純白の狂気⑧
桜たち北組の支援を受けて昇り階段をようやく駆け上がり始めた美砂たち。
「なんであんたが付いて来るのよ」
朱音があっという間に追いついて並走すると、美砂は一瞥することもなく呟いた。
「春ちゃんが目を離すなっていったもん」
「またそれ? あれのどこがいいのよ」
「全部」
「はいはい。ごちそうさま」
美砂はそっけなくそう言うと、長い階段の最後の一段を踏みしめた。
難なく5階までたどり着いた2人。
長細い廊下は薄暗く、人の気配がまるで感じられない。
廊下には食事を運ぶためのワゴンや車椅子が壁に沿ってぽつぽつと置かれており、遠くに見える非常口の明かりだけが際立っていた。
「美砂ちゃんのお父さんの病室は?」
「この先の突き当りを右」
美砂は言うより早く駆けだしていた。
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
薬師寺がやっと階段の踊り場までたどり着いて、駆けだそうとしていた朱音の背中に向けて声を絞り出す。
「先生も早くね!」
朱音は軽く手を振ってからお構いなしに美砂の背中を追いかけ始めた。
「はぁ、はぁ、ちくしょう。若いっていいな」
薬師寺はそう呟くと、階段の手すりに体重を預けながら一段ずつゆっくりと昇り始めた。
「お先にっ!」
朱音は美砂を追い抜いて突き当りの角を曲がろうとしていた。
「なんの勝負よ……」
眉の片方を吊り上げながら呆れていた美砂だったが、曲がり角から伸びている不穏な影に気が付いて朱音の制服の襟を掴んだ。
途端に、朱音の目の前で何かが炸裂して砕け散る。
「な、何!?」
朱音の視線のすぐ先では壁に激突してくの字にひしゃげた車輪が、床の上でおろおろと回っていた。
どうやら何者かが投げつけたのは車椅子だったらしい。
車輪のなくなった座椅子だけが天井まで吹き飛んで、どさりと彼女たちの眼前に落ちてきた。
「ほんと、うざいったら無いわ」
彼女たちが曲がろうとしていた右手の角からぞろぞろと、殺気立った狂人たちが姿を現す。
彼らはまるでICUへの道を閉ざすためにそこで待っていたかのように、狭い廊下に大勢でひしめき合っていた。
「うわっ、またこいつらか!?」
やっと追いついた薬師寺がその数に目を疑う。
20以上はいるだろうか。
美砂たちが後ずさった分だけ、彼らは列を成して歩み寄ってくる。
追いやられて、階段の降り口まで後退してしまったころで、朱音が意を決して呟く。
「美砂ちゃん、一旦下の階に降りよう」
「いやよ……って言いたいけれど、それしかないようね……」
美砂は歯噛みをしながら狂人たちを睨みつけると、踵を返して階段を降りはじめた。
美砂たちが背を向けて走り始めると、狂人たちはうめき声を上げながらそれを追いかけた。
一番最初に4階へと降りた朱音は、どうしたものかと辺りを見回すと、間もなく降りてきた2人の手を取って走り出す。
そして、医師や看護師たちの休憩室と思しき部屋に美砂と薬師寺を押し込むと、自分は廊下に出てから扉を閉めた。
「ちょ、あんた何する気!?」
「おい、三島、開けろ!」
朱音は後ろ手に扉のドアノブを抑え込むと、彼女たちを追って階段をゆらゆらと降りてくる狂人たちを見ながら、ふぅっと息を吐き出した。
「二人とも、少しそこで待ってて。静かになったら5階へ向かってね」
「却下よ、そんな案! いくらあんたでもあんな数どうにもならないでしょ!」
「三島、考え直せ!」
血相を変えてドアを叩く二人。
しかし、朱音は力任せにドアノブを捻ると、ノブを壊して扉が簡単には開かないようにしてしまう。
「あんた死ぬ気?」
「私、分かっちゃった。美砂ちゃんさ……春ちゃんに似てるんだ」
朱音はそういうと、少し悲しそうに微笑む。
美砂はその突拍子もない断定にとても同意はできなかったが、朱音の声色の真剣さに負けて、反論を一瞬保留した。
「なんでもできるし、すごく頭がいいはずなのに、生き方がとっても不器用で……。だからね、放って置けないよ」
朱音は、なぜ自分はいつも美砂のことを助けたいと願ってしまうのか、なぜ美砂の言うことに従順になってしまうのかとずっと考えていた。
先ほどエキドナと戦ったときも、美砂の言うとおりに体が動いてしまっていた。
なにより、ずっと以前から彼女のことが気になって仕方なく、嫌がられながらもついついちょっかいをだしてしまっていた。
美砂は春樹に似ている。
原因はたったそれだけだった。
しかし、彼女が命を懸けるには十分すぎる理由だった。
「いいから開けなさい。あんたなんかにこれ以上借りを作りたくないわ。大体なにそれ、押しつけがましいし迷惑よ!」
扉にむかって声を荒げるも、朱音からの返事は無い。
(誰にも頼らず、頼れずに生きているところもそっくり)
朱音は春樹の不憫な境遇を思い返して、少し胸が痛くなった。
春樹の家庭はとっくに崩壊していて、母親が亡くなってからというもの、父親は酒浸りの日々を送っている。
そのせいか、感情が希薄で自暴自棄になりかけているくせに、いつも人のことを気にしている。
そんな彼のことがたまらなく心配で、愛おしい。
朱音の胸の内は熱くなり、拳を握る手にいっそうの力が籠る。
「さてさて、がんばっちゃいますか……ねっ」
朱音が歯切れよく言うと、通路に押し寄せた狂人たちの一人に拳を突きたてる。
体を突かれた男が後方へと勢いよく転倒すると、他の狂人たちもわっと声を上げて将棋倒しになっていく。
朱音は必死に手足を振ってくる狂人たちをからかうようにしてかわしながら、次々と突き倒していく。
だが彼らは何度倒しても立ち上がり、敵意をむき出しにして襲い掛かってきた。
それもそのはず、朱音は何者かに操られているであろう彼らに本気を出すわけにもいかなかった。
一方で理性を失っている彼らは痛みに鈍感になっており、そのせいか身体の限界を超えた力とタフネスを身に着けていた。
朱音を捉えきれずに空を切った狂人の腕が、壁に激突してあらぬ方向へと曲がった。
これ以上戦えば、彼らの体の方がもたない。
そう判断した朱音は、後方へと大きく飛び退き、背を向けて走り出した。
「ほら、おいで!こっちだよ!捕まえてごらんなさい!フフフ」
眩い笑顔と共に走り去る朱音の後を、狂人たちは一丸となって奇声を上げながら追いかけていった。