表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
64/111

アンドレアルフス③

「父さん。ごめんなさい。私は、あなたを二度殺します」



 美砂はそう呟きながら寂しげに目を細めると、手元の矮小な果物ナイフに力を込めた。


 父の命は惜しい。


 けれど、こうしてまた、自分のせいで命を失ってしまいそうな人がいる。


 今は一刻も早く魔物を倒してポーションを手に入れなければ薬師寺の命が危うい。


 下の階で奮闘している北組の皆も危険に晒されているはずだ。


 父ならどうするだろうか。


 父の気持ちになって考え、この結論に至るまでに時間は必要なかった。


 風町修治なら自分のために他人を危険に晒さない。



 美砂は胸に手をあててブラウスを握りしめながら慎重に歩を進める。


 罪悪感と自己嫌悪で気が狂ってしまいそうだった。


 アンドレアルフスの精神支配など取るに足らないと感じるほどに、この決意は罪深い。



『これならばどうだ!』



 ルフスが大きな翼を二度三度と羽ばたかせると、凄まじい突風が巻き起こり、美砂の進行を阻んだ。


 最初に美砂を吹き飛ばしたのも、薬師寺を天井まで跳ね飛ばしたのも、この翼の力によるものだった。


 空気の質量を感じてしまうほどの風圧。


 まるで分厚い鉄板が自分の体を何度も打ち付けてくるかのようだった。


 美砂は姿勢を低くしてそれに耐えていたが、意志とは裏腹にじりじりと体は後退し始める。



『くっはは。さあ、とどめを刺してやろう』



 アンドレアルフスは翼をばたつかせながら舞い散った羽を再び空中で固定し始めた。


 強風に吹き飛ばされないように堪えるので手一杯の美砂に、これを避ける余裕など当然ない。



(両腕と両足で全部受けきれるかしら)



 避けるのが無理なら、急所にはならない四肢で受け止めようと、美砂はすぐに覚悟を決めた。


 突風の中、羽軸の先端が美砂の体に向けて固定され、ついに魔物の瞳が紫色に輝いた。


 一秒後にはあの鋭い羽軸が体中を突き破る。


 それでも彼女は瞳を閉じない。


 むしろなるべく両腕で受けきろうと、瞳を見開いてそれを見据えていた。



 しかし、美砂の覚悟とは裏腹に、突然風が止み、羽は落ち葉のように左右に揺れながら地面に落ちていく。



『ば……かな……』



 ルフスはひどく狼狽していた。


 あと一歩というところで、操っている修治の体が思い通りに動かなくなってしまったのだ。



『私が……私が直接支配しているのだぞ……!? ありえ……ん』



 見ると、魔物によって操られていた修治の瞳の片方が、修治本人のものに戻っていた。



「……美砂。少し背が伸びたな」


「父さん……なの?」



 修治は奥歯を噛みしめながらも少しだけ微笑んで見せると、すぐに真剣な顔に戻って美砂に言った。



「今の内だ。やれ、美砂」



 このとき美砂はやっと、本物の父と再び話すことができた。


 しかし、投げかけられた言葉は余りにも残酷で、その判断は悲しいほどに賢明だった。



「あのね父さん、私―――!」


「美砂! 今はやるべきことをやれ!!」



 ずっと溜めこんでいた思いを伝えようと美砂は必死に口を動かそうとしたが、修治は厳しい口調でそれを一喝した。


 使命。


 患者を、病院を守るという使命。


 命を懸けた薬師寺の犠牲を無駄にしないという使命。


 風町修治が何より大切にするのはいつも使命と信念だった。



「もう……もたない。早くしろ!」



 美砂はしばらく項垂れていたが、やがて果物ナイフを拾い上げると、少し微笑みながら立ち上がった。


 彼女は嬉しかった。


 修治の生き方を誰よりも尊敬していた彼女は、魔物が彼の声色を使ってつまらない命乞いをしたとき、とても悲しかった。


 しかし、今目の前にいるのは誰よりも強く、誰よりも愛おしい父親に間違いがない。



「父さん、ありがとう」



 たったそれだけ言うと、美砂は走り出した。


 そして修治の胸元に飛び込むようにしてもたれ掛かると、修治はそれを受け止めて抱き寄せ、髪の毛を二度、優しく撫でた。



「美砂……。愛しているよ」



 そう言って涼しげに微笑む父の胸元には、刃が見えないほどに深々とナイフが突き刺さっていた。


 美砂の手元を伝って落ちる血液が、瞼から溢れた雫と混じりあって、優しげに床を染めていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ