3『神の装置』②
青い燐火がレイバーンに灯る。ひと塊の青白い火玉となったレイバーンは、咆哮を上げながら舞い上がり、再び人の形を取った。腰を曲げて虚ろな眼孔を晒し、髭に埋もれた唇が震えながら開く。質量を伴わない滂沱の涙が老木に突き出た瘤のような頬を伝い、燐火の欠片のひとつとなった。
広間中に敷き詰められたように立ち尽くす青い霊魂たちが、天を仰いで口を開ける。声なき声が重なり、吹き荒れる木枯らしのような叫び声が木霊す。
「我がさだめは……魔女の墓守……選ばれし者『皇帝』……鬨は来たれり……知恵の果実はここに熟した……聴け……神々よ……我が名において、ここに魔女が交わした神との誓約により、我が名と宿世を以て、ここに、『神の審判』開、始を……ぐぅう」
魔術師の指が、躊躇うレイバーンに向けられる。
「……宣言、す、る………ぁぁぁああぁぁあああああ――――ッ」
それは宣誓だった。しじまのように平らだった墳墓の床が、水面に石を投げ込んだように罅割れ、崩れていく。身を切り裂かれたような父の悲鳴が響くなか、息子たちは揺れる地面と崩れゆく大地に縋りつくように蹲った。
逃げろ! お前たち! 逃げるのだ! 父の二の舞になってはならん――――!
魔術師が狂声を上げる。
「啓示を得たり! 我が名を得たり! 我が名は今この時より『魔術師』となる!」
アハハハ……――――。
ジーン・アトラスは、足元に転がる子供の躯を見下ろしていた。
「………」
陽炎に揺れる背中が片足を持ち上げ、甥の息子であったその躯の背に乗せる。ジーンのほんの三歩先、墳墓であったそこにはぽっかりと、真っ暗な奈落が口を開けている。
「……すまないな。僕はしょせん亡霊なんだ」
ジーンはそう呟いて、剣を振り上げた。切っ先がその子供の手枷を砕き、肩に添えられた足が真っ白な躯を奈落へと蹴り落とすと、すぐに見えなくなった。
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アルヴィンは胎児のように、満たされた闇の中に体を丸めてうずくまっている。
頭の中では稲光に似た後悔と思い出が交互に光っては消えていく。あたりは一切の静寂で、冷たくも温かくもなかった。自分にまだ手足が生えているのかすらも分からない。しかしアルヴィンにはまだ意識があった。感情があった。後悔があった。自分が死んでしまったことが分かっていた。
自分は十四年、何を成したというのだろう。何も出来なかった。兄たちの足手まといだったこと、ミケが自身を犠牲に生かそうとしてくれたものを台無しにしてしまったことが、悔しくてたまらなかった。
――――アルヴィン・アトラス。
そんな幼い皇子に、優し気な声が語りかける。
――――貴方の意思は、まだ枯れていない。
その言葉に、アルヴィンは弾かれるように顔を上げた。
目蓋を開けたアルヴィンの眼に映ったのは、あまりに広大な、天地の境の無い光の粒たちの浮かぶ世界だった。黒雲が晴れることがないフェルヴィンで、アルヴィンは生まれてから一度も、この国の空そのものの色を見たことが無い。
いや、こんな星空は世界中どこにも無いだろう。こんなふうに吸い込まれそうな、あらゆるものを飲み干しそうな星空が、この世にあるはずがない。
――――魔法はまだ、貴方の中にある。
星屑の中に埋もれるように、その黒い影はアルヴィンの前に立っている。前を向いているのか、それとも背を向けているのかも分からない。
ミケは生きているのか、とアルヴィンは問うた。
――――魔法はまだ役目を終えていない。
それだけのことだ。と、影は言う。影の視線がこちらを貫いた気がして、アルヴィンは自らの姿を顧みた。銅板の切れ端を握りしめた自分の手が見えた。その下に、薄っぺらい胴と足が伸びている。
――――貴方の意思の葉は、枯れていないね?
それは、影が発した初めての問いだった。
銅板を握る掌が汗ばみ、自分が何度も頷いたのを感じた。体の感触はあるのに、意識だけが離れて頭上を漂っているような、肉体と意識が逆転して、意識が肉体を着ているような、おかしな感覚だった。
ここはどこですか、と問うた。
影は応えなかったので、次に、貴方は誰ですか、と質問を変えた。
――――私は『宇宙』。かつて、貴方に導かれたもの。これから貴方を導くもの。
「僕は……何も成せなかった」
鈍痛を伴う物体が体の内側にあり、風船のように膨らんで、押し出された涙がポロポロと零れ出た。
「僕は、許されるのならやり直したい。僕にできることがあるのなら……」
――――星を目指すのです。
影は虚空を指差した。アルヴィンは指の先を見渡し、「どの星ですか」と尋ねた。
――――まだ貴方には見つけられない星。貴方が正しくあろうとすれば、きっとたどり着ける場所。貴方はそこを目指すのです。
「僕にできると思いますか。何も出来なかった、こんな僕に」
――――貴方は全てを一度無くしている。健やかな故郷、頭蓋骨、語り部、勇気、そして命……。
――――だから貴方は、それらを取り戻しながら旅をしなければならない。
――――それは困難を極めることでしょう。最初の候補である貴方が眠りにつけば、『審判』は次の者を選ぶだけ。ここで足を止めるのも悪い事ではない。
「僕が最初に選ばれた? 」
それはアルヴィンにとって、驚くべきことだった。
「やります。やらせて」
――――貴方が失ったものは数多い。どんな姿であろうとも貴方は戻りますか?
「どんな無様な姿になっても、役立たずよりずっとましだ! 」
――――いいでしょう。欲望も、また意思。世界にとって大切なのは、感情よりも何を成すかということ。
腕を広げて影がアルヴィンに歩みよる。きつく抱きしめられたその腕は、アルヴィンよりも華奢で、古い紙とインク、微かな金臭さが混じった匂いがした。
「我が名は『宇宙』……神の審判を見届けるもの。貴方を導くもの。貴方の旅路を記すもの。今、私は貴方と一つとなり、果てるまで添い遂げましょう」
影……『宇宙』の輪郭が燃え上がり、明々とその顔を照らし出した。その体はひと塊の真紅の炎となり、アルヴィンを包む。
熱を持たない炎は、アルヴィンの肌を焼かなかったが、その手に握られた銅板を溶かした。柔らかな金属液は、アルヴィンの掌の中で形を変え、その先端を慰撫するように頬へ伸ばす。アルヴィンは全てを受け入れて瞼を閉じた。
「今、この時から、貴方は地上から解き放たれる。貴方にとって天は地と同じ。夜は母であり、月は友。星は見えずとも、必ず貴方の上にある」
――――さあ行くのです! 目覚めなさい! 私の希望……『星』!
閉じた目蓋の裏にあるのはもはや闇ではない。あの美しい星空だ。
その星空が、黄金の燐火の粒の一つとなって遠ざかった。奈落を過ぎ去り、燃え盛る青い炎が見える。それは蘇った魂たちであり、変わり果てた現世だった。
真紅の炎はアルヴィンを乗せ、冥府の炎の膜を突き破りながら巻き上がる。
立ち込める黒雲がずいぶん近くに見える。眼下に、故郷の城の屋根が見えた。
顔に、頭に、焼け付くような熱を感じる。首の皮膚が焦げる臭いがする。
ちっぽけな体のちっぽけな拳を、溶けた金属が肉を焼き焦がしながら飲み込んでいく。頭蓋骨の無い頭は鼻が無く、十字に奔る亀裂、ぎざぎざの断面の奥に、刃金色にぎらつく双眼が剥き出しに濡れ揺れている。吐いた呼気が蒸気となり、夜明け前のフェルヴィンの真っ黒な空に白く霞んで消えた。
青い火の子を流星のように纏い、冥府の青い馬に跨ったジーンが、アルヴィンの顔を笑みに歪ませて言った。
「頭蓋骨の代わりに語り部の亡骸を溶かして貼り付けたか? まるで獣じゃあないか……」
雲の向こうで金色の太陽が昇る。黒雲のあわいから糸のように光が伸び、街に暁の金粉を塗す。その日の朝は、今までのどんな朝とも違う日になった。
アルヴィンの中で、取り戻せと叫ぶ声が木霊する。
夜明けの空に、アルヴィン・アトラスは高い高い咆哮を上げた。




