安全地帯
『ふぁあ。おっす、おはよう。あー、身体だりぃ。ブッ』
翌朝。
再び全人類の頭の中に、クラッカーの間の抜けた声と、ガスを放つ不快な音が聞こえてきた。
『わりわり、屁がでた。さてさて、状況はっと。んー、残り41億か。結構しぶといねえ』
クラッカーは感心しながらも不満気に呟く。
改変からまだ二日が経たない内に、どうやら世界人口の約4割が死滅したらしい。
『ほんとは半数を切ってからにしたかったんだが、まあいいか……。うっし! 良く聞けよ情報体ども! あー、でも説明だるいな。えっとな、とりあえずインターフェイス立ち上げろ。そんでマップを開け』
東組の天羽春樹は、血相を変えて駆け寄ってきた鷹野麻衣に黙って頷くと、クラッカーの言う通りにIFを立ち上げた。
ちなみに東組は大型のデパートの中で夜を明かしていた。
二階のおもちゃ売り場の床にバスタオルを敷いて眠っていた春樹たち。
麻衣は、ぬいぐるみを抱えたまま未だに床に寝転がっている池本達也を揺り動かしながらも、IFの画面に浮かび上がる周辺地図に目をやった。
『適当に縮尺変えてみろ、赤いマーカーが付いてる場所があるだろ?』
町の北、県境に近い山中にそのマークは有った。
北組のいる風町外科医院からそう遠くない場所だ。
さらにマップを縮小して世界全体を映し出すと、世界中に数えきれないほどの赤い点が打ちこまれているのが見て取れた。
『そのマーカーが付いてるのが安全地帯の位置だ。そこの周囲にはモンスターが入り込めないようにしておいた。お前らは今からそこへ向かって、町を作るんだ。今のままじゃあ一か月もあれば確実にお前らは絶滅するだろうから、優しい僕からの粋な計らいってわけだ。まあ、とにかく行ってみりゃあ色々わかるだろうよ。着いたらIF立ち上げてみるんだな。あ、やべ。さっきの屁のせいで実が出そうだわ。てか出てるわ。僕はお花を摘みにいってくっけど、まー頑張れ』
プツリ、と短いノイズのあとで世界は静まり返る。
「品のねえ奴だなぁ……クラッカー」
西組、大喜多健吾はげんなりとした様子でため息を吐き出した。
西組は結局、昨晩は公民館にすし詰め状態で雑魚寝をしていた。
夜中には人の気配につられた魔物たちが二度ほど襲撃してきたが、ライアンと健吾を含む数名の生徒が難なく撃退したらしい。
「あ、ライアン、おはよう。昨日は見張りありがとうね」
健吾の傍でIFをいじっていた児玉浩太が言うと、ライアン・フラムスティードは寝ぼけ眼をこすりながら、天を突く勢いの寝癖頭を掻きながら上半身を起こした。
「Morning、コータ。オナラシタ?」
「僕じゃないよっ! もう。クラッカーがしたんだよ」
「Oh……。クラッカー ナニ イイマシタカ?」
浩太はちらりと健吾の方を見ると、情報整理の意味も込めて、なるべくライアンにも分かりやすい言葉を選択しながら説明をし始める。
「ここに赤いマークが見えるでしょ? クラッカーは僕たちにここへ行けって言ったのさ」
「Oh。ナニガ アルマスカ? ココ」
「ここは、モンスターがいないらしいんだ。だからここに町を作れってさ」
「マチ?town?」
「そう。タウン」
ライアンが瞼を閉じて腕を組み、いかにも要領を得ないという表情で首を傾げると、健吾がすぐに口添えした。
「確かに意味がわかんないよな。あの辺りは山ばっかしかないはずだからな」
「地図で見る限り、山岳地帯ですよね。斜面に家を建てるなんて難しいでしょうし、なによりそのための資材を山中まで運ぶのは無理ですよ……。地盤だって緩いはずですし」
「うん。俺も思った」
「ジャア オレモダ」
「取りあえず皆に連絡を取ってみましょうか」
「そうすっか」
健吾はそう言ってIFを立ち上げると、フレンドリストの一番上にある斎藤兼光のアイコンに触れた。
「――――そうか、分かった。じゃあ、風町医院で」
クラッカーの言う安全地帯が市の北に位置しているため、北組が拠点としている風町外科医院で合流する相談を終えた兼光と健吾。
IFの通信画面を閉じる間際、健吾は兼光の浮かない顔を心配して切り出す。
「元気無いな、かねみっちゃん。何かあったンか?」
「いや、ちょっと疲れているだけさ。ありがとう」
兼光は心配させまいとぎこちなく微笑んでから、IFを閉じた。
昨晩の戦闘の疲れもあったが、岩城正義にまったく歯が立たなかった不甲斐なさと、揺らぎ始めた己の信念に困惑しているらしい兼光。
その身に負った無数の傷は、服部彰からもらったポーションのおかげで治りはしたが、心に刻まれた傷が癒えるには時間が必要らしい。
「各組とも風町さんのところに合流するんですね?」
通話を後ろで聞いていた梶浦がそう尋ねる。
昨晩は腹に重傷を抱えていた梶浦であったが、どうやらもうすっかり良いらしい。
「ああ、そういうことになった。梶浦、体調は万全か?」
「はい、問題ないです! いや、それにしても、あんな大けがが一瞬で治るなんて、ポーションって薬はすごいですねっ」
死の淵に追いやられ、最も恐ろしい目にあったはずの梶浦だったが、そんな彼がわざとおどけて腹をさすって見せる。
気を遣わせてしまっていることを申し訳なくも、ありがたくも思いつつ、兼光も笑顔を作る。
一方、二人の傍で沈んだ顔をしてたのは服部彰。
昨晩に何が起こったのかを事の後で知った彼は、正義の振る舞いに憤る一方で、何が正しいのか分からなくなりつつあった。
「いっそ、うちの生徒たちだけでここを出ちゃいますか?」
彰が伏し目がちに言うと、兼光は「いや、岩城さんに相談しに行こう」と緊張した面持ちで答えた。
兼光たちが市民ホールの外に出ると、正義は魔物の一匹を斬り捨ててから穏やな微笑みを彼らに向けた。
「やあ。二人とも、もう怪我は良いのかい?」
正義の白々しい問いかけに、『あんたが怪我をさせた張本人だろう』と、梶浦は内心では牙をむき出しにしていたが、決して口には出さなかった。
もし機嫌を損ねれば、昨晩の惨劇が繰り返されることになりかねない。
「岩城さんは何を?」
兼光が辺りを見回すと、ところどころに魔物の遺骸が転がっており、その全てからじわじわと黒煙が立ち上っていた。
「ラジオ体操の代わりさ。レベルも上がって一石二鳥っ」
正義はいつになく溌剌とした調子で、伸びをして見せた。
IFを立ち上げてその両手に持っていたナイフをしまい込むと、兼光たちへ向き直る。
「いくんだろう? クラッカーの言っていた安全地帯に」
「はい。そのことを相談しに来ました」
「相談……ね。君たちだけで勝手に行ってしまうかもって思っていたけど」
「そんなことはしません」
「助かるよ」
「散り散りになっている高徳高校の学生たちとその家族は皆、風町外科医院に一旦集合する予定です」
「風町外科医院、か……」
病院の名前を聞いた途端に、正義の表情が真剣なものに代わった。
それが気になって、兼光が問いかける。
「どうしましたか?」
「いや、何でもないよ。そこに集合で良いんじゃないかな。じゃあ、中に入って皆にも提案しよう」
正義はふっと優男の顔に戻して、ホールの中へと歩き出した。