6『愚者と貴人』①
時は少しだけ巻き戻る。
格納庫では、ヒースが飛鯨船の離陸準備に取り掛かっていた。操縦士の免許があるという若い兵士コナンと、あらゆることに目端のきくサリーも共に抜け目のないヒースに引きずられて行くのをボクは見送り、老兵士トーマと、次期皇太子妃のモニカは、そんな彼らへ差し入れるお茶を沸かしに、近場の水道へ向かった。これは、そんな出発の合間に交わされた会話だった。
「……ダイアナ教えて。これまで何人、誰の語り部が、『本棚に戻った』の? 」
「恐れながら申し上げます……我が同胞で本棚へ収められたのは三日前、王の語り部であるダッチェスのみ。すでに王は崩御なされました」
「ああ……! なんてこと……! 」
皇女は、悲しみよりも、驚きと悔しさが勝っている様子だった。
ダイアナは、痩せて背が高く、定規を入れたように背筋がまっすぐで、どこかで見たような金眼に丸い老眼鏡、白髪交じりのグレーの髪を高く結い、熟練メイドといった雰囲気をした、あらゆる要素がボクとは逆に向いたような魔人である。
「ダイアナ、ミケは? ミケはどうなったの」
「ミケは……いいえ、わかりません。本棚には戻っていない……けれど応答もありません。おそらく生きている、としか……」
申し訳なさそうに、老婦人の姿をした語り部・ダイアナは項垂れた。
ボクはその会話に首を傾げ、相手は初めて見た自分以外の魔人ということもあって、興味半分に彼女たちに尋ねる。
「……そのミケって誰なの? 本棚って?」
彼女は淀みのない声で説明する。
「『本棚へ戻る』とは、主人を喪った語り部が収まる場所へ向かうことです。主人の死後、我々はそこで主人の人生を伝記として記し、そのあとは次の主人の誕生を待ちます。我々語り部は、すべての語り部と繋がっておりますので、それぞれの所在を把握できるのです」
「じゃあ、三日前には、王様が死んでいたことが分かっていたんでしょう? なんでその時言わなかったの? 」
「それは、語り部の『誓約』で制限されているからです……」
ヴェロニカ皇女は頭を振った。
「主人が尋ねなければ、語り部は知っていることを話せないのです。それだけではありません。彼らは好きに行動することを禁じられている。だからわたくしたちは、最初に許可を与えます。『散歩をする権利』『危険から自らを守る権利』『望みを口にする権利』『ものを所有する権利』」
「不便だね。まるでランプの魔人だ」
「いいえ。不平はありません。自己の確立、権利の主張は、我々の存在理由からして必要が無い。だから我々の多くは、許可されても勝手に出歩いたり、趣味に没頭することはございません。必要が無いのです。主人の人生を見守るというそれこそが、最高のエンターテイメント。我々はこの短き一瞬を切り取り、鑑賞することが許されている。それだけで満足なのです。それでも、アトラスの一族は我々に敬意を持って接してくださいます。そも語り部は、来るべき神の審判のために魔女が用意した装置。意志ある魔法なのですから」
「神の審判? 神話にあるやつ? 」
「そう。かつてこの奈落は、奈落では無かった……巨神アトラス一族が築いたアトランティス。人類の栄華と傲慢を極めたその国を、最高神デウスが奈落へと転落させたのが、すべてのはじまり。デウスとアトラスは争い、アトラス軍は敗北する。敗軍の兵となったアトラスの娘たちは、天の国へと還っていくデウスと協定を交しました」
『我らは地上を去る。多くの人類はいずれ、我らを忘れることだろう』
『そうなれば、神を忘れた地上は秩序を忘れたも同じ。混沌へ向かうしかない。期限を設けることとしよう。我々はその時が来れば、人類を審判する。』
「審判の方法とは、選ばれし二十二の使途が神々の住まう庭……天上の楽園へと旅立つこと。旅の道中には様々な試練が降りかかります。審判には、規定が三つ」
『ひとつ。審判には人類から二十、神が寄越した二人の使者から為る二十二人のさだめを負う者が代表に選ばれる。そのうちの一人はアトラスの民。アトラスの娘らよ。来たる審判の時、おまえたちは鬨の声を上げ、人間の先導に立ち、我らが居城たる天上へと導くのだ』
一のさだめは愚者。やがて真実を知るさだめ。
二のさだめは魔術師。種をまいた流れ者。
三のさだめは女教皇。始まりの女。
四のさだめは女帝。あらゆる愛の母たれや。
五のさだめは我らが皇帝。秩序の守護者。
六のさだめは教皇。知恵を授かりしもの。
七のさだめは恋人たち。自由なる苦悩の奴隷。
八のさだめは戦車。闘争に乾いたもの。
九のさだめは力。力制すもの。
十のさだめは隠者。愚者がやがて至るもの。
十一のさだめは|運命の輪《ホイール オブ フォーチュン》。予言に逆らいしもの。
十二のさだめは正義。秤の重きは全の重き。正義の剣は全のために。
十三のさだめは吊るされた男。真実に殉じるもの。
十四のさだめは死神。再生の前の破壊。破壊の前の再生。
十五のさだめは節制。意思なき調整者。
十六のさだめは悪魔。恐れるは死よりも孤独。誘惑を知るもの。
十七のさだめは塔。巡り合わせた罰。楽園からの転落。
十八のさだめは星。希望の予言。賢人の道しるべ。
十九のさだめは月。透明な狂気のヴェール。魔女の後継者。
二十のさだめは太陽。祝福された命。
二十一のさだめは審判。神の代官。審判の具現化。
そして、二十二のさだめ。あらゆるものの根源にして至るもの。宇宙。
『ふたつ。ひとたび審判が始まれば、いかなる血も流されぬようにせよ。使者がひとりでも人を殺めるようなことがあれば、人類は審判の資格を失う。』
『三つ。すべての審判が終わるまで、使途には例外なく惜しみの無い神々の祝福が与えられる。』
「……巨神アトラスは罪を背負い、世界の果てで大地と空の境を今も支えていると言います。わたくしたちは、そのアトラスを始祖神に頂く一族。魔女は我らの先祖に、自らの血肉を分けたこの『語り部』たちを与え、役割を子々孫々忘れないよう、ひいては人類が過去の過ちを繰り返さないために記録させているのです。審判の時、始まりを告げるわたくしたちが役目を忘れていたらいけないでしょう?」
ヴェロニカ皇女はそう言って、なぜかこの頭を帽子の上から撫でようとしたので、ボクはのけぞってそれを避けた。
「汚いだろ。皇女様が触っちゃダメだよ」
「触りたいものを触ります。撫でたいものを撫でます。可愛いものは好きです」
「遠回しに、その汚ない帽子を脱げって言ってる? 」
「いいえ。でも、お顔が見てお話ができたら、もっとすてき。ねえ? ダイアナ」
「ええ、そうですね。ダイアナも語り部以外の魔人とお話をするのは何十年ぶりになりましょう」
「ダイアナ。貴女は、ジーン皇帝の語り部だったものね。ねえ、ジジさん。少しだけ抱きしめても良い? 」
この皇女は、ボクの素顔が怪物のようなものだったならどうするのだろう。
いいや。きっと気にしないのだろう。この人はそういう『綺麗な人』だ。選別されて磨かれた宝石みたいな人だ。どんな汚い道も歩むだけで綺麗にする。こんな人の近くは、海のそばを歩くナメクジみたいな気分になる。
「……皇女様にこんなの触らせたってなったら、サリーの責任問題になるかもね」
「うふふ。させませんよ」
ボクはあらゆる抵抗をやめた。帽子の下に皇女の手が差し入れられて後頭部の向こうに覆いを落とされると、格納庫の照明が思いのほか眩しくて目がシバシバする。涙の膜が晴れると、真正面に二対の眼がある。彼女たちはびっくりした顔で、この顔をジッと見つめていた。ボクはつるりと自分の顎を撫であげる。
「なに? 別に特別面白い顔ってわけでもないと思うけど? 」
「い、いいえ。そうじゃないの……。でも、そうですね。少し痩せすぎですわ」
むにむにと皇女はボクの頬を両手で揉んだ。
「何よりこの、目の下の隈! 夜更かしはいけません。子供はよく眠るものです」
「ボクは魔人だよ? 見た目通りの年じゃあない」
「じゃあ何歳だっていうんです」
「……十七歳くらい」
「まあ! まだ子供じゃあないの! 」
皇女は腕を回してその豊かな胸元にボクの頭部を収めると、「なんて小さいの! 」と言って、さらにギュッと抱きしめた。
訳が分からないまま、頭の上で彼女が泣いているようだったので、手持無沙汰な両腕はとりあえず降ろし、手をこぶしにして脇腹にくっつけた。




