11『シリウス』①
もうどれほどの時間、こうして打ち合っているだろう。
ジーンが握る得物は、祭儀用の刃を潰した宝剣である。
それは、おそらく棺に入れられる葬儀用の模造剣であり、皇帝のものというだけあって豪奢で、そして頑丈。装飾は刃の際にまで達しており、武器にするなら刃物というよりは鈍器としての運用が好ましい。バットのように両手で振るえば、人の首くらいは千切り飛ばせるかもしれない。しかしジーンはアルヴィンの攻撃にも宝剣を右腕にぶら下げたまま、防衛以外の手を出さなかった。冷たい無表情から生まれるその態度は、憂鬱を隠そうともしていない。
憂いは時間が経つごとに、いっそう濃く立ち込めていくようにアルヴィンには思えた。それだというのに、ジーンはこちらの攻撃の手が緩まると距離を詰めて次の手を急かしてくる。
「ジーン! 不毛な争いだと思わないのですか! 」
「不毛? そんなことはないだろう。諦めて今しばらくこの爺の相手をしとくれよ。まっ、誰よりこの僕が気が進まねぇんだがね……」
少年の頭に老人の声。皮肉気に喉を鳴らしてジーンは馬の腹を蹴る。あばらの肉が腐り落ちた冥府の馬は、しかし眼だけは劣らず黒々とした瞳を持っていた。地面ではなく、空を駆けるその速さは、アルヴィンが流星なら、こちらはまるで風だ。太い足は山脈のような筋肉が隆起し、背は高い。いまどきは珍しい生粋の軍馬である。家畜の身をして冥府にまで行くのだから、伝説に名のある馬に違いない。それに跨る小柄なジーンはまるで子供だ。
分かっている。これは足止めなのだ。死者である限り、ジーンは『魔術師』に逆らえない。レイバーンがアルヴィンを攻撃し続けたように、ジーンは足止めを命じられている。それを彼は憂いている。
「ダイアナはどうしている? 」
「弟はまだ生きているのか? 」
「そういえば、おまえの兄は、面立ちが僕の弟に少し似ている」
「おまえのほうはレイの小さいころによく似ているな。顔ではない。それは僕だ。かわいそうに。僕の体質ほどやっかいなものはないのに」
「予言してやるぞ。おまえ、二十過ぎるまで毛は生えない。髭もな」
とりとめもないことを口にして、ジーンは巧みに馬を操った。返事の代わりに、アルヴィンは馬の首をめがけて拳を突き出す。馬は軽く半歩の動きでひらりとかわし、飛ぶ蝶のように繰り返される攻撃をことごとく避けた。
ぬるい糸のような雨の降り注ぐ中、ジーンの纏う青い炎が雨を縫って軌跡を描く。
「余計なお世話だ! なんなんだあんたは! 」
「若いのと話がしてみたいだけさ。そういえばレイバーンのせがれ。おまえ、名前はなんというんだ?」
「………アルヴィン」
「へえぇ? 」ジーンは初めて、笑みを浮かべた。蓮っ葉な口調と、外見にそぐわない顔いっぱいを左右非対称に歪める皮肉気な笑い方は、アンバランスで不思議な魅力がある。遊び慣れた下町の男といった風情でこれが日常の出会いであったならアルヴィンははっきりと好ましいと感じただろうと苛立つ心の隅で認めた。
「鍛冶場妖精の王子の名前に『妖精のともだち』か? そりゃあ、ダナの趣味だな。ダナは息災か」
「ダナは亡くなりました。……もう、二十五年も前のことです」
「……ン? じゃあ、おまえは誰の子だ」
「後妻のローラ・ブルックの子です」
「堅物のブルックオヤジって呼んでいたやつがいたが、その縁戚かな」
「ハル・ブルックは、母方の祖父にあたります。……もういいですか!? 」
「いーや、良くない。ブルックはどうした? まだ酒ばかりやっているのか」
「貴方が蘇ったおかげで、今ごろ石になっていましょう」
「ならば早いとこ『死者の王』を斃してこれを終わらせてくれ」
「死者の王とは何なのですか! 出てくるのは名前ばかり! 『魔術師』の正体も何も分からない! 」
「死者の王とは最初の死者だ。かつて叡智の炎を受け取り、それに焼け死んだ、可哀そうな始まりの罪人。魔術師はそれの信奉者として、死者を呼び起こす力を得ている。死者である限り、僕は奴らに逆らえない」
「最初の、死者……? 死者の王とは、『黄金の人』ですか」
「そうだ。賢いアルヴィン。次のミッションは、その情報をきちんと彼らへ届けることだ」
「……あなたは」
ジーンはため息交じりに苦笑した。子供の顔に達観した成熟が乗っている。
「もう理性を手放すな。二回目ともなれば、本当に獣に堕ちるかもしれんぞ。一秒でも生き延びて成すべきことを成せ。おまえは自分の命を秤に乗せるには早すぎる。奴らは死を恐れない。あいつらにとって、最期にあるのは死ではないからだ。想像できるだろう? 出来ないのなら、このありさまを見ろ。おまえの父の無様を思い出せ。あいつらは、全ての命あるものの敵だ。それには死者も含まれる。求めるものはこの世の破滅。交渉も譲歩もきかない。死者の王の復讐は、人も神も、地上すべての命を焼き尽くしても終わらない。……よく覚えたな? ほら、理性があるうちにもう行け。おまえじゃあ僕は倒せない」
ジーンは馬の脇腹から宝剣を突き出し、構えた。
「次は仲間とともに僕に挑め。いずれ、頭蓋骨はおまえに還るだろう。行け! このジーンにおまえを殺させるな! 」
雨だれを突き破るような声に、アルヴィンは跳ね上がった。火傷に浸み込む水が湯気を上げている。巡る熱は、理性が残った頭にはもう耐え難いほどだった。
迷いながら、疑いながら、アルヴィンはジーンに背を向ける。
ジーンは追い立てるように剣を振りかぶり、アルヴィンは稲妻のようにそれを避け、雨を裂いてそのまま飛んだ。山脈のひとつの尾根が迫ったころ、馬の嘶きが聞こえ振り返ると、ジーンが宝剣を馬に打ち、その首を叩き折るところだった。
突然の主人の蛮行に成す術もなく市街の黄色い屋根へと墜落していく一頭と一人は、これ以上落とす命を持っていない。
アルヴィンはもう振り返らなかった。
(どこかで体を冷やさないと――――)
歯噛みする。悔しい。足りないものがたくさんある。
(結局、無力か……)
こういうとき、どうしたらいいかはよく知っている。頭の向かう方向をずらすのだ。そうすると、一時感情の熱をやり過ごすことができる。
―――――敵の頭だという、黄金の人のことを考えよう。
神々が最初に創造した、最初の生者にして死者。禁断の炎を受け取った者。人類に永劫の罪を背負わせた罪過の人。
それは魔女が降り立つよりもさらに遥か昔、世界がまだ、天と地と海の一つの塊だったころのこと。
神話では、その者はただ『黄金の人』と表現され、後世に創作された詩曲では篝火を意味する『イグニス』と名付けられた。
無知でものを知らないイグニスは、神々に祝福されて生まれたときには不死の黄金の心臓を持っていた。そのころ世界には、太陽と月と星々しか明かりが無く、炎とは天にあるものだったから、一人の神がその炎を彼に分け与えようとしたのである。
彼は、それが何か分からなかった。火は瞬く間に彼の立つ土地を包み、燃え盛る地の中心にいるイグニスの黄金の心臓は、溶け爛れても彼を生かし続けた。彼は神々に、この苦痛を取り除いてくれと懇願する。
願いを聞き入れた神はイグニスから黄金の心臓を取り除くと、彼は不死の力を失い、焼け死んでしまった。
神々は彼の灰を掬い取り、鍛冶の神に二度目の人類を創るように依頼する。『黄金の人』から生まれた人類は、不死ではなく病と老いの運命に苛まれてはいたものの、神の火から得た知恵を受け継いだ『銀の人』であったという。
そのイグニスが、もしも復讐するとしたならば……ああ、確かに、彼にはこの審判に横やりを入れる理由があるだろう。
その後、『銀の人類』は炎の知恵を以て繁栄するが、一人の女をきっかけに争い尽くし、愛と、欲と、裏切りと復讐を知り、親殺し、兄弟殺し、子殺しの罪を得てもろとも根絶した。
次に生まれたのは『銅の人』であったけれど、彼らもまた、繁栄の果てに秩序を失い、醜悪な不義にまみれたことで水に沈む。
そして最後に『鉄の人』が生まれ、これが今の人類であると伝えられる。
イグニスは、最も神に近い人であったが、無知であるがゆえに罪を負って苦痛の中に死んだ。
けれど『鉄』の人類は、炎の知恵を得てもなお、罪を二度も繰り返した果てに生まれ、一度は滅ぼされる寸前にまで手を下されている。魔女の手により生き延びた『鉄の人』の子孫たちは、温情により再びの繁栄の機会すら得た。
末裔の一人であるアルヴィンも、なんて理不尽な話なんだと思う。
たった一人の『黄金の人』は、他でもない神が差し出した炎のせいで焼け死んだというのに……。
と、そこまで考えて、感情の波が落ち着いたのを意識した。どうしようもなく自分の制御が利かないときは、こうして耐えるに限る。
アルヴィンは、山裾に泉を見つけて地上に降りた。
光源の無い森は夜より暗いが、アルヴィンの眼にはほんの薄闇程度のものだった。繁った枝葉が、槍の束のように空に突き出て少ない太陽を求めている。シダや苔、きのこなどの菌類の蔓延るふかふかの緑の絨毯に、ずっぶりと足が沈んだ。
「……やっぱり、温泉か」
温かく微かな湯気を立てる温泉は、こんな時でなければ素晴らしい発見になっただろう。
身体は驚くほど軽い。重力から解き放たれているというのはそういうことだ。その軽さが、現実味を削ぎ落とす。今、アルヴィンは何よりも冷たい水がほしい。
仕方なく、アルヴィンは銅の頭を浸した。じゅう、と音が立て、うなじまで水面を割って浸かる。境の肌にある赤黒く爛れた火傷が電流を奔らせたように痛んだ。この痛みも必要なものだ。
呻きを殺しながら同じように手足も濡らして、理性の延命をはかる。
「リリオペの丘……」
それは、約束の場所の名前だった。何事も無かったころ、姉との秘密の散歩の行き先であり、そしてミケが、あの運命の回廊で告げた場所だった。
『リリオペの丘』を知っている者は限られている。地図にその名前で載っているわけではないからだ。兄たちなら、その場所をきっと思い出してくれる。そう信じて向かうしかない。
歩くと、火傷が擦れて真新しい血が滲む。痛みからだけは逃避してはいけないが、体力は無尽蔵ではない。アルヴィンは、森の梢の下をときどき歩くようにして、その場所を目指した。
森に鳥や虫の声は無く、苔むした木々が並んでいるのに空気はいつになく乾いて、腐臭が漂っている。
静謐な死の気配の中心に、突然その少女は現れたように思った。
ぱっちりと黒々とした瞳をこちらへ向けているだけなのに、アルヴィンはその少女の吐息すら感じた。身長ほども長い髪が、シダと苔の這う地面に小川のように流れている。濡れた粘土のそれと似た暗色の肌の上に、砂紋に似た黒い入れ墨が目蓋の縁に迫るほど隙間なく描き込まれていた。少女が身を起こすと、なだらかに隆起した肢体の上を紋様がのたうった。




