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アンドレアルフス①

 美砂のその悲しい記憶を源泉として湧き出す憎悪は今、アンドレアルフスの能力によってさらに増幅されてしまっていた。



『―――殺シテヤル。ゼッタイニ……』



 美砂はすっかり正気を失い、代わりに狂気を纏った瞳で薬師寺を睨みながらそう呟いた。



「お、落ち着け風町」



 薬師寺の黒目に映り込りこむ出刃包丁がぎらりと光る。


 風町修治の体を乗っ取っているアンドレアルフスは、宙に体を固定したまま豹変した美砂を見下ろして満足そうに微笑んでいた。



『すばらしい。小娘と思っていたが、これほどの憎悪を隠し持っていたとはな。いいぞ、実に純粋で芳醇な憎悪と殺意だ』



 アンドレアルフスの能力は、人の負の感情を爆発させる。


 大きなストレスやトラウマを抱える者ほどその術中に陥り易く、持ち合わせている負の感情の程度に比例して強靭な狂人となるのだった。


 その点、稀有で深刻な精神的外傷を抱える美砂は、アンドレアルフスにとって最高の力を持つ奴隷と成り得た。



『それに比べてなんだその男は。まるで他者への悪意というものが感じられない』



 ルフスは呆れと苛立ちの交じった目で薬師寺を睨む。


 どうやら薬師寺はルフスの『悪意を増幅させる能力』の影響を受けていない様子だった。



『小娘、まずは手始めにその男を殺せ』  


 

 ルフスがそう命じると、美砂は諸手に持った包丁を薬師寺の顔面めがけて振り下ろした。


 薬師寺は乙女のような悲鳴を上げながら反射的に体を丸めたため、結果的にこれを避けることができたが、彼の背後にあった重厚なコンクリートの壁は豆腐のように容易く裂けてしまった。


 美砂は刃の中腹のあたりから折れ曲がってしまった包丁をコンクリートの裂け目から抜き取ると、なおも薬師寺へ向けてそれを振り回した。


 攻撃の威力は凄まじかったが、予備動作が非常に大きかったため、薬師寺はなんとかそれをかわし続けて狭い病室の中を逃げ回っていた。


 が、とうとう部屋の角へと追い詰められた薬師寺に向けて、美砂が容赦なく刃を振り下ろす。


 薬師寺は金属バットを真横にして壁の角にひっかける形でなんとかこれを受け止めたが、バットはあっさりとくの字に折れ曲がった。


 そこへ美砂がお構いなしにそのまま包丁を押し込んでいく。


 薬師寺はじりじりと壁を削りながらずり落ちてくる金属バットを押し上げようと腕に力を込めるが、いっそ重機を相手にしているのだろうかと錯覚するほどに、その力は理不尽だった、。



 眼前に迫る死の恐怖。


 いつもの薬師寺であれば身を震わせながら念仏でも唱えている頃だったが、彼はこのとき美砂の狂気に満ちた瞳を真っ直ぐに見据えていた。


 彼の心に湧きあがっていたのは、恐怖ではなく研ぎ澄まされた静かな怒りだった。 



「やめんか風町! 化け物なんぞに操られやがって! お前は―――風町修治の娘、風町美砂だろうが!」



 その咆哮に、美砂の力がわずかだが確かに弱まった。


 薬師寺はその隙を見逃さずに壁際からするりと抜けて立ち上がる。



『何をしている。お前はその男が特に憎いのだろう? 早く殺せ』



 ルフスは苛立ち混じりに美砂に命令をするが、彼女は茫然と立ち尽くしたまま動こうとしなかった。


 薬師寺はくの字に曲がったバットを構え直して息を飲みながら美砂の様子を覗っていた。



『ワタシ二……私に……私に命令しないでくれる? あんた何様なの?」



 やがてゆっくりと振り返った時には、その瞳はいつもの凍てつくような信念を纏った、風町美砂のものに戻っていた。


 美砂は乱れた髪の毛に手櫛を通したあとで、アンドレアルフスを睨んだ。


 ほっと胸をなで下ろした薬師寺は、糸の切れた操り人形のように、だらしなくその場に座り込んでしまった。



『有りえぬ! 精神支配を受け、狂人と化しながらもなお、正気を保っているなどと!』



 美砂の体からは先ほどまでと同じく、薄暗い闇が漏れていたが、その目は確かに彼女のもの。


 ルフスの力を得たままに、正気を取り戻した美砂。


 美砂は宙に浮いている修治の元へと無警戒に歩み寄り、その足首を掴んで力任せに引っ張り降ろすと、息がかかるほどに顔を近づけてからたっぷりと眉間にしわを寄せた。



「その体から出なさい」

 


 たった一言、それだけだった。


 それだけで、人心を自在にあやつる伝説の悪魔が、一瞬ではあったが怯み、美砂の手を跳ねのけて後退した。


 美砂は無残に折れ曲がった包丁を投げ捨てると、ベッド脇の棚の上にあった果物ナイフを拾い上げてから、依然として修治の体から出ようとしないアンドレアルフスに向かってゆっくりと歩き始めた。



『小娘、そんなものを使って何をするつもりだ。この男は貴様の父親なのだろう?』



 魔物は、美砂の手元で鈍く輝くナイフの切っ先を熱心に眺めながら、そう言って小さく嗤った。



「ようは殺さなければいいのよ。ねえ、痛覚なんかは共有しているのかしら?」



 そう呟く美砂の唇は、どこか楽しげに横に伸びていた。


 ルフスにはそれが脅しであろうことは予想がついていたが、背中を壁にぶつけてから、自分が気圧されていることにやっと気が付いた。



「まあいいわ、答えなくても。試してみれば済む話だし」



 壁を背にしたまま再び美砂に胸倉を掴まれたルフスの頬にはじっとりとした汗が滲んでいた。


 果物ナイフの先端がゆっくりと魔物の瞳を狙って近づけられていく。



「美砂……やめてくれ……」



 その声に、彼女の手がぴたりと止まる。



「これ以上私を苦しめないでくれ」



 まぎれもない、父の声。


 だが、そこには以前のような威厳は無く、悲哀と恐れに満ちているようだった。 


 そして、その顔があっという間に元の屈折した魔物のものに戻ったことに気が付いた時には、美砂の体は反対側の壁まで跳ね飛ばされていた。


 薬師寺が慌てて美砂の元に駆け寄って体を起こすと、彼女はなんとか意識を取り戻し、薬師寺の体を押しのけた。



『くっはは。安い脅しだったな、小娘。結局お前はこの男を傷つけることなどできない』


「……稀に見る下種ね。父の体を人質にした上に、声色まで使って騙し討ちとはね」



 頭を強く打ち付けた美砂は、なかなか焦点の定まらない視界の中、ルフスの方をかろうじて見据える。



『騙す? 騙してなどおらぬわ。先ほどの言葉はこの男自身の言葉よ。疑わしいならもう一度言葉を交えてみるが良い』



 ルフスはそう言うと、下卑た微笑みの後で瞳を閉じた。


 そしてゆっくりと瞼を開いた時には、その表情は再び懐かしい父のものに変わっていた。

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