8『近衛兵』②
一陣の黒いつむじ風になって、壁や天井、床を抜けて、王城でいちばん高い時計塔の屋根に立つ。ボクとサリーの戦法は、これまでの通り。
サリーの策は、いつだって正面からの特攻のち撃破で、ボクの立てる策は、背後からの不意打ち、からの逃亡である。サリーの策が通じないのなら、次はボクの番。
キミが魔法使いで勇者なら、ボクは魔人で詐欺師だ。キミと出会ってからも、それを忘れたことは一度もない。それだけが、年も、故郷も、名前以外に何も知らないボクという存在を表す記号であるのだから。
日が昇っても、この国は黄昏に沈んでいる。真っ黒な空、そこから漏れる金色の光、湿気を含んだぬるい風。
王城の空を背景に鼓膜が痺れるほどの金属音が響いている。
その少年の、鼻を削げ落したような仮面の中心はギザギザに割れて、噛み合わせの悪い歯のようにも見える醜いそれが歪に合わさるごとに、耳障りな金属音と、煙か水蒸気かもよくわからない靄を吐き出し、大ぶりな挙動は、その仮面が触れる肉が焼けた異臭をまき散らしていた。
風を切り裂く青い斬撃が、仮面が纏う真っ赤な熱を乱しながら火花を散らす。削げ落ちたように平らになった鼻先に切っ先が触れたのにも構わず、銅仮面はむしろ青い騎士に肉薄する。その上腕から拳にかけて、仮面と同じ焼け付く金属の塊がまるで槌のように張り付いていた。
ボクは、コートから一枚の写真を取り出す。淡い金髪に白い肌、青い刃金の瞳を持つ年の離れた姉弟の写真。その両脇で、影のように立つ二人の語り部。
その少年の顔を持つ青騎士の、淡い金髪の下にあるヴェロニカ皇女と同じ鋼色の瞳は、招かれざる乱入者であるボクを一瞥だけして銅仮面へ戻っていく。
「アルヴィン・アトラス! 」
ボクの声に、薄い肩が、振り上げた拳が、電流が走ったように痙攣する。ボクの呼び声に振り向いたのは、銅仮面のほうだった。
「――――ボクと来い! 」
その硬直を見逃さず、青騎士の操る空飛ぶ馬が少年の横腹を蹴り上げようと跳ねる。手を伸ばすボクを見止めた銅仮面は、青騎士のことを忘れたかのように背中を向けて、熱の帯を作りながらまっすぐ向かってくる。
青騎士は馬を止め、銅仮面――――アルヴィン・アトラス皇子のその背中を、感情の見えない眼差しで見送っていた。
アルヴィン皇子は、サリーのもとへ向かうボクの後ろを、あらゆるものを破壊しながらすさまじい速度で追いかけてきていた。こうなればボクも半ば意地で、あの金属の腕に捕まるわけにはいかない。
この国に来てから心臓がドクドクとうるさいのは、苦しいほどの懐かしさを感じるのは、どうしてだろう?
どうして『語り部』は、ボクと同じ髪と瞳の色をしているのだろう?
どうしてボクは、キミと出会ったのだろう?
ボクはいったい何から生まれたのだろう?
ボクは『語り部』なのだろうか。
この世界には、知りたいことがたくさんある。サリヴァン・ライトは、いずれボクの知りたい世界へ至るのだという、そんな根拠のない確信がある。
キミはいずれ、すべての疑問を事実へと導くんだろう。
愚かにもボクは、そう思っている。
「サリヴァン! 避けろっ」
黒い瞳がボクを見る。サリヴァンは、ちょうど歩兵の斬撃を避けたところだった。サリヴァンは脇腹から力を抜くようにして歩兵の股下へしゃがんで滑り込むと、歩兵の片足を取って転ばせる。もちろん黒鉄の兵士に寝技なんて意味がない。膝をついた歩兵の頭は、サリヴァンの代わりに、隕石のように飛来したアルヴィン皇子の拳で殴り飛ばされた。頭は砲弾となって、玉座のひじ掛けと、その後ろの壁を砕く。左半分が砕けた玉座から、ゆっくりと亡霊の皇帝が立ち上がったのが見えた。その見開かれた瞳には、目の前に現れた銅仮面の少年の姿しか入っていない。
脇腹をさすりながらサリーが言った。
「……おいおい、何が起きたんだ? ジジ、何を連れてきた」
「アルヴィン・アトラス。『星』だよ」
「あれが? ……いや、待て。お前、あれが『星』だってなんで……」
「シィッ……ボクたちはあっち」ボクは、唇の前で立てた指を下へ向ける。
「……あとで、だぞ」サリーは口をへの字にして頷くと、銀蛇を握りなおした。
白灰色の岩石を陶器のように磨いて作られた床は、砂塵で汚れ、見るも無残に罅割れている。その表面は決してなめらかとは言い難く、罅の間からは立ち昇るような冷気と青い光。
それはまるで、一度砕かれた床をパズルのように歪に組み上げて、接着剤で無理やりくっつけたみたいだった。ここに踏み入れた時から、ボクの脚はこの下にある空洞を感じている。
「おもいっきりやっちゃって。ド派手に爆破解体といこうじゃあない」
「これ、おれの足場も崩れるんじゃあないか? 」
口ではそう言いながら、サリヴァンは笑っている。ボクも笑っている。ド派手な爆発は、アウトローもの最大の見せ場だ。
『星』の声が轟くなか、凍てついた床に、地獄より熱い魔法の杖が勢いよく突き立てられた。
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ボクはいつ目を閉じたんだろう。
目を開けて最初に考えたのはそれだった。
ひどく静かだ。ボクの記憶では、ほんの一秒か二秒前までサリーの肩を掴んでいたはずなのだ。
身を包む違和感、認識に決定的な齟齬がある感覚。しかし直感が囁く。
『ここは危険ではない』と。
静かな場所だった。
そのまま寝転べそうな柔らかい絨毯、青い薔薇の壁紙、夜風に揺れる菫の柄のカーテン、オレンジ色の明かりを降り注ぐシャンデリア、使い込まれた木製のロッキングチェア、そして、童話でいっぱいの本棚……。
ボクはなぜか、導かれるように本棚の前に立つ。赤い背表紙の絵本がある。
この見知らぬ部屋の中で、その背表紙だけが、どこか見覚えがあった。金色の印字を読もうとした瞬間、背中が強く押される。踏ん張ろうとした足が絨毯を蹴らなかった。ボクの身体は本棚にぶつかることなく突き抜け、暗闇を落下する。
耳に温かい吐息がかかって、耳馴染みのいい声が後ろから囁いた。
「……さあ行って。あなたはもう、どこにだって行けるの! 」
ドスン!
「いってっ」
ボクはやけに汗臭い布にぶつかって止まった。その布を纏う持ち主がモゾモゾ蠢いて体を起こし、滑り落ちたボクは冷たい石畳の上にお尻をつける。手が思わず耳の後ろに伸びた。髪についた小さな雫で、指がかすかに濡れている。
あの人は、どうして泣いていたんだろう。
「おーいててて……」
鼻筋をさすって、サリヴァンが恨めしそうにこちらを見る。
「……何があった? 」
「わかんない……」
「へんなのを見た」
「ボクも……」
「ここはどこだ? 壁がある。えらく狭い……」
「図書館です」
現れた三つ目の声が、足音も無くこちらへ歩いてくる。手にしたランプの明かりが丸く空間を切り取り、なるほど、ボクらを囲んでいる壁は、うず高くそびえる本棚だった。
「ここはフェルヴィン建国すら見届けてきた世界最古の図書館。あらゆる物語の終着点。『本の墓場』と呼ばれる場所……貴方たち、どうやってここに来たの? 」
首をかしげると、頭の横に重たげに垂れた黒髪が傾く。生意気そうな眼差しの金色はボクと同じ。少女魔人は、インクで爪の間まで染まった指を、座り込んだボクに伸ばした。
「見慣れない魔人ね。どこのひと? 皇子たちのお迎えかしら? それなら歓迎。魔法使いならもっと大歓迎。さあ、おいでなさいな。お茶があるわ」
ランプを掲げて先導する彼女は、ほんの三歩進んだところで、思い出したように足を止めて振り向いた。
「……ああ。そうだ。あたしはダッチェス。オバケじゃないから安心して」




