9『戴冠』③
サリヴァンが空中へ踏み出す。魔法使い特有の、神秘を信頼した迷いのない足取りに見えて、少し疑っていたのがボクにだけ分かった。
サリヴァンは足の下に冥界の青い炎が燻ぶる光景を踏み越えたこの瞬間のことを、腹の底が浮くような言いようのない興奮と畏れと、現実感の無い奇妙な経験として、記憶に刻み付ける。
視力の悪い彼が黒い船体に映る自分の瞳の中さえわかるほど近づくと、サリーは右手を船につけた。
滑らかな漆黒の面が水面のように揺らめいて、サリーの背中が消える。皇太子と弟たちもそれに続いた。こちら側に残るのは、いつしか姿を現していた語り部たちとボクだけだ。
「さあ、あたしたちも」
「ボクも? 」
「あなたに資格が無かったら、あたしにも無いわ。あなたは魔人。魔法使いサリヴァンの魔法のひとつ。その点で言えば、語り部とあなたは同じなのよ」
「そうなんだ。年の功だね」
「……こんな時じゃなかったらビンタしてるわよ。このクソガキ」
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グウィンの語り部は、大柄な老爺の姿をしている。灰色の総髪と髭と皺に覆われた四角い顔の中に、猛禽を思わせる金の瞳が鋭く輝いた。かっちりと黒い詰襟を締めた無口で穏やかなベルリオズ翁は、グウィンにとってはもう一人の父のような存在だった。
皇帝となる覚悟ができたのは、いつのことだろうと今さらになってグウィンは思う。少なくとも、二十になったころまではまだ出来ていなかった。
軍隊へ進んだのは、それが健康な皇太子として妥当な進路であったからだ。
おそらく、二番目の母――――アルヴィンの生母が亡くなったとき、打ちのめされる家族と過ごした一夜だろうと思う。父や弟妹を守るためには、自分が父の跡を継ぎ、その志のまま国を治めることが最善手だと、冬の夜空に消えていく煙草の煙を見ながら漠然とした未来を思った。その瞬間、かちりと胸の内で確かに音がしたのを覚えている。
それは、運命というものが奏でる音だったのかもしれないし、グウィン自身の持つ迷いが溶けた感覚だったのかもしれない。あの日何かの歯車がはまったのだろうことは確かだ。除隊し、留学したのは、未来の自分の迷いの種を一つでも消すためだった。体を動かすことと同じほど、本を読むことも好きだったから。
許してくれた父と妹には、生涯頭が上がらない。その先でモニカと出会ったのも、きっと何かの導きだったのだ。
グウィンは運命論者ではないが、彼女との出会いだけは、そう思わざるを得ない。今ごろモニカはどうしているだろう。怖い思いをさせた。これからも苦労をかけると思う。なにせ先の皇后である。
君主がいるといっても、フェルヴィンはジーンの時代から民主制と言っていい。
国民に選ばれた代表による議会によって指針は決められ、皇帝はその代表の一人として組み込まれている。他の議員との違いは、皇帝は血によって選ばれ、歴史を背負う責務も負うということだけだ。
暗君であると見なされれば、民によって処分を受ける体制も出来上がっている。
まだその制度は使われたことが無いけれど、もし自分がそうなれば最初にモニカが止めてくれることだろう。彼女なら、いずれ普通の男と結婚する道もあったろうし、その生活は皇后の生活よりもずっと自由で彼女らしい人生になったかもしれない。しかし彼女は自分を選び、自分も彼女を手放さなかった。
それが全てだ。
その『全て』のために、この日、グウィンは父に初めて刃を向ける。
踏み入れた船内は、あの地下の講堂を反転させたような黒く塗られた広間になっていた。天窓は無い。影が床に吸い込まれるようだ。しかし明るく明細に、互いが見える。不思議な空間であった。
サリヴァンが正面に立つ。対面、部屋の中央に、グウィンは跪いた。その後ろに影のように、黒衣の語り部ベルリオズが顔を伏せて立つ。サリヴァンは杖を取り出し、グウィンの頭の上にかざした。
「告げる。これは大樹の根の一角を統べるもの。原初の巨人の踵。祖は地を支えしもの。女神に言祝がれしもの。罪科の魔境アトランティス、あるいは堕ちた光の国アルフフレイム、あるいは再生の島フェルヴィンの王」
サリヴァンの手の中で、銀の杖がひとりでに蠢いた。枝を慰撫しながら進む蛇そのものの動きで、尾をサリヴァンの腕に巻き付け、杖先は僅かに膨れて頭となり、顎のあわいから柔らかそうな舌が小刻みに揺れながら出たり入ったりする。
サリヴァンにも不測の変化であったのか、掲げる手首が一瞬驚きに揺れる。
ブドウの粒が弾けて中の果肉が覗くように、瑞々しく赤い血色の瞳までが現れ、見定めるように目を閉じるグウィンを見下ろした。
「告げる。祖は女神の友、青き魔女。王の選定者。すべての勇者を慰撫せしもの。我が名は黒き瞳をあらわす。銀蛇の担い手である。告げる。天秤は傾いた。告げる。フェルヴィンの新たなる王はここに」
グウィンの身体にだけ強い風が吹き付けた。色を付けるのなら、それは冴え冴えとした白銀。銀の風は新たな皇帝候補の肌から体内に浸み込み、グウィンを通して語り部へと流れる。
ベルリオズの肉体が、解けるように銀色の風に巻かれて色づく一陣の風となり、グウィンを包んだ。
蛇が謳う。
「黒檀の靴を履き、あなたは処女雪の丘を行く――――」
語り部の銅板に絵とともに刻まれているという詩歌だろうと、グウィンは思った。語り部は、本体である銅板は、主人にも見せたがらない。
美しく残酷な、退廃の詩だ。
「真白が四辻を隠し、やがてあなたは、眠りの森で立ち止まる。あなたの歩みの芽吹きから、あまたの小さきものたちが背伸びして、泉のほとり夜伽の鳥が道しるべ」
グウィンは、昨夜の夜を徹しての書庫漁りを思い出す。魔法使いサリヴァンとグウィンは、まだ見ぬ戴冠式の魔法に一つの仮説を立てた。
「戴冠式の魔法は、おそらく、語り部にかけられた魔法を書き換える魔法ではないかと思うんだ」
「……語り部の魔法を書き換える? 」
「そう。古い本ほど、『魔女の末裔に』と一貫しているだろう? 『魔法使いに』ではなく。大切なのは技能ではなく血ではないだろうか。魔法を使えるのは魔女の末裔だけなのだから、あまり変わりはしないけれど」
「魔女の末裔だから、語り部という意志ある魔法を書き換えられる。魔女の血が、『神代の魔法』なんてものへ干渉を許す鍵となる……という仮説ですね」
「フェルヴィンの王族は、語り部を失くすと王維継承権が失われる。きみの曾祖父、コネリウス皇子がそう。同じ流人だったはずの他のフェルヴィン人と先祖は何が違うかというと、魔女に語り部を与えられたかという違いなんだ。語り部とは王たる証というのは確実だ」
(仮説は正しかったんだな)
研究者としての部分が微笑む。
風は無数の銀色の蛇だ。魔女の魔法は、伝承通り蛇のかたちをしている。その事実にも、グウィンの王ではないところが喜んでいる。巻き付く銀の風に畏れは感じたが、しかしけっしてグウィンを害するものではない。綿菓子の軸になったようで、微笑ましさすら感じる。
「夜告げの声に導かれ、星があなたを旅立って、暁の訪れに夢へ旅立つ。恐れることは何もない。やがて雲は晴れるもの。やがて森は芽吹くもの。やがて星は還るもの。森の夜告げはそこにいる。芽吹のほとり。始まりの泉。名はベルリオズ。王の影となりしもの」
詩歌の詠唱の終わりとともに、風はやがて細く、細く、グウィンの中に溶けた。
固い杖としてのかたちを取り戻したサリヴァンの銀蛇が、グウィンの両肩を二度ずつ叩き、最後に額に触れる。魔法使いが喉を鳴らして唾を飲みこんだ。
「……告げる。人民の王。統治のあかし。秩序の守護者。皇帝のさだめをここに。……皇帝グウィン」
呼ばれて顔を上げてすぐ、グウィンは目の前に立つサリヴァンの異変に気が付いた。
見開かれた黒い瞳。耐えるように強張った顔。
見て分かるほど全身が震えている。杖は両手でようやく持ち上げていた。
グウィンは一瞬浮かんだ戸惑いを千切り、誓いの言葉を口にする。
「誓います」
こんなにも立会人に負担を強いる戴冠式があるだろうか。
本来であれば、ここに前皇帝退任の儀式も挟む。しかしレイバーン帝亡き今、その語り部であったダッチェスがその手から書き上げた『伝記』を収めることでその儀式は省略される。
進み出たダッチェスが、父の伝記を捧げ持ってグウィンに差し出す。
「……グウィン陛下」
小さくダッチェスが囁いた。まだ儀式は終わっていない。あえて彼女がルール違反を犯したことに、グウィンは微かな予感を感じた。
「ダッチェスの知るレイバーンを、すべてここに書ききりました。この伝記の最初の読者は、ぜひとも陛下と、アルヴィン殿下に。……あらゆるものを糧として、前へ……空の果てのさらにその先までもお進みください」
伝記を受け取る。グウィンは深く頷き、語り部の抱擁を受け入れた。
ダッチェスは最期に、優雅に腰を曲げて貴婦人の礼をした。俯いた頬は上がっている。
「それではお先に。ごめんあそばせ」
それが、語り部ダッチェスの最期の台詞だった。
ダッチェスは、九番目の主の物語を書き終えた。
彼女は、語り部としての役目と寿命を終えたのだ。
語り部という古えの魔法が解け、肉体は黄金の粒となる。粒は、形を崩しながら躍るように場を一巡し、挨拶をするように一人一人の前に立ち止まって、やがて解けるように消えた。
ダッチェスが消えた方向へ、アトラスの皇子たちは返礼する。
儀式はまだ終わらない。
額を指していた杖先が、グウィンの胸の上に落ちる。
「……告げる。立ち上がりなさい。我が魔法。王の魔法。ベルリオズ」
「ここに」
現れた語り部は、傍目にはとくに変わりはない。しかし同じように、ベルリオズも何かが変わったのだろう。もしかすれば、グウィンよりもずっと根本的に。
(……儀式はまだ終わらないのだろうか)
ダッチェスが死んだ。その動揺は大きい。
また、この年若い魔法使いも限界が見えていた。滝のような汗に濡れ、文句を唱える歯の根を必死で合わせているのが分かる。
「……我が名において、また……青き魔女の名において。審判の名において承認する。此処に、新たなるアトラスの王が起つ。そして―――――」
『そして』?
(その先にそんな文句があっただろうか)
進行を知っている弟たちにも緊張が奔った。
サリヴァンは震える手で縋るように持った杖を、自身の額に押し当て、グウィンの知らない文句を口にした。
「――――戴冠は成された。我が名を得たり。我がさだめを得たり……我がさだめは『教皇』審判の名において選抜された、《《知恵授かりしもの》》……」
背後で、絹擦れの音とともに次男ケヴィンの語り部、マリアの小さな悲鳴が聞こえた。耐え切れず振り向くと、あの小さな魔人が、マリアの腕の中で崩れ落ちている。それらの光景が見えているのだろう。睨むように顔を上げ、サリヴァンは早口で文句を最後まで繋げた。
「……《《教皇》》の名において、ここに、『皇帝』の戴冠を宣言する――――」
サリヴァンもまた魔人ジジに続いた。手の中の銀蛇が水銀のように彼の手首を滑って袖の中に戻っていく。脱力した魔法使いの身体を抱え、新皇帝グウィンは力強く立ち上がった。




