫁なんだ。結婚生活が思いやられるね」
ヒース・エリカ・クロックフォードは、不快に湿ったグローブを寝こけるサリヴァンの腹の上に投げると、むず痒そうに手首を擦り合わせた。
「ああいやだ……まだ震えてる。まったく。焦らせないでよ……」
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飛鯨船には、大きく分けて三つのランクがある。
定員四名以下、10㎡以内までが小型。定員四名以上、十名以下で12.3㎡以内が中型。それ以上が大型となる。数度あった大戦で、軍事利用を目的として大きく発展した飛鯨船であるが、昨今は様々なものを運ぶ目的をして人を運ぶに留まらない機体も多く開発されている。
日夜、世界中の技師が競うように研究を進める飛鯨船開発であるが、中でもケトー号は特別製である。
高さ3.5m、幅2.9m、長さ9,6m。突き出た二対の『ひれ』まで漆黒の機体に、腹に描かれた大きな藍色の瞳のペイント。これは、邪気除けを意味する船乗り伝統のまじない紋様だった。
小型飛鯨船に分類されるケトー号は、知るものが見れば二十年は遅れた旧型で、スタミナの無い身軽さだけが売りのロートルだ。しかしヒースに改造された『彼女』は、内部にこそ真価がある。
「おい……他国の皇帝に操縦を押し付けるなんて、前代未聞だぞ……」
サリヴァンは、疲労に青くなった顔をもっと青くして言った。
「し、しかも、ここまで陛下たちは不眠不休で……お前……おまえっ、なんて、とんでもないことを……! 」
「い、いいんだよ。三十分ほどのことだったし、僕の少ない特技が役に立ってよかったと思っている。弟を助けてくれてありがとう。今はきみも体を休めよう」
「な、なんて優しい……! 」
ケトー号の床に這いつくばって、サリヴァンは雄たけびのようにお礼を言った。その傍らで、当のグウィン陛下は困ったように、弟のヒューゴと肩をすくめている。別に、フェルヴィンの皇子たちが謝罪を強要したわけではない。へとへとでようやくケトー号に辿り着き、操縦席でハンドルを握るフェルヴィン皇帝というショッキングな光景を目にしたサリーが、床から立ち上がれなくなっただけである。疲労が一周回ってハイになっているサリーはひどく感銘を受けたようで、その感動の大きさはそのままヒースへの怒りに変換されていた。
そそくさと操縦席に戻っていったヒースの背中は、頑なに「運転に集中していて聞こえません」という体で沈黙している。母親の小言を聞き流す子供のようであった。
「そ、そんなことよりも、アルは? 」
「『選ばれしもの』だから、傷はどんどん治っていっているって。今はケヴィンが付き添って、七号室のベットだ」
高さ3.5m、幅2.9m、長さ9,6m。外装だけならば、小型に分類されるケトー号の最大の特徴は、内部のその広さ、定員50名という大容量にある。
額にあるハッチを開けるとまず目に入るのが、落ち着いたブラウンの色彩の、三階建てぶんの吹き抜けだ。レモンを横に切ったような楕円の中に、真鍮の手すりがついたキャットウォークと呼ばれる廊下が張り付いており、それぞれの階はハンモックのような丈夫そうな網が梯子のかわりにかかっている。キャビンは二階と三階に分けて十部屋。一階には食堂を兼ねたホール、トイレ、リネン室などの水回り、食糧庫や、商品を入れる格納庫、ついでに操縦室と直結した船長室などがあるが、これは完全にヒースのプライベートルームである。
この空間を維持しているのは、『拡張』と『軽量化』の魔法。
『魔法使いの国』の技術のすいを注ぎこんだケトー号の腹の中身は、じゅうぶん生活の場が整えられた『動くアパート』だった。
もちろん、飛鯨船である以上、安全性のために、食堂に並ぶ椅子はどれもシートベルト付きで床に固定された重量感あるソファであるし、リネン室は使えるときのほうが少ないに違いない。水は貴重だ。
「こんなものを見ると……あの『黄金船』も、ありえない技術ではないのかもしれないな」
そう言ったグウィンは、元軍人でもある。
軍属となれば、少なくとも小型飛鯨船の操縦士免許を取得するのは当たり前だ。この世界では、国防のために『飛鯨船』は必須なのだから。そして各国の軍には、それぞれが掻き集めた技術が集結される。誰しも、自分の財産を守るための金庫の性能を惜しむはずがないからだ。
戦争は数え切れないほどあった。なかでも三度の大戦は、飛鯨船だけでなく、様々な科学発展のはしごでもあったろう。
「そろそろ雲に潜りますよ。みなさんご準備を」
ヒースのアナウンスが響き、一同は一階の食堂へと集まった。もちろんアルヴィンの姿は無い。カプセル型のベッドは、天地が引っ繰り返っても安全である。
科学の発展は、やがて、海と空に遮られた世界の流通を変え、人も道具も通りが良くなった。交流は差別と争いを産むが、出会いと議論も生む。積極的に『留学』というシステムを取り入れた『魔法使いの国』はとくに顕著?で、この百年ほどで爆発的に発展しながらも、その『魔法』という技術の輸出は各国で歓迎されている。
今、世界はおおよそ平和といえる水準になっているといえる。
世界がまだ一つだったころ、魔法使いも人間も、ドワーフも、エルフも、巨人も、妖精も、竜も、神々ですら、ともに持てるすべを注ぎこんだのなら、あの『フレイヤの黄金船』を造ることも可能だったのかもしれない。
そんなふうに思えるところまで、この世界は来ていたのだ。
気圧の変化で頭が締め付けられる感覚に、ひとりアルヴィンは目を開けた。
首から上はやはり冷たい金属であったが、手足に張り付いていたものは消えていた。アルヴィンが傷つくたびに広がっていったあの鎧は、彼の身体を守るものだったからだろう。繭のようになったベッドは、天井まで柔らかい素材でできている。毛布の詰まったそこから抜け出したアルヴィンは、ぺたぺた体に触れ、膿で汚れた包帯を取り去り、火傷がひりひりとした赤みだけを残すのみであることを確認する。
踏みしめる床が、ふわふわ揺れている気がして、アルヴィンはふらりと窓に近寄った。三重に仕切られた窓の奥には、どこまでも続く白い、白い、海があった。
「雲海………! 」
アルヴィンは夢中で窓に齧りついた。
平らな白い大地の上、アルヴィンの眼に飛び込んできたのは、見たことが無い青だ。
ここが次の世界との境界線。留学先への行き帰りの時は、窓が無く、そして座席から離れることも許されなかった。
人は『青空』という表現をする。しかしその、深い――――いや、どこまでも『遠い』青。雲海との境に、帯のように散らばる極彩色の小さな星々のきらめき。白い雲も、『白』だけが正解ではない。ただ『青』と表現するには安直すぎる。
初めて見た空の上。そして海の底でもある。上を見れば、グラデーションを描いて海の色が広がっているはずだったが、窓が小さすぎて平行線状の景色しか見えない。窓の縁を上目遣いでもどかしく睨む。
「はぁあ……これが、『空』の色―――――」
『青』が暗くなる。ワインを溶かし込んだような紫色が混ざりながら降りて来る。海底へと突入するのだ。船は、上へ、上へ、大気を掻き分けて昇っていく。
今、外は真空だという。外気はやがて、潮水になる。
夢中で見ていると、いつしかそこは深海の色だった。窓の外を泡が横切ったことで、そこが水の中だと知る。ときおり、稲光に似た不思議な閃光が罅割れのように奔り、暗闇を割って奇怪な生物たちの影を見せる。
白から極彩に。極彩から青に。青から紫に。
――――では、これは?
――――森の梢の影よりなお深い、どこまでも透明な闇の翠色。
―――――そして次は?
多重海層世界。科学の発展により、世界そのものを鳥瞰した学者たちは、この世界のことをそう定義した。
二十個に分かたれた大地は、海と空を糊にして繋がっている。それを『海層』と呼び、人々は天の果てを目指した。そこには、神々の隠れ住む楽園があるのだという。
かつて、この地には神々の戦争があった。きっかけは傲慢を極めてしまった人類への断罪のため、最下層に落とされた王国アトランティス。熾烈を極めた戦乱は、一人の魔女によって終息する。彼女は生き残った数少ない人類を導き、神々は天の彼方へ去っていった。
魔女は予言する。
「やがて、神々が人類を試す『審判』の時がやってくる」
そんな神話から、三千五百年。世界には予言された時がやってきた。
――――ここに、ひとりの少年がいる。
未知の旅の一歩に、目を輝かせる少年がいる。
「……世界は、すごいんだなあ」
アルヴィンの瞳から、ぽろりと透明な粒がこぼれた。瞬きも惜しい一瞬に、それでも瞼を閉じる。そうすれば、この景色が届くような気がした。
「天にしらほし。地に塩の原。花は芽吹かずとも、喉を旅立つ詩は枯れることがない。星よ、聴いてくれ。誓いのことばを。望みはひとつ。この足が止まろうとも、あなたが頭上で輝く夜が続くこと」
一つになった今なら、ミケを構成する『魔法』の呪文がすべて浮かんでくる。
「凍る闇をくぐり、燃える荒れ野を掻き分け、幾星霜の朝を見た。瞳は寂びて、記憶の歯車が摩耗しようとも、得難き愛は忘れ得ぬ。詩は永遠。すべてのあかしはこの体……」
窓の外は、いつしか明るい紫紺と揺らめく波の碧。魚影の群れがなびき、その後ろを、見たことが無い生き物が追いかけている。魚ではない。手足は鞭のような無数の紐状で、大きな頭は柔らかそうだった。
「あれはなんだろう……? なあ、ミケ」
飛鯨船は、次の審判の地へとたどり着く。
かつて魔女が降り立った地。
第18海の中心、エルバーンの島国。『魔法使いの国』。
彼女の子孫、魔法使いが収めるそこは、今でも龍が守り、ことごとくの争いの火種は、龍のあぎとへと飲み込まれたという。
これは、やがて空の果ての先へと至る物語。
『星』が導く旅路の記録。
アルヴィンの長く険しい一度きりの旅は、今、ここから始まったのだ。