純白の狂気⑤
直後、男が突然に美砂を放り出して、悲鳴を上げながら多量の血が噴き出す口元を押さえた。
美砂は口内にあった肉片を、噛み終えたガムの如く地面にベっと吐き出すと、口元の血を拭いながら少しばかり咳込んだ。
「私と間接ベロチューできるなんて、幸せ者ねあんた」
舌先を噛み切られた巨漢の狂人は、悶えながらも殺意に満ちた瞳を彼女に向ける。
美砂は虚勢を張っては見たものの、狂人たちにすっかり囲まれており、次々に伸びてくる魔手を避けることで精一杯になっていた。
何者かに狂わされている彼らを殺すわけにはいかない。
彼女は素手で反撃をしてはみるものの、男たちは少々痛がるばかりですぐにまた跳びかかってくる。
(プチデーモンのジムに入門しておけばよかったかしら……)
美砂は自分の細腕を恨めしく感じながら、忙しく身をよじらせて狂人たちの魔手をかわしていく。
「風町! 今いくぞ!」
汗だくになりながらも、なんとか美砂を見つけた薬師寺が声を張り上げる。
彼女の元へと走る薬師寺の足取りは、威勢とは裏腹にすっかり疲れ切ってしまっていて実に重い。
彼は狂人たちの所までたどり着いた辺りで、ついには膝に両手をついて止まってしまった。
『オトコ 来タ』
『ゴリラ イラナイ』
『臭イシ 殺ス』
狂人たちは露骨に不機嫌そうな顔をして薬師寺を見つめていた。
「ちょ、ちょっと待ってくれ、プリーズウェイト。―――てか臭いってなんだよ!!」
薬師寺は思いついたかのように目の前の狂人を殴り飛ばすと、自分で脇の辺りを嗅いでから眉をしかめた。
直後、薬師寺の胸元へと、巨漢の男が手を伸ばす。
そして彼のブルージャージの上着を掴んで片手で軽々と持ち上げると、床にこれでもかと叩き付けた。
激突した背中を反らせながら悶えている薬師寺を、他の狂人たちも取り囲み始める。
(だから何がしたいのこの馬鹿。でも、チャンスね……)
美砂をしつこく狙ってくる細身の男を除けば、ほとんどの狂人たちの注意が薬師寺に向いていた。
今なら目の前の男を蹴飛ばして階段を駆け上ることができる。
しかし、いくら折り合いの悪い相手とはいえ、坂上に襲われている際に一度は命を助けてくれた人間を見捨てるわけには……と、美砂は決断に迷っていた。
「ひ、ひぃ。やめてくれ、出来心だったんだ」
怯えながら両手をすり合わせて命乞いをしている薬師寺を見て、美砂はなんだか放っておいてもいいような気がしてきていた。
口うるさく真っ向から自分を否定してくるこの無能な教師を、日頃から煙たく思っていたし、もっと言えば死んで欲しいとさえ思っていた。
そもそも、今だって勝手に追いかけてきて勝手に死にかけているだけだ。
放っておこう。
様々な理由を頭の中に並べたあとで、このまま置き去りにすることを決意する。
しかし、いざ走り出そうとするも、彼女の足は頑として言うことを聞かない。
胸の片隅に何かが引っ掛かる。
何かの記憶が足への命令を遮断している。
そんな不確かな感覚が決意を濁していた。
ついに狂人たちは薬師寺の体をひっくり返して手足を押さえると、巨漢の男が馬乗りになって首を絞めはじめていた。
薬師寺は声にならない悲鳴を上げ、押さえつけれられているせいでばたつかせることすらできない手足に必死に力を込めていた。
「ああもう! あんたら、こっちを見なさい」
美砂が突然、ブラウスの前を肌蹴て半裸を晒すと、男たちの注意はあっというまに彼女へと、いや、彼女の胸へと戻っていった。
美砂の目の前にしつこく立ちふさがっていた細身の狂人が拳を握って歓声を上げる。
「はぁ、死にたい気分だわ……。ほら、あんたは早く逃げなさいよ……」
死の淵から救われた薬師寺は、上半身をなんとか起こすと、咳込みながら慌てて息を吸い込んでいた。
やがて彼はほっと胸をなで下ろした後で、険しい表情をつくりながら美砂の半裸にむけて指をさした。
「か、風町貴様ぁ! 神聖な病院でストリップショーとは何事か!」
(ああ……やっぱ放っとけばよかった……)
美砂は額に青すじを走らせながら奥歯をぎりぎりと噛みしめていた。