ゴブリンとポーション②
毒々しい緑色の皮膚、垂れ下がるほどに長い鼻先。
禿げ上がった頭の側面に、尖った耳が伸びている。
頬の裂けた口からは隙間だらけの歯が不恰好に並んでおり、それをがちがちと打ち合わせながら不気味に微笑む。
「澤本ぉ! くそっ、こっちくんな……!」
手足を懸命に動かして後ずさる神田。
直後、背中に何かがぶつかったのを感じて恐る恐る振り返ると、眼前の小人と同じ姿をしたものが、背後でにんまりと神田に微笑みかけていた。
その手に握られていたナイフは既に神田の体内にずっぽりと納まっており、次の瞬間には四方の物陰から現れた複数の小人たちによって彼の姿は覆い隠され、悲鳴の代わりに血しぶきだけが上がった。
「よくも二人を……。この化け物どもが!!」
「よせ! もう助からない! 走れ!」
激情に駆られて小人たちの方へと飛びかかろうとしていた梶浦の腕を、健吾は無理やりに引っ張った。
梶浦は血が滲むほどに唇を噛みしめながら、澤本と神田の亡骸をなおも刻み続ける小人たちを睨みつけていたが、やがて健吾の方へと向き直り、共に駆けだした。
「追ってはこないみたいだな……」
どうにか部室棟までたどり着いた健吾たちは、入り口に鍵をかけ、窓ガラスごしに自分たちの駆け抜けた渡り廊下の様子を覗う。
夕暮れ時のあたたかな光の中で、はしゃぐ小さな影が5つ6つ。
小人たちは変わり果てた二人の遺体を振り回したり、苦痛と恐怖で固まったままの顔が張り付いている彼らの頭部を投げ合ったりしてゲラゲラと楽しそうに笑っている。
「なんてことしやがる……。澤本、神田……」
梶浦はその様を歯噛みをしながら眺めていた。
「すまない、俺に付き合ったせいでこんなことに……」
健吾は後悔していた。
短い渡り廊下を抜けるくらい楽勝だろうと楽観的に考えていたせいで、後輩を二人も死なせてしまったことを。
そして校舎に戻るに戻れない状況になってしまったことを。
梶浦は瞼をぎゅっと閉じて窓ガラスから目を逸らすと、健吾の方へ向き直った。
「いえ……。志願したのは僕らです。それにあれはどう考えても想定外でした」
梶浦は涙を剣道着のすそでグイっと拭ってから顔をあげ、まだうなだれている健吾の腕をそっと掴む。
「俺、カッとなって危うく無駄死にするところでした。大喜多さん、ありがとうございました」
だが、健吾は顔を上げずに「すまない」と唱えるようにいうばかりだった。
「失礼します」
兼光は小さく呟くと、職員室の引き戸を開けた。
職員室内はカーテンが締め切られており、蛍光灯は手前の一列だけが点灯していた。
「先生方はここにもいらっしゃらないか……。ご無事だといいが」
兼光は木刀を腰帯に差しなおしてから、備え付けの電話を使って110番を試みた。
「有線電話もだめか……」
受話器からは無愛想な信号音だけが流れている。
何か使えるものはないだろうかと職員室内をしばらく散策していると、部屋の隅で掃除用具入れが突然に音を立てて揺れ動いた。
兼光は再び木刀を引き抜いて構えると、用具入れの側面に隠れながら扉を開け放った。
しかし、そのまましばらく待ってはみたものの、用具入れの中から何者かが飛び出してくる様子はない。
不思議に思った兼光が首を伸ばして中を覗き込むと、その長方形の中にがっちりと食い込んで身動きがとれなくなっている薬師寺満が窮屈そうにもがいていた。
目が合い、二人は互いに肩をビクリと跳ね上げた。
「なぜロッカーに納まっていらっしゃるのですか? 薬師寺先生」
「納まってたんじゃない。挟まってたんだ」
「なるほど」
薬師寺は兼光になんとかひっぱりだしてもらうと、ブルージャージに積もった埃を手で払い、すっかり固まってしまった体をなんとか伸び縮みさせながら答える。
「警察に連絡を取ろうと思ってな。職員室に来たまではよかったが……」
薬師寺はそう言ったあとで急に青ざめて、身震いをする。
「電話をかけようとしたときに、廊下から音がしてな。なんかこう、ジリジリと電気がショートするような音が」
兼光の脳裏にすぐさま過ったのは、獣たちが出現する直前に発生していたあの音だった。
「そしたらあのときと同じ、黒い渦がぐるぐる回ってやがったんだ。俺は急いでロッカーの中に隠れて空気穴からそれを見ていた」
「まさか…でてきたんですか! 犬達が」
「違う。俺が見たのは、ぶっさいくな顔をした緑色の小人たちだ。手にナイフを持った、目のギラついたやつだ……。あとハゲていたぞ」
「なんてことだ……そいつらはどこへ行きましたか!?」
「5,6匹いたと思う。左に、右に、飛び跳ねながら散っていっちまったから、どこへ向かったとも言えない」
化け物が校舎の中に入り込んだという事実を知った兼光の胸の内に、不安が波となって押し寄せる。
部室棟へ向かった健吾たちは無事だろうか、保健室の風町さんたちは、そして多目的教室の200名の生徒たちは、と。
思わず舌打ちをしてしまいそうになったが、人生で一度もしたことのない舌打ちをうまくできる自信がなく、ぎゅっと唇を噛む。
「すみません先生、僕についてきてください! 皆を助けに行きます!」
「わ、わかった」
兼光は腰の木刀に片手を添えて化け物に備えながら、職員室を飛び出していった。
「天羽君、なんてことをしてくれたんだ」
兼光の父、斎藤警官は目の前で霧散していく赤鬼に視線を合わせたまま、震える声で呟いた。
春樹が口の中へと放った3発の銃弾によって、赤鬼の後頭部は吹き飛び、今まさにその体が黒煙となって消えようとしている。
彼は何事も無かったかのように、斎藤の腰に巻いてあるホルスターに拳銃を戻すと、その場にぺたんと座り込んでしまった。
「いや、危なかった。斎藤さんがとどめを刺してくださらなかったら、僕、死んでましたよ」
わざとらしく怯えて見せる春樹をみて、斎藤はすぐにその言葉の意味を察した。
ようするに、今のは斎藤自身が撃ったことにしてくれといっているのだろうと。
斎藤は大きくため息を吐き出すと、頭を掻きながら言う。
「やれやれ、君は本当に肝が据わっているな」
「斎藤さんの方こそ」
内心では斎藤にとっても嬉しい申し出だった。
幸いにも目撃者はいなさそうだったし、このことで彼を逮捕すれば自身の首が容易く飛ぶであろうことは明白だった。
「さて、君には聞きたいことが山ほどあるが、まずは三島さんたちの元へ戻るとしよう」
そういって歩き始める斎藤であったが、春樹がついてくる気配はない。
振り返ると、鬼の消え去った辺りでしゃがみ込んで、何やら拾い集めているようだった。
「どうした? 天羽君」
「いえ、なんでも。―――これ、もっていってあげて下さい。あの人のご家族には必要だと思います」
春樹が差し出した手のひらの上には、爆散してしまった若い警官の物と思われる、わずかな遺骨が乗っていた。
その表面はまだうっすらと血の赤色で艶めいていて、ほんの先ほどまで彼が生きていたこと、そしてその命が潰えたことを思い知らされる。
「……ありがとう」
斎藤はそれをハンカチの上に乗せ換えて丁寧に包むと、額に寄せてしゃがみこんだまましばらく涙をこぼした。