4『二十四時間後』①
「魔法使いの国行きの飛鯨船がサァ、そこらへんの丘で低空飛行してねえかな」
「そんな都合のいいこと、あるわけないじゃん」
「チッ! わかってるってぇの」
『黄昏の国』の異名をとる通り、このフェルヴィンという小島国は、常に分厚い雲がかかっている。渦を巻く黒雲は、雲を突くゲルヴァン火山のてっぺんから湧きだしてきているようにも思えた。束ねた雲の隙間から漏れる僅かな陽光で、ようやく今が昼間と言える時間だと分かる。
日にあたらないからか、草木は淡い黄色や灰色をしていて、永遠の黄昏に輝くようだ。そんな丘陵の先に立ち、サリヴァンは憂鬱を隠そうともせず、眼を細めて眼下の風景を見下ろした。
「……あれが帝都だろ? くそ田舎だな」
「君の故郷だって似たようなもんじゃない。でも見て。海岸線にシマシマの旗が立ってる。飛鯨船への目印だ」
「……おまえ、よく海岸なんて見えるな。俺には全部真っ黒だ」
それっきり、サリヴァンは黙り込んだ。しきりに眼鏡が無い眉間を擦って(彼はひどい近視である)、歯の隙間から唸り声を漏らしながら、丘の下を睨みつけ、イライラを振り切るように腕を振り上げて唐突に言った。
「ンッだァーッ! らちが明かねえ! とりあえず街まで走っぞ! 」
「えっ嘘だろ! 」
サリヴァンはボクを置いて、長い後ろ毛をなびかせながら坂を転がるように走り出す。坂の上から下までを撫でるような強い追い風が、ボクらの脚を早めさせる。真っ黒な空を指差して、サリヴァンは言った。
「ジジ! まずは飛鯨船だ! 魔法使いの国行きの飛鯨船を探すぞ! 」
「ちょっと待ってよ! どうせ先のことは考えてないんでしょ! ボクはいいとして、旅券も無いキミは違法入国者だよ! 」
「いざとなったら、わざと捕まって強制送還っていう手がある! 」
「前科者になるつもり? 破門されても知らないからね! 」
想像したのか、前を走るサリヴァンからの返事はない。
「……っていうか馬鹿じゃないの! ここから街まで体力が持つわけないじゃん」
「根性ダーッ! うおーっ! ……ん? 」
風向きが変わったのが肌で分かった。風を切るプロペラの、地響きに似た駆動音。背後から近づく存在感。「ウワーッ」ボクらは揃って間抜けな悲鳴を上げながら草の中に顔を突っ込む。ボクらの頭があった高さを蛇腹状の鯨の底が掠めていき、その小型飛鯨船は、丘の草の先を削り取るように低空飛行しながら崖を飛び出して再び天空へと泳ぎだした。名前の通りに鯨によく似たシルエットの尻尾を呆然と見送るボクの後頭部を、サリーの平手が襲う。「ちょっと! 」サリーは抗議するボクの頭を右手でリズミカルに叩きながら、興奮した様子で去っていく飛鯨船を左手で指差し、叫んだ。
「飛鯨船だ! 」
「そうだね。飛鯨船だね。キミは預言者だった」
「エリ――――いや、ヒース! 」
「え? は? 荒地? ……いや、あれはどう見ても飛鯨船だよ」
「はあ? 違う! ちっが~う! 気づかねえのか! ヒースだよ! ヒース・クロックフォード! 飛鯨船の航海士の!」
サリヴァンの両手がボクの肩をがっしりと掴み、ブンブン前後に揺さぶった。ボクの頭はブラブラ揺れる。脳細胞が遠心力でプチプチ潰れそうだ。
「――――あれは! ヒースが乗ってる『ケトー号』だよ! 」
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さて、ボクとサリーがようよう麓へとたどり着き、通りがかりの優しいおっちゃんの車に乗せてもらい、二時間半かけて城下町に辿り着いてから、愛しのケトー号と逢いまみえる長い長い苦労をしているあいだ、キミたちにはちょっとお勉強をしてもらおうと思う。ジャンルで区別するのなら、科学と歴史のお勉強だ。
まず、近代の学者たちは、ボクらの住むこの世界全体をこう呼称した。
『多重海層世界』。
この世界は球体ではない。例えるなら、連なる長い長い砂時計だ。
ガラス瓶の中に、空と、大地と、海の下に、さらに空があり、大地があり、海がある。世界を隔てる海と空のことを『海層』と呼び、人々は空の上か、もしくは海の底を抜けると……つまりその『海層』を抜けると、次の世界に辿り着く。
『多重海層世界』とは、そんな世界のミルフィーユ構造を、端的に表した学術的呼称である。
伝説では、最上層にあたる第1海層マクルトの空の果てには神々の住まう雲の宮殿があるという。
反対に、最下層の第20海層フェルヴィンの海の底には、果ての無い死者の国が広がっているのだとか……。
神話では、かつてこの世界はひとつの大地にあって繁栄したと謂われているけれど、科学の進歩により、それは証明されている。この『多重海層世界』は古代、確かに何らかの大きな力で、第1海層から、このフェルヴィンの在る第20海層までの、二十の世界に切り分けられたのだ。
ボクらにとって『海外』とは、おおよそこの『雲海層』を隔てた向こう側、雲海を抜けた先にある国のことをいう。
そこで人類は、「海外」を行き来して、旅行をしたり貿易をしたり、時には戦争をしたりするために、『飛鯨船』というものを創り出した。
『飛鯨船』とは、正式名称を『潜水対応型飛空艇』であり、『飛鯨船』という呼び名は、空に浮かんだ様子が羽の生えた鯨のようなところから付けられた愛称のようなものだ。
機能は簡単。潜水艦と飛空艇のハイブリット。滑走路を必要としない特殊なガスによる浮遊、魔術による耐久性と機械による駆動性を設計され、海底をも優雅に推進し、文字通り水空を泳ぎ回るステキな鯨さんである。
ボクらの安住の地『魔法使いの国』は、四つの海層を隔てた第18海層。
ボクらがなぜ、ああも必死にあの鯨を追いかけていたのか。これで少しはご理解いただけただろうか。
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