犬じゃない。それドラゴン
愛犬であるポチが死んでしまった。
享年十三歳の大往生であった。
「ポチ……俺を置いていかないでくれ……ポチ……うぅ」
悲嘆に暮れる私は、ポチが好きだったぬいぐるみを抱いて眠る日々が続いた。噛み跡の付いたぬいぐるみへ顔を押し付ければ、そこはかとなく漂う獣臭さに懐かしさを覚える。ポチと寄り添っているかのような錯覚。熟睡することができた。
ペットロス症候群に陥った私を見かねてか、それとも獣臭さに耐えかねたのか。職場の同僚である榎本さんが犬を拾ったらしく「原田さん、飼いませんか」と相談を持ちかけられた。二度とペットなんて飼わぬ。ポチに代わりはおらぬ。そう突っぱねてみせたものの「なら保健所へ」などと続ける榎本さんに対して、不本意ながらも待ったをかけたのだった。
「ほら見て、可愛いでしょう」
休日、首輪とリードを持って訪れた榎本宅にそれはいた。確かに可愛い。まだ生まれて間もないことが伺えるあどけない仕草に頬が緩む。垣間見える凛々しさに心が波打つ。どことなくポチに似た何かを感じ取るも、凛々しさの出所というのが背中から生えた翼だとわかれば、違う。これ、ポチじゃない。
「この子犬ね、橋の下に捨てられてたの。ほら、最近コンビニのできたあそこ」
悠長に告げる榎本さんの言葉に一つ、腑に落ちない点を見つければ子犬と銘打たれたそれを再び見やる。真っ白な体から伸びた犬にしては少々長い首の先、つぶらな瞳から必死に視線を下げれば、口元からチラリと覗かせる牙は。はて。
「榎本さん榎本さん」
ますます自炊が億劫になっちゃうわーなんて続ける榎本さんの、今後の生活におけるコンビニの在り方を遮れば、おずおずと手を挙げて口を開く。
「これ、犬、違う」
思いがけず外国人のような片言が飛び出すのも致し方なし。
「ポチは秋田犬だっけ。この子、雑種だけど……ダメかな?」
そう問われれば、ダメじゃない。たまたまポチが秋田犬というだけで犬種を気にしたことはない。ブルドック派やチワワ派に思うところがないわけでもない。しかしながら、犬は犬だし、飼い主は飼い主だ。それぞれがそれぞれに愛情を注げばいいのであって、雑種であろうがなかろうが犬には変わりない。そう、犬なら。
「犬、じゃない……ドラゴンです」
遠慮する間柄でもないため、少々天然な榎本さんの性格を鑑みた上で率直に申し上げた。なるべく声のトーンを落としたことで我ながら深刻さが際立ったと思う。
「やぁだもーあっはっは!」
返ってきたのは大笑いだ。あっけらかんと笑うものだから、思わず赤面してしまった。こちらの羞恥心を知ってか知らずか、大袈裟に手まで叩き始める始末。ちくしょう。この人は榎本さんじゃない。シンバルを手に持ったゴリラのおもちゃだ。そんな決めつけでもって泣く泣く溜飲を下げた。その後「冗談ばっかりいうんだから。相変わらずファンタジー小説が好きねぇ」と続けられてしまったので、眼前の小さなドラゴンと榎本さんを見比べれば、理不尽を覚えて唇を噛みしめた。
「すごいね、ドラゴンだって!」
便宜上ではあるが子犬に向かって声をかけた榎本さんの手は、全くもって遺憾ながら子犬と呼ばれる翼の付け根を掻いていた。当の、どう見ても子犬とは異なる子犬といえば気持ちの良さそうに「キュー」なんて鳴いている。鳴き声! 榎本さん、よく聞いて。手元もよく見て。疑問に思うことはありませんか。期待を込めて視線を投げかければ。
「お茶出してなかったね」
違います。
「たっだいまーあれ、原田さんじゃん!」
榎本さんの妹さん、いや、援軍が現れた。挨拶もそこそこにどうにか子犬の正体がドラゴンであることを知ってもらうべく考えあぐねていた折も折、それよりも先に援軍は伝令を寄こした。
「わんちゃん連れてっちゃうの? 家はお父さんがアレルギーだからさ。すっごい愛着沸いてるんだけどね。あぁ安心して。名前はまだ付けてないから」
援軍ではなく敵軍であった。わんちゃんと申したか。アレルギーって。ドラゴンアレルギーなんて聞いたことがない。どう見ても鱗、あ、鱗だ。体毛、生えてない。卵から生まれたような体してる。
「そうなんだ……あはは、大変だね」
思わず漏れた私の愛想笑いを気にした風でもなく。榎本妹はといえば、榎本さんの膝の上で丸まったドラゴンに手を伸ばす。遠慮なく撫でくりまわせば「冷やっこくてきもちー」なんてことを言っていた。
まるでトカゲとかそっち系の生き物を触っているかのような感想に対して、疑問を抱かないのか問い詰めたいところであった。ただ、そのドラゴンの姿を見ていると。撫でたい。私も思いきり撫でまわしたい。顔を埋めてみたい。感触を想像してゴクリと唾を飲み込む。
「榎本さん、触らせてください」
気持ちがこもりすぎた。榎本さんの視線を真っ直ぐに見据えて言ってしまった。一瞬固まった榎本さんは頬を指でポリポリと掻きながら、ドラゴンをこちらに引き渡した。受け取った手にはなかなかの重量感。「冷やっこくて気持ちが良い」その前評判に嘘偽りはなく、ツルリとした鱗はなんとも撫で心地がいい。
たまらぬ。たまらぬ。至福の時を味わっていたところで、よっぽど表情が緩んでいたのか榎本妹の「うわぁ」といった声で我に返る。油断していた。もしかしたら涎が出ていたかもしれない。
撫でる手が止まればドラゴンは羽ばたいて、再び榎本さんの膝の上に納まった。ここが定位置であることを示すかのように。生まれたときからここにいますよ、といった飄々とした振る舞いは。っていうか飛んだ。
「今、飛びましたよね。その犬」
もしかしたらという期待を添えてみた結果。
「ジャンプしたね」
期待は裏切られた。ジャンプ的なニュアンスの飛ぶでは決してない。どう見ても翼で飛んだ。その証拠に、ふわってした。残念なことにこの場においてはその、ふわってしたことに対する適切な表現が見当たらないため言いあぐねてしまった。
「細かいこと気にしちゃダメよ」
私の動揺を察したのか、言いあぐねる隙間を縫うようにして釘を刺されてしまう。「犬が翼で飛ぶ」その状況が果たして細かいのかどうか、不安になる。頑なに子犬として扱う二人によって、自分がおかしいんじゃないかという気になってくる。数って怖い。榎本さん一人ならばまだ反論する気概も持てたかもしれない。しかしながら、今は榎本妹も向こう側なのだった。
「それでどうするの? 飼うの? 飼わないの?」
そう問いかけられれば、飼っていいの? とこちらが聞いてしまいたい。橋の下で拾ったという話ではあったが、恐らくは密輸に違いない。ファンタジー世界からの密輸である。ファンタジー世界における希少生物の取り扱いについて考えて押し黙る私を見かねれば、榎本さんはボソリと「保健所……」といった魔法のキーワードを散りばめてきた。ちくしょう。榎本さん、魔法使える。短い呪文ながらも効果は的確であった。
「飼います、飼いますよ。動物好きの一人として愛情を注いでみせます」
魔法使いにそう言って、私はドラゴンを貰った。
その後、名前を決めようという話で物議を醸す。私、榎本さん、榎本妹による議会は荒れに荒れた。アウェイな立場でありながらも反骨精神でもって「ドラ」を押すことにより二人は折れてくれた。欲をいえばゴンを付けたかった。
君の名前は今日から「ドラ」だ。名前も決まって一安心、持ってきた首輪をつけるべく首をまさぐれば、思いのほか細い。やっぱり犬じゃない。持ってきたの、犬の首輪。ハラハラしながらメモリを最大限調整してなんとか取り付けることに成功する。
「それじゃ榎本さん、今日は本当にありがとうございました。妹さんもごめんね、たまに連れてくるからね」
榎本妹は「原田さんなら安心できるし」といって名残惜しそうにドラへ別れを告げた。去り際、榎本さんから「そういえばその犬、生肉しか食べないの」などという衝撃的な発言、それこそドラゴンたる所以みたいな食事情を聞かされギョっとしながらも榎本宅から脱した。まったく恐ろしいところだぜ。
ハードボイルドにキメながら握るリードの先にはドラの姿。休日のまだ明るい時間であった。当然のように通行人がいる。悪いドラゴンではないんです。そんな面持ちですれ違う通行人に心の中で頭を下げれば、帰路を急ぐ。
こちらの心配とは裏腹に何の驚きも示さない通行人の方々。ことなかれ主義を垣間見て、この街の治安は大丈夫なのか思い悩んだ。途中、「あー! わんちゃんだー!」そう言って手を振る幼い子供に対して、なんとドラは二本足で雄々しく立てば手を振り返した。見てはいけないものを見てしまった気分になり、榎本宅に引き返すことが頭を過ぎる。その幼い子供の恐らくはお父さんが「ほら、わんちゃんが手を振り返してくれたぞ、よかったな。ミホ」と言うのだから、心労ばかりが溜まっていった。
どうにかこうにか自宅であるマンションの一室に辿り着けば、ドラに向き合う。
「今日からここがお前の家だ。よろしくな」
「キュー」
伝わったのか伝わっていないのか。鳴き声で応じたドラは、勝手知ったる我が家に怯えることなく、興味深そうに部屋を見渡していた。
夜も更けて、事前の情報通り冷蔵庫に眠っていた生の牛肉を差し出せば、ドラは器用に手を使ってパクパクと食べだした。手を使うなよ……呆れながらもパソコンに向き直り「犬 ドラゴン」と検索してみても、得られる情報は「犬にドラゴンフルーツを食べさてもいいのでしょうか」といった私の望む回答と異なるものであった。ちなみに、食べさせてもいいらしい。知らなかった。
なんとかの知恵袋に甚く感心すれば、お前は何者なのだとドラを見やる。すると、まだ食べ続ける牛肉が喉に詰まったのか「ケポッ」なんて可愛らしい咳を一つ。
咳の際にどういうわけか口から赤い何かが見えた。知ってる、台所で見たことある。火。やだこの子、火、吹いた。翼はまだいい。まだいいのかわからないけど、鳥にだってある。しかしながら火、あろうことか火。
「火事には気を付けろよ……」
「キュイ!」
任せとけ! みたいな物言い、というか鳴き声。本当にわかっているのだろうか。まだ心が通っている気がしない。ポチのことならなんでもわかった。ポチとは間違いなく心が通っていた。ポチは火を吹いたりしなかったなぁ。胸が締め付けられる思いに駆られて、ポチの好きだったぬいぐるみを手に取れば顔を押し当てて心の安心を図った。ペットロス症候群、なおも癒えず。
「キュー?」
どした? みたいな鳴き声に対し、悪い悪いと手で制止を促せば向き直って撫でくりまわす。「冷やっこいなぁお前は」そう言いながらも頬を伝う涙は止まらなかった。
ドラゴンでもいい。
一緒にいてくれてありがとう。
これからもよろしくな。
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次の日の早朝、ポチの好きだったぬいぐるみが燃やされた。思い出の品を燃やされたことによって怒り狂った私はドラと喧嘩した。非常に残酷な仕打ち(一日散歩抜き)を断腸の思いで行う。
仲直りに二日かかった。