初めての「ありがとう」
「美砂! 薬師寺先生! 無事か!」
風町大智が朱音や他の生徒たちに連れられて病室へと飛び込んできた。
狂人化していた患者やスタッフたちはルフスが消滅すると同時に正気を取り戻し、直後に揃って意識を失ったため、朱音たちはやっと駆け付けることができた。
大智たちは竜巻でも通過したのかと思えるほどに荒れ果てた室内で、ぽつんと座り込んでいる美砂を見つけて固唾を飲みこむ。
「お、おい、美砂?」
大智の呼びかけに美砂はやっと顔を上げる。
「薬師寺先生は……死んだわ……私をかばって」
どうやら美砂の陰に横たわる血まみれの男が薬師寺らしいことを認めて、誰もの顔色が変わった。
「……そうか」
平静を装っていた大智だったが、その拳は締め付ける音が聞こえてきそうなほどに強く握られていた。
本当は美砂を責めたかった。
薬師寺の言うことを聞かずに暴走した上でのこの始末を、到底許すことができそうにはなかった。
そもそも、父親が植物状態になるきっかけとなったのも、美砂の自分勝手な行動が原因であったのに、それでもまだ同じ過ちを繰り返したのかと。
今すぐにでもそう怒鳴りつけたい気持ちであったが、これ以上の醜態を美砂の学友の前で見せるわけにもいかず、大智は怒りを心の内に押し込めた。
何より叱責するまでもなく、美砂はことの重大さを十分にわかっているらしく、見たことのないような血の気の引いた顔をしていた。
「でも、父さんは生きてるかもしれない。お願い兄さん……助けて……」
美砂の視線の先、病室の入り口側の隅には、背を丸めて倒れているの修治の姿があった。
大智は急いで駆け寄ると、すぐに手を取って脈を測った。
「……こんなときにすまない。君たち、手を貸してくれないか。この患者を隣の病室まで運びたい」
大智が振り返ってそう言うと、男子生徒の数名がすぐにその役を買ってでた。
修治は生きていた。
確かに美砂の果物ナイフは彼の胸を突き刺したはずであったのに、それらしい傷口は見当たらない。
そう、彼女は父を刺してなどいない。
胸に刺さる直前に果物ナイフを折りたたみ、刺すフリをしていただけだったのだ。
修治の胸に付着していた血液は、ナイフを折りたたむ直前に美砂が自分の手の平を傷つけて噴出させてたものだった。
「美砂……様」
大智たちが修治を連れて別室に移動したあとで、朱音と桜だけが病室に残り、立ちつくす美砂を心配そうに見つめていた。
「大丈夫よ。心配いらないわ」
美砂は背を向けたまま目を拭うと、いつも通りの口調でそう呟く。
朱音は千切れたカーテンを拾い上げると、痛々しい傷跡を晒して天を仰いでいる薬師寺の亡骸にそっとかけた。
「ううん。大丈夫じゃないよ。こんなの絶対、つらい」
桜はそう言って美砂の背中にそっと寄り添うと、彼女の代わりに泣いた。
美砂は突然のことに一瞬びくりと体を強張らせたが、桜が回した腕におずおずと手を添えると、震える声で「ありがとう」と呟いた。