7『本の墓守』①
第三皇子・ヒューゴは、ざらついた硬い床の上で目を覚ました。埃とカビの臭気に包まれながら、視界には群青に墨を溶かし込んだような闇が敷かれ、自分の指先も見られない。しかし辺りを見渡してすぐに、遠くにポツンと、置き去りにされたオレンジの実のような灯りを見つけることができた。
ヒューゴはまとわりつく闇を踏み固めるようにして、ゆっくりと明かりの方向へと歩き出した。あちこちに人の頭ほどもある石が転がっていて、よくぞ生きていたものだと思う。ほんの五十歩ほどの距離を、こんなにも長く感じたのはいつぶりだろう。乾いた唇を舐め、咥内が張り付く感触に喉の渇きを覚えた。
明かりが闇に慣れた瞳を刺す。白濁した視界の向こうで、女の声がした。
「あら。お目覚めかしら。一番乗りね」
聞き覚えのある声だった。涙の覆いを拭い、ヒューゴは萎えた喉に息を吹き込む。咳が出た。
「無理はしないで。大変だったわね」
「ああ、散々だ。親父は死んだ。弟も……兄貴は……くそ」
やがて晴れた目の前に広がった光景に、ヒューゴは息をのむ。
「ここはどこだ」
「……王城の最下層。あたしたちは『本の墓場』と呼んでいる場所。星の記録庫』とも呼ぶのだったかしら? お久しぶりね。ヒューゴ殿下」
レースが重なった黒いスカートの裾をつまみ、白い膝を交差して、その黒髪の少女は優雅に腰を曲げる。その背景には、薄闇に浮かび上がる途方もなく広い本の森が迫っていた。少女の頭の左右で動物の耳のように結わえられた髪を見下ろして、ようやくヒューゴは少女の名前に思い当たる。
「お前……まさか、ダッチェス? 」
見下ろしたつむじが震えた。上目遣いに見上げてきた黄金の瞳に、ヒューゴの思考は一瞬過去へと飛び、すぐに現実に舞い戻る。
「ご指摘の通り。ダッチェスですわ。レイバーン帝がお亡くなりになったいま、ここに語り部のあたしがいるのは、何にもおかしいことではないでしょう? 」
ダッチェスは揃えた五指で、部屋の隅に備え付けられた机を指した。
その腕にある作業用のアームバンド、壁に下げられたランプ、ペンが浸されたインク瓶と散乱した紙束、付箋付きの辞書が、彼女が何をしていたかを如実に表している。
「……おまえと最後に顔を合わせたのは、七歳のときが最期だった」
「ふふふ。あたしはずっと見ていたわ。語り部ですもの」
少女のかんばせに浮かぶ笑みは、『貴婦人』の名を冠すとおりの貫禄があった。
物心ついた頃には母が亡かったヒューゴはもちろん、アトラスの五人の兄弟がまだ幼き頃、多忙な父に代わって寝物語をしてくれたのは、決まってこのダッチェスだった。
語り部は、主によって姿が変わる。ダッチェスは、これでも今代の語り部の中での最年長であった。語り部は九人の主に仕えるが、彼女が仕えた主はとっくに片手では足りないという。しかし、そんな彼女がレイバーン帝の時代で幼女の姿をしているというのは、皇帝の身内にしか知られていないことである。
レイバーンの語り部ダッチェスは、『姿なき語り部』として知られる。
皇帝の威光を保つために自ら姿を隠したダッチェスは、皇子たちに対してもそれを貫いた。
「……父上は、やはり亡くなってたんだな」
ヒューゴは、ダッチェスのつむじに問いかける。
「はい。ダッチェスは今、語り部として、最期の職務に取り掛かっております」
フェルヴィンの王族は、死後その人生を語り部に記録に残させる。それこそが語り部の仕事の集大成、存在意義である。
ヒューゴは拭うように顔を擦る。「俺は……そう……兄さんたちを探さないと」
「ヒューゴ殿下。それなら必要なものがあるはずよ」
ヒューゴが顔を上げた先には、ダッチェスの大きな金色の瞳があった。語り部がこうして物言いたげに見つめてくることは、こうした窮地には良くあることだった。「わかってる……分かってるよ」ため息を吐いて、ヒューゴは軽く踵を踏み鳴らす。
「トゥルーズ」
「は、はいっ! ここに! 」
たたらを踏んで、線の細い黒髪の青年がヒューゴの陰から現れる。そばかすの浮かぶ頬の上に、金色の瞳がきらきらと輝いていた。ヒューゴは鼻が当たるほど近くに現れた語り部の頭を押し退けるようにして小突き、ため息を飲み込む。
「久しぶりね。トゥルーズ」
「わ、ダッチェス様! ええっとそうですねぇ。十日ぶりになりますかねぇ……」
「おいこらノンキ。世間話してる馬鹿があるか。兄上たちはどこにいる? 」
「あ、はっ、はい! 」
トゥルーズは大きく返事をすると、口をへの字に曲げ、頭を両手で抱えて「ムムム」と唸り声を上げた。ヒューゴは腕を組む。「それ、必要か? 」
「……はい! 分かりました! あのっ、あのですね」
「落ち着け落ち着け。急かした俺が悪かったよ」
「うう……す、すみません……えっと、ダイアナさんとヴェロニカ姫は生きてます。ミケは……よくわかりません。ボンヤリしてて、寝てるのかなぁ? ……でも! マリアとベルリオズはけっこう近くに……つまり皇子殿下たちも、すぐそのへんにいらっしゃいますかと。呼ばれれば出て来るんじゃあないですかね? 」
トゥルーズの口が閉じるより先に、ヒューゴは文机の上のランプを掴んでその場を飛び出していた。自らの影の足を蹴り上げながら、皇子は導かれるように、今しがた歩んできた闇の回廊へと進む。ランプに照らされて、先ほどは見えなかった色鮮やかな壁絵が浮かんでは飛び去っていった。
「グウィン! ケヴィン! アルヴィン! 」
そこには瓦礫の山があった。
白石のタイルは、確かにあの神殿の床材だろう。それらがうず高い山になって、ヒューゴの目の前に聳えていた。一本道だ。自分が倒れていたのも、ここに違いない。
まさか。
「……嘘だろ。兄さんたちまで? 」
自分が口にした言葉を否定するように、身体は動く。
「危ないですよぅヒューゴ様……」背後から語り部の声がする。
「そんなことをしたら、上から崩れてきちゃいます!」
瓦礫の山に向かい、ひとつひとつ崩していく様は、蟻が砂糖の粒をひとつひとつ攫うようなものだろう。
「俺の兄弟がこの中にいるんだぞ! 」
「お兄様ならそこにいらっしゃるじゃあないですかぁ! 」
「はっ? 」
ヒューゴは瓦礫を掴んでいた手を放し、勢いよく振り返った。体重を支えていた瓦礫が割れて、ヒューゴの右半身ごと滑り落ちていく。「あっ」世界が一周する。
瓦礫の山の表面を削り取りながら回転落下する中で、聴き慣れたいくつもの声がヒューゴをの名を叫ぶ。




