信念の相違③
正義はとうとう、ナイフを兼光へと振り下ろしてしまう。
しかしその刃は突き刺さる直前に彼の手元でくるりと回り、柄の方が兼光の頭のてっぺんを痛烈に打った。
「痛ったぁ!!」
首筋を切り裂かれると覚悟をしていた兼光であったが、頭を打たれる覚悟はしていなかったために不格好に蹲ってしまう。
正義は依然として不機嫌を顔に張り付けてその醜態を見下してた。
「どんだけアホなんだテメーは。大人しく頭を下げて言うこときいてりゃいいものを……」
正義はIFを立ち上げてナイフをしまうと、そのまま背を向けて場を後にしようとしてしまう。
「待ってください!! なぜ殺さないんです!?」
正義は面倒くさそうに頭を掻いて歩みを止めると、タバコを咥えて手すりに背を預ける。
「元々、テメーを殺す気なんざねえよ。テメーらはほっときゃ勝手に死ぬだろうし」
「どういう意味ですか?」
「テメーで考えろ。もう授業はお終いだ」
正義はふぅっと煙を空へと吐き出して、兼光の問いを煙に巻く。
この二人の戦いには隠れた意義があった。
今後、このホールに集まっている250余名を誰が率いるのかを決めるという意義が。
このまま兼光が指揮を執る流れになれば、その甘さのせいで多くの不幸が生まれるだろうと正義は予感していた。
誰も彼もを救おうとすれば、全体が瓦解する。
しかし、瓦解するのはモンスターだけが原因ではない。
人間同士の憎しみ合いによってだ。
この先、世の人々がこの無政府状態を正確に把握したとき、きっと誰もが欲望のままに行動するようになり、歯止めが効かなくなる。
女性職員の清水香に降りかかったような不幸が今後もそこら中で起こり続ける。
それを防ぐためには、力を持った人間が規律を作り、恐怖をもって犯罪を抑制するより他に方法がない。
罪に対して徹底的な罰を与えることで、欲望の箍が外れないようにしなければならない。
罪には厳罰を。
それが約束されることで初めて、善人たちは安寧を得られるのだと。
それが正義の正義だった。
その実現のためには兼光を屈服させて主導権を奪う必要があったのだが、兼光の意地も相当なものであったため、呆れた正義は一旦手を引くことにしたという訳だった。
「あー、一つ言い忘れたが、若松とかいう強姦魔はまだB棟で寝てることだろうよ。両腕は折ってあるがな」
「……!」
「お前らが責任をもって何とかしろ。ただし治療は最低限にしろ。あいつらに動き回られたんじゃあ、皆が安心できない」
「……わかりました。少なくとも彼らが清水さんの目に付かないようにします」
「まあ、最終的にここを出ることになったときには置いていくしかねえだろうがな。殺しておいた方がまだ人道的だったと後悔するだろうよ」
「……そう、かもしれません」
「おっと、忘れてたぜ。ほらよ、預かりものだ」
正義がスーツパンツのポケットからポーションミニの小瓶を取り出して兼光へと放り投げる。
「早くしねぇと、大事なお友達がマジで死ぬぞ」
正義は横たわる梶浦を一瞥してから、携帯灰皿の中にタバコを押し込んで背を向ける。
兼光はボロボロの体に鞭を打ちながらも彼のもとへと這い寄った。
正義がA棟に戻ると、落ち着かない様子できょろきょろと辺りを見回している服部彰の姿があった。
「おーい、服部君。どうしたんだ?」
正義が声をかけると、彰は正義の顔を見るなりぎょっとして身を固めた。
「岩城さん……こんばんは。斎藤先輩たちを見ませんでしたか?」
どうやら彰は姿の見えない兼光と梶浦を心配して探しているらしい。
「ああ、見たよ。B棟への渡り廊下にいたよ」
「ありがとうございます」
軽く頭を下げて駆けだそうとする彰を「ちょっとまった」と呼び止める正義。
彼は不意にIFを立ち上げて、真っ赤な液体のたっぷり入ったポーションの瓶を取り出すと、その中身を少しだけ指にこぼしてから兼光につけられた肩口の傷に塗り込むと、残りを彰に押し付けた。
「岩城さん、これは……?」
「よく効く傷薬だよ。君に上げよう」
「あ、ありがとう、ございます」
「ただし、僕からもらったことは誰にも内緒にしておいてくれ。絶対に」
一瞬だけ正義の目があの恐ろしいものに代わったことに気が付いていた彰は、訳も分からないままに「わ、わかりました」と約束してから小走りでB棟へと駆けて行った。
兼光の持っていたポーションミニだけでは、梶浦の傷を治すだけで精一杯で、兼光自身の傷や、あるいは柔道部の二人を歩ける程度に回復させるには足らないだろうと、正義は察していた。
「つくづく甘くなったもんだな、僕も。―――寝よ」
あくび混じりにそう言うと、ネクタイを片手で器用にしゅるりと外し、第二会議室へと戻っていった。