偽物の心
風町医院に集まった者たちがレベル上げのために奮闘していたそのころ、浄水場に残った天羽春樹たちも闘いの最中にあった。
「ダー、疲れた……!」
救助者たちの居る中央管理室と、水質チェックをするための管水室を繋ぐ通路の床に池本達也がぺたりと腰を降ろして、天井を仰ぎながら忙しく息を吐き出した。
「はい、お水。おつかれさま」
鷹野麻衣が水の入ったペットボトルを達也の額に乗せて、悪戯っぽく微笑む。
達也はリアクションを取る気力もなく、ペットボトルを力なく掴んでゆっくりと口元に運んだ。
「結構タフだよな、鷹野って」
「ふふ。これでも毎日鍛えているのです」
麻衣は得意げにそう言ってから、IFを立ち上げて弓矢を収納した。
二人が休憩をしていると、打ち漏らした魔物がいないか確認すべく建物の中を巡回していた天羽春樹が深刻そうな顔をして戻ってきた。
「送水ポンプ棟の方にも3体ほど湧いてたから倒しておいたよ。やっぱり、屋内に湧く魔物の数がだんだん増えているみたいだ」
春樹たちは昨日からずっと下水処理施設を守るべく奮闘していた。
斎藤康利と職員たちが言ったとおりに魔物は建物内にも定期的に出現していた。
最初は約3時間ごとに、6匹程度が春樹たちの居る管理棟の中だけに出現していたのだが、夜が明けてからはその間隔も次第に短くなるばかりか、別の棟にも湧くようになってしまっていた。
中央管理室の端末だけで全ての浄水業務が行えるわけではないので室内に立てこもっているわけにはいかず、どうしても各施設へと人が赴く必要があった。
「もう交代制はきついかもな。戻って斎藤さんに相談しよう」
春樹が歩き出すと、達也は重い腰をあげて、ふらふらとそれについて行った。
「そうか。では次からは君たちの番の時には私たちも手伝うとしよう。でも、私たちの番の時は休んでいてくれていいからね」
康利が言うと、職員の二人もそれに合わせて頷いた。
これまでは春樹、達也、麻衣の3人チームと、康利と職員二人の3人チームで交互に掃討をしていたのだが、次は10匹前後の魔物が現れるかもしれないともなれば、全員であたらなければ怪我人が出かねない。
「でも、それですと皆さんの負担が大きすぎますし、危険ですよ」
麻衣が慌ててそう言うと、康利はニコリとほほ笑んだ。
「いやいや。君たちにどれだけ助けられていることか。心配ないさ、10匹くらいなら」
実際、康利は強かった。
改変が起こった日の夜から今日まで、康利はこの連戦必死の環境で戦い続けており、かつ無傷だった。
レベルは10に達していたが転職システムについては気づいておらず、春樹のアドバイスを受けて「剣客」に転職してからは鬼神のごとき活躍を若者たちに見せつけていた。
達也がその強さの秘密について尋ねたとき、康利は「兼光に剣道を教えたのは私だしね。今でもせがまれてたまに勝負をするけれど、一度も負けたことはないよ」と、おどけた様子でそう言っていた。また、兼光について「あいつはセンスはいいんだが、剣も性格も愚直すぎるからだめだ」とも言っていた。
とはいえ、寄る年波には勝てないようで、連戦によって体が悲鳴を上げ始めた頃に春樹たちがきてくれたおかげで、体力を取り戻すことができたというのも事実だった。
また、食料が底をついていたため、春樹たちがデパートから拝借した食料を分け与えたことが何よりの力となっていた。
「所長さんたちも転職したことだし、大丈夫。気持ちだけいただいておくよ」
心配そうに見つめる麻衣に対して康利が拝み手をして礼を言うと、二人の職員も「まかせてくれ」と胸を叩いて見せた。
職員たちは康利をサポートすべくずっと戦闘に参加しており、彼の背後を狙う魔物を食い止めたり、魔物にとどめを刺したりしている内にレベル5に達していたのだ。
「分かりました。でも、無理しないでくださいね」
麻衣が説得を諦めてため息をつくと、康利たちは「ありがとう」と頭を下げた。
魔物が発生するまでの束の間に、春樹は兼光に連絡をとっていた。
『みんな無事かい?』
IFの画面に映った兼光が心配そうに問いかける。
「ええ、今のところは。作戦の準備は順調ですか?」
『うん、とりあえずはね。辛くないかい? 魔物の数がどんどん増えてるっていってたけど』
「まだ何とかなります。斎藤先輩のお父さんが大活躍してくださっているおかげです。けどもってあと一日か二日だと思います」
『そうか。改めて、父のためにすまない』
「いえ、町の人たちのためですので、気にしないでください」
『ありがとう。作戦開始は明日の夕方になったよ。みんな思ったよりも頑張ってくれてるから、明日の午前には準備が整いそうだ。安全地帯を確保したらすぐに町の人たちの救助を開始するから、そのときには君たちもそこを脱出してくれ』
「わかりました。作戦成功を祈ってます。お父さんと話されますか?」
「いや、いいさ。母さんのことは心配しないでくれ、とだけ伝えておいてくれないかな」
兼光と康利の親子は、話を聞く限りでは仲がよさそうであったのに、双方ともあまり話しをしたがらないことを春樹は気にしていた。
そのことについて康利に「息子さんを信頼しているんですね」と問いかけたとき、彼は言った。
「もちろん。と言いたいところだが、本当はね、聞くのが怖いんだ。あいつの安否を。考えることすら怖い」と。
一方で兼光が康利と顔を合わせたがらない理由はもちろん、合わせる顔がないからである。
父から受け継いだ正義は、異質で、狂気を帯びた別の正義によって粉砕されたのだから。
「わかりました。お父さんに伝えておきます」
そう言って兼光との通話を終えた春樹はの表情はなぜか憤っているようにみえた。
このとき春樹が思い出していた光景はあまりにも暗く、重々しい。
そう、ナイアーラトテップ戦が終わって春樹がやっと自宅に帰った時、彼の父親はすでに魔物によって無残に引き裂かれた姿で玄関先に転がっていた。
それを目の当たりにした春樹は、押し殺すようにして泣いた。
しかしその悲しみは、父の死に対するものではなく、目の前に父の無残な姿が在るというのに、ひどく冷静な自分の心が許せなくて、なんとか取り乱そうと、とりあえずに泣いたのだ。
その目に涙を浮かべることもなく。
春樹の父は、かつては名の知れた実業家であったが、母が病気で亡くなってからはすっかり生きる気力を失ってしまい、会社を売却して以来、自宅で酒に浸る日々を送っていた。
小さくなってしまったその背中を春樹が不憫に思うことはあっても、決して恨んだりはしていなかったし、両親ともが愛情を注いで育ててくれていたことに感謝をしていた。
それなのに、父の死を目の前にしても涙が零れることはなく、いっそ母が亡くなったときにも、泣いた『真似』をしていた自分のことを、彼自身が最も軽蔑していた。
(俺には心というものがないのだろうか。いや違う。怒りも悲しみも確かに感じている。ただ、それが自分にとって現実ではないような感覚がいつも有る。これは一体なんだ……!)
春樹はその憤りに任せて壁を打とうとしたが、その手はやはり、寸前で止まってしまった。