アンドレアルフス②
「よくも私の前に顔を出せたものだな、美砂。私がこうなったのは誰のせいだと思っている」
美砂の体が一瞬にして強張る。
それはこの一年間、ずっと彼女が恐れていた言葉だった。
父を治したい一心で様々な病院を渡り歩き、著名な脳外科医に手紙を送り、寝る間も惜しんで医学書を読み漁った。
しかし、心のどこかでは父が目覚めることを恐れていた。
つまらない意地を張って心配をかけた上に、忠告を無視して夜遅くまでバイトを続けた結果、あれほど立派で、あれほど厳格な父親がつまらない性犯罪者などになぶり殺しにされかけたのだ。
母は看病に疲れて家を出ていき、兄は父のいなくなった病院を守ろうと、壮絶な毎日を過ごしていた。
許されるはずがない。
許してほしいなどとは思っていない。
むしろ罰してほしい。
そう思っていた。
けれど違う。
罰されたいなどというのは、父に責められたときに自分の心を保つための予防線だったのだ。
こうして実際に叱責されれば、そんな保険など何の役にも立たずに、心はいとも簡単に悲鳴を上げて引きちぎれてしまう。
本当は許されたかった。
「お前のせいで私は全てを失った。お前のせいで……!」
睨む修治の視線の先にあったのは、幼子のような少女の泣き顔。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
項垂れて許しを請う彼女の震えた声にはいつもの覇気など一切なく、頬を伝う涙がポタリポタリと床を濡らしてゆく。
「貴様など私の娘ではない。今ここで……死ねぃ!』
いつの間にか修治の周りには黒い孔雀の羽が無数に浮かんでいた。
鋭利な羽軸の先端は、みな揃って美砂のほうへと狙いが定められている。
そして、依然として地べたで放心している彼女めがけて、それは容赦なく発射されたのだった。
「なんて顔してるんだ。風町」
その声に美砂がゆっくりと顔を上げると、そこには大きな背中があった。
大の字に手を広げたままの薬師寺は首だけで振り返ると、鼻水の垂れた美砂の顔を見て、ふっと笑う。
涙でぼやける視界の中、美砂はその背中をぼぅっと眺めていた。
そう、背中から伝い落ちる赤い糸を、じっと。
「ヤク……マン……?」
アンドレアルフスの放った無数の羽は、美砂だけを避けるようにして壁やベッド、そして薬師寺の体に突き刺さっていたのだった。
「薬師寺……先生……だろうが」
薬師寺のブルージャージの肩や脇腹を突き破って飛び出している羽軸を伝うようにして、美砂の膝元に血液がずっと流れ落ちていた。
『邪魔をするな。貴様のような悪意の希薄な男には用はない。もっとも、その命はまもなく潰えるであろうがなぁ』
ルフスの言う通り、薬師寺の負った傷はあまりにも深い。
だがあれほど臆病だった薬師寺の瞳が、今は光を帯びているようにすら見えた。
「そう……だな。生徒を守って死ねるんだ。俺は……幸せ者だ」
『その女はお前のことを毛嫌いしているというのに、おめでたい奴だ』
ルフスはニヤニヤと嫌らしく嗤って見せるが、薬師寺は眉一つ動かすこともなく、代わりに前へと一歩踏み出す。
「そんなことは知っている。―――だからどうした。嫌われたって、憎まれたって、守りたいものが大人にはあるんだよ!!」
薬師寺は体のあちこちに突き刺さった尾羽を揺らしながら、アンドレアルフスに向かって一直線に走り出す。
体中から吹きだした彼の命の雫が、壁や床にまき散らされてゆく。
アンドレアルフスはとどめとばかりに数本の尾羽を飛ばして、薬師寺の太ももや胸元にそれを突き立てるが、それでも彼の歩みは止まらない。
そしてついにアンドレアルフスの操る修治の腰の辺りに飛びついて押し倒すと、体重を掛けて抑え込みながら声を上げた。
「風町ぃ! 惑わされるな! 親父さんはなんであの時、あの現場にいた! どんな気持ちで犯人に立ち向かっていった! 思い出せ……言葉なんて信じるな!!」
体中から血を吹き出しながらも必死に力を込めている薬師寺の姿を見て、美砂は思い出した。
あのときと同じ光景だ。
修治は、美砂を襲った犯人に意識が一瞬で失われるほどの電撃を流されながらもそれに耐え抜き、彼女に逃げろと言った。
すさまじい執念。
それがどこから来るものかなど、少し考えればわかることだった。
「この糞野郎、院長の気持ちを踏みにじりやがって……! 絶対に許さんぞ!」
ルフスは憑りついてる修治の体をよじらせながら必死に抵抗していたが、薬師寺はなおさらに力を込めてその両腕を床に押し付けた。
『図に乗るなよ……人間風情が!』
ルフスの瞳が不気味に輝いた直後、修治の背中から黒い翼が出現し、薬師寺の体を跳ね飛ばす。
彼の体は天井に激しく衝突して、無残に地面に転がってしまった。
『はぁはぁ……。余計な力を使わせおって』
ルフスは床に転がったままピクリとも動かなくなった薬師寺の体を見つめながら、上体を折って息を整えていた。
『この弱り切った体ではこんな男にまで不覚をとるか……。となれば、小娘。貴様の脳を抉ってから今度はその体を乗っ取ってやろう』
ルフスがそう宣告してから翼を何度か羽ばたかせると、舞い散った羽のいくつかが空中に固定され始める。
一方の美砂はいつの間にか立ち上がっていた。
乱れた髪が目元を覆い、その下にどんな色をした瞳が隠されているのかは分からない。
しかし、ルフスは彼女の心境に構うこともなく、頭蓋を抉るべく数本の尾羽を弾丸のような速度で放っていた。
その直線状の軌跡は彼女の額を無慈悲にも貫いたかに思われた。
が、砕け散ったのは背後の窓ガラスだけだった。
美砂は首を少しだけ傾けてそれを避けていた。
尾羽の風圧で跳ね上がった髪の毛の下に覗いた、強い信念に満ちた瞳は、とても悲しげで、ひどく澄んでいた。
そして彼女は歩き出す。
ルフスは戸惑いながらもそれを阻むべく次々と尾羽を発射するが、美砂にはまるでかすりもしない。
先ほど、突進する薬師寺に向かって放たれた尾羽の動きを見て、彼女はすでに理解していた。
空中に固定された尾羽は、羽軸が向いている先に真っ直ぐ発射されることを、そして発射の直前に魔物の瞳が一際強く輝くことを。
そしてその推測は初撃の際に確信に変わった。
軌道とタイミングが分かってしまえば、人並み外れた動体視力を備えた彼女にとって、これを避けることなど造作もなかった。
加えて今の美砂は狂人化の影響で、身体能力が飛躍的に向上している。