ソロモン72柱②
風邪をひいてしまい、ここ数日更新ができずにおりますが、一話だけでもと上げさせていただきます。
「この……下種、父の体から出ていきなさい……うっ」
美砂は、心の奥底を乱暴にほじくりかえされるような感覚に襲われて膝を折った。
頭の中を駆け巡る過去の記憶。
それと共に湧き上がる殺意と後悔が、彼女の正気を奪おうと、胸の内で暴れはじめた。
風町美砂は、生まれながらにして風町美砂だった。
美しい容姿と、高い知性を兼ね備え、何者にも屈しない。
加えて大病院の娘であり、何に不自由することもない。
誰もが彼女を褒め称え、敬い、羨み、妬み、恐れた。
関わる者に敬意と畏怖を同時に与えるその振る舞いは、まるで神のよう。
しかしその小さな神様は、小学校を卒業すると同時にアルバイトを始める。
その転機が彼女に訪れたのは小学校6年生の時のこと。
「あんた、また苛められてたの?」
美砂は、薄紅色のランドセルを背負いながら、夕暮れの教室の隅で独り横たわっている少年に、慈しみとも呆れとも取れる瞳をむけながらそう呟いた。
「か、風町さんには関係ないでしょ。早く帰りなよ」
少年は飛び散った教科書や文房具をひしゃげたランドセルに拾い集めながら、視線を合わせることもなく床に向かってそう言った。
踏みにじられて折れ曲がったノートをランドセルに押し込もうと苦戦している少年に、美砂が続ける。
「帰るかどうかは私が決めるわ。で、あんたなんで苛められてるの?」
「……」
「質問に答えなさいよ」
夕日に染まっていっそう淡くなった栗色の髪をいじりながら、不機嫌そうに言い放つ美砂。
「……うちはお金ないし、父さんもいないからね。仕方ないよ」
少年はランドセルを拾い上げ、埃を払いながら自嘲気味に笑う。
「私は苛めれている理由を答えなさいと言ったのよ?」
しかし美砂はなおさら不機嫌そうに彼を睨んでいる。
「い、いや、今答えたじゃないか」
少年は美砂の言うことの意味がわからず、首を傾げていた。
「どういうことなの? なんでお金が無かったり、父親がいないと苛められるのよ」
美砂には彼を煽る気持ちなど毛頭ない。
本気でそう疑問に思ったから、そのままそっくり言い放つ。
悪気などは無い。
ただ歯に衣を着せられる器用さを彼女は持ち合わせていないだけだった。
「お家の問題じゃなく、僕が弱いから苛められてるだけだって、そう言いたいんでしょ? もう、それでいいよ」
「……なるほど、凄く納得できたわ」
教室を出ようとしていた彼の歩みがぴたりと止まった。
「でも弱いから苛められているのなら、強くなればいいじゃない」
実のところ、美砂はこの少年を救いたいなどと思い、今日こそはと意を決して声をかけたのだった。
健常な子供が持つ極普通の正義感から、何かできることはないだろうかと思ったのだ。
しかし、そのあまりにも不器用なおせっかいは、彼の逆鱗に触れることとなる。
「うるさい! お前なんかにわかるもんか!! 立派な両親がいて! 何でも買ってもらえて! 家に友達を呼んでも全然恥ずかしくない! そんな奴にっ……!」
人が変わったように凄まじい剣幕で怒鳴り散らす彼の悲哀に満ちた姿に、美砂は生まれて初めて恐怖に似た感情を抱いた。
驚きのあまり固まってしまっている美砂を尻目に、彼はゆっくりと教室の出口へと向かった。
「調子に乗るな……。お前が凄いんじゃない、親が凄いだけだ……」
そう言い残して彼は力ない足取りで廊下を渡っていった。
友人を家に招くこともできず、どこかへ誘われてもお金のかかる場所であれば断らざるを得ない。
隠れるようにして安アパートへと下校し、家では派遣の仕事に疲れた母親のストレスのはけ口となる。
そんな環境に置かれた11歳の少年に、苛められているのはお前のせいだ、胸を張って生きろと、計らずとも美砂はそう言ったのだ。
この時彼女はまだ気づいていなかった。
自分の精神が他人と比べて並はずれて強靭であることに。
そして、一週間の後。
少年は母親の無理心中に巻き込まれる形でこの世を去ることとなった。
彼が死んだのは別に自分のせいではない。
彼を殺したのは彼の母親だ。
一片の罪悪感も有りはしない。
「お前が凄いんじゃない、親が凄いんだ」
胸の中に有るのは馬鹿にされたことに対する怒りと、永遠に言い返すことができない場所へ逃げられてしまったことに対する苛立ちだけだった。
(いいわ。証明してあげる。風町が凄いんじゃなくて、美砂が凄いんだってことを)
そして中学に上がる際、美砂は合格していた名門私立への入学をキャンセルして、公立中学への進学を決める。
さらに、自分の口座にあった小遣いやお年玉の類を全て両親に渡し、それを使って入学の際に必要な経費を支払うよう頼んだ。
元々厳格だった修治は、大した額の小遣いを与えていなかったため、その数万円では入学にかかる費用の半分にも満たないことを伝えると、美砂はなんと三つ指を添えて、両親に深々と頭を下げたのだった。
「足らない分は必ず返すわ。待ってて下さい」
母親は慌てて頭を上げさせようとしたが、修治はそれをいさめると、「分かった。必ずだぞ」とだけ言ったのだった。
何があったのかは知らない。
だが、娘が早くから自立心に芽生えたのだと思った修治は、それがどことなく誇らしく感じられ、勉強させるつもりでやらせてみることにしたのだった。
なにより、あらゆることに対して日頃から非凡な才能を見せる彼女が、どうやってお金を稼ぐ気なのだろうと、興味が絶えなかった。
それからの美砂の行動は異常と呼ぶに相応しかった。
自分の持っている洋服や下着の中からなるべく安価であるものを3セット程度だけ選ぶと、残りは全て古着屋に売り払い、そのお金を両親の前に差し出した。
「これは返済分じゃないわ。父さんたちで好きに使ってしまって」
美砂は食事についても皆と同じものを口にしようとせず、おかずを2品ほど減らすか、質素なものにしてくれと懇願した。
そのうえで、自分に毎月かかっている費用をメモしておいて欲しいとさえ言った。
中学の入学式が終わった後、彼女は真っ先に新聞屋を尋ねた。
中学生でもできる仕事といえば新聞配達だ。
そう考えた彼女は、自分を雇ってもらえないかと店主に相談をした。