純白の狂気③
手術室の扉が狂人たちの目の前でピシャリと閉まる。
彼らは手術室の扉をバンバンと叩いて突破を試みていたようだが、なんとか諦めてくれたらしく、その足音が遠ざかるのを確認して薬師寺はほっと安堵した。
手術室には二人を助けた白衣の青年と、若い女性の看護師が一名、患者と思しき中年の男性が二名、それぞれが不安げな表情を浮かべながら美砂と薬師寺を見つめていた。
「傷口を見せて、美砂」
坂上に傷つけられた下腹を押さえていた美砂の手は真っ赤に染まっていた。
美砂が白衣の青年に言われるままに手をどかすと、彼は傷口にペンライトを当て、指で広げたりしながら観察していた。
「真皮を貫通しているけど、主要な血管や臓器に損傷はなさそうだね。傷口も小さいから出血も少な目で助かる。取りあえず縫っておこうか」
診察の間、美砂は妙に大人しく、痛みに耐えながらされるがままになっていた。
「すみません、薬師寺先生。不肖の妹がまたご迷惑をおかけしているようで」
青年は縫合の準備を進めながらも、薬師寺に向けてぺこりと頭を下げて困ったように微笑んだ。
彼の名前は風町大智。
美砂の兄だった。
「兄さんとヤクマンって知り合いだったの?」
美砂が訝しげな瞳を薬師寺に向ける。
「最近まで通院してたんだよ。ここに」
薬師寺はなにやら目を泳がせながらそう答えた。
「美砂、先生に対して失礼な口を訊くな」
おそらく『ヤクマン』という呼称に対しての叱咤だろう。
美砂は珍しくも反抗する風ではなく、再び視線と肩を落とした。
大智は看護師から注射器を受け取ると、ピストンを少しだけ押し上げて針の先端から麻酔薬を飛ばした。
「ほら、ベッドに横になって」
大智が促すも美砂はそれに応じず、少々考え込んだあとで、意を決したようにIFを立ち上げる。
「兄さんに見てほしいものがあるの」
美砂はアイテム欄からポーションをタッチして取り出すと、その瓶の蓋を開けて指先につけた赤い液体を自分の下腹の傷口に塗って見せた。
あっという間に塞がってしまった傷口を、大智はしゃがみ込んで目を丸くしながらしばらく眺めていた。
看護師や患者たちからも感嘆の声が上がる。
「これがあれはきっと父さんを助けられると思うの。これね、飲むと臓器の損傷もすぐに治るって――――」
懸命に説明をする美砂だったが、大智はそれを無視して腰を上げると、薬師寺の方へ歩み寄った。
「薬師寺先生、院内の様子はどうなっていましたか?」
「ひどい有様でしたよ。凶器を持った人たちに襲われました。一体ここで何があったんです?」
「僕もよく理解しているわけではありませんが――――」
大智と薬師寺が話し込み始めると、美沙は焦れて二人の間に割ってはいる。
「ねえ、兄さん、そんなことより父さんは今どうなってるの!?」
美砂がそう叫ぶと、大智は彼女の胸倉を掴みあげてから頬に平手を打ち付けた。
「美砂。お前は黙っていろ。少しは恥を知れ」
風町大智は兄とはいえ、美砂とは10も年が離れていて、どちらかと言えば30歳の薬師寺と年が近い。
医師としてはまだ未熟ではあったが、父、修二が不在の院内をまとめるために日々の研鑽と苦労を惜しまなかった彼にはそれなりの迫力があった。
院内では多数の患者やスタッフたちが危険な状態にあるかもしれないこの状況で、身内を助けることだけに執心している美砂のことが、大智は残念でならなかった。
何より、手傷を負いながらもこの手術室に避難してきている他の患者がいる目の前で、身内贔屓な姿勢を見せれられるはずもない。
頬を押さえて茫然としている妹に一瞥をくれることもなく、大智は話を続けた。
「3時間ほど前のことです――――」
大智の話によると、医師たちは昨晩からずっと怪我人の処置に追われていたようだ。
ある者は自動車の玉突き事故によって損傷した体を引きずり、またある者は大型の野生動物に襲われたかのような惨たらしい傷を負いながらも、この病院に徒歩で助けを求めて来ていた。
そして、外から来る人々の誰もが、異形の魔物ついて恐怖に震えながら訴えるようにして語った。
大智は次々と運ばれてくる患者の処置に集中しながらも話半分で聞いていたが、自分の手に巻かれた黒い腕輪のことも含めて、常識では測れないことが起こっているであろうことは察していた。
結局、怯える患者の申し出を受けて玄関口の自動ドアを閉め切ることにした。
そして、今一緒にいる若い看護師に、表から誰かが来たときだけ自動ドアを手動で開けるように指示しておいたらしい。
「そのとき、僕はずっとここで治療をしていたので、ことの発端はわかりませんが」
大智が若い看護師に視線を向けると、彼女はおずおずと口を開いた。
「お昼前に、二十歳くらいの男性の患者さんが来たんです。なんだか目が虚ろで、こう、放心状態でふらつきながら。私が自動ドアを開けて中に招き入れると、急に床に倒れ込んでしまって……。駆け付けた坂上婦長が彼を介抱しているうちに、患者の体から黒い煙がでてきて、その煙が鳥のような形に変わったんです」
その黒鳥がクジャクのように長い尾を広げると、坂上をはじめとする受付ロビーにいた人間のほとんどが急に発狂し始めたらしい。
「それからはもう、わけがわかりませんでした。突然患者同士で殴り合いの喧嘩を始めたり、事務の人たちが手に持っていたボールペンを看護師に突き立てたり……」
彼女はすぐに、手術室にいる大智の元へそれを伝えるべく駆けだしたため、後のことは知らない。
続きは患者の中年男性二人が語った。
「私らは3階の病棟から命からがら逃げてきましてね、風町先生に助けられてここに立てこもりました」
彼らは3階の病室でIFをいじりながら『改変』について3人で話をしていたそうだったが、扉の隙間から黒い鳥の羽が一枚すべりこんできたかと思った直後に、その内の一人が突然発狂し始めたため、病室を飛び出したそうだ。
エレベーターまでたどり着いた彼らだったが、誰かの無残な遺体が自動ドアに挟まれており、ドアはとめどなく開閉を繰り返していた。
彼らは恐怖で震える足に鞭を打ちつつ、階段を使って一階へと降りる。
その過程で彼らは見た。
狂人たちが正気の人々を襲い、殺し、その遺体をなおも刻んでいた地獄のような光景を。
「多分その黒い鳥、いや、魔物が引き起こしているんでしょうね」
薬師寺が険しい顔をしながらそう呟くと、大智たちはごくりと唾を飲み込んだ。
「魔物……。外からここへ来た患者さんたちが同じことを言っていましたが、薬師寺先生もそれを見てきたのですか?」
大智はまだ半信半疑だった。
魔物などという馬鹿げたものが本当に出現しているとは、やはりにわかには信じ難い。
「ええ。見てきたどころか、沢山やっつけながらここまできました。妹さんが持っているその薬は倒した魔物が落としたものだと思います」
薬師寺の言葉に反応して、目を伏せたままの美砂が少しだけ頷く。
いつもの勝気な様子もなく、それこそ叱られた幼子のように項垂れている美砂を見て、薬師寺はいたたまれない気持ちになった。