風町美砂の焦燥④ エキドナ
美砂のただならぬ様子に、つられて朱音もエキドナに視線を合わせる。
そしてやっとその異変に気が付いて、思わず声を上げた。
「傷が、治ってる!?」
美砂が抉ったはずの背中と腹部が、まるでジャージのチャックでも締めるかのように、あっという間に塞がってしまっていた。
「どういうことなのよ……そうだ。あんた、ちょっと殴ってきてみなさいよ」
「うん、わかった!」
朱音は元気よく返事をすると、地面を蹴って飛び出した。
エキドナの腹から下の蛇の部分が朱音の接近を拒むように暴れまわっていたが、朱音はそれを器用に避け続け、あっという間に懐に潜り込む。
その動きは既に人間の限界を超越しており、朱音がエキドナの眼前でぴたりと止まった時に、やっと残像がそれに重なった。
(なんて動きするのよ……)
これにはさすがの美砂も舌を巻いた。
三島朱音、現在レベル5。
ステータスの割り振りは、腕力に4、脚力に8。
右腕にはめた赤鬼の銀輪の効果を含めると、腕力は合計で33%も上昇していた。
加えて、彼女は既に転職済み。
50以上はあろうかという職業の中から彼女が迷うことなく選んだのは『闘士』だった。
これによって彼女の身体能力には、腕力30%、耐力10%、脚力30%の職業ボーナスが付いている。
その彼女が渾身の力を込めてエキドナの腹部に正拳突きを放つ。
低く、重厚な衝撃が、エキドナの体をくの字に折り曲げる。
さらに朱音は飛び上がりながら顎に左の膝蹴りを突き刺すと、跳ね上がった顔面に手を衝いてくると回り、間髪入れず右の膝をその頬に捻じ込んだ。
とどめとばかりに、両足でエキドナの頭を力いっぱいに蹴り飛ばすと、その反動を利用して元いた場所に着地してしまった。
「や、やりすぎたかな」
エキドナの首は完全に折れ曲がり、支えを失った頭が右に傾いてぶら下がっていた。
初撃の正拳突きのせいでみぞおちの辺りは不自然にへこんでおり、これが人間であれば完全に臓腑が潰れてしまっていることだろう。
エキドナの体が黒煙となって消えることを期待して二人が、いや、物陰からその様子を覗っている桜も含めた3人が固唾を飲みこむ。
しかし、エキドナはそのにこやかな微笑みを絶やすことなく、ぐらつく頭を両手でつかんで力任せに持ち上げる。
そしてしばらくそのままの体勢で頭を固定しているうちに、先ほどと同じく、あらゆる損傷が何事もなかったかのように元に戻ってしまった。
「き、気持ち悪いよぅ」
朱音は頬をひきつらせながら声を震わせた。
そうしているうちにエキドナは長い下半身を体の周りに集めて、地面にとぐろを巻き始める。
次の瞬間、エキドナはそのとぐろをばねのように一気に伸ばして天高く舞い上がった。
層雲に滲む太陽を背にしながら落下してきたエキドナは、着地の直前にぐるりと回転して、その尾を美砂目がけて振り下ろした。
間一髪、飛び退いてそれをかわした美砂だったが、飛び散ったアスファルトの破片が腕や足をかすめ、その柔肌を切り裂いた。
「美砂ちゃん!」
「うろたえないで! かすり傷よ!」
絶え間なく血液の流れ出す右肩を、美砂は力を込めて圧迫しながら叫ぶ。
「美砂ちゃん、逃げよう!」
「あんた一人で逃げなさいよ。私はどうしてもこいつを殺らないといけないのよ……」
「でも、いくら攻撃しても効かないよ!?」
朱音の言うとおりだった。
背や腹を裂かれようと、首が折れようとエキドナは死なない。
加えて先ほどの落下攻撃の威力は、赤鬼の一撃にも匹敵しかねない。
朱音は美砂を強引にでも連れて逃げるしかないと考え始めていた。
しかし、そのとき美砂はエキドナが落下して抉った地面をみつめながらはっと顔を上げた。
どうやら何かの打開策を見つけたらしい美沙が再び構えて言う。
「ふぅん、そういうことだったのね……。プチデーモン! もう一回よ!」
「あ、はい! いきます!」
朱音はなぜか美砂の言うことに反抗できない自分自身に疑問を抱きつつも、言われるがまま突撃を開始する。
同時に朱音とは別の方向へと回りこもうとする美砂。
エキドナはどうやら手負いの美砂に狙いを定めたらしく、彼女を狙って尾を振り回した。
美砂はそれを苦しくも紙一重でかわしながら何かしらの目的をもって一直線に駆け抜ける。
この隙に難なく背後に回り込んだ朱音は、深々と腰を落として上体を捻じりこむと、がら空きの脇腹目がけて肘打ちを放つ。
その衝撃にエキドナの上半身が再びあらぬ方向へと折れ曲がる。
が、それもつかの間。
その脇腹はやはり、瞬く間に再生を始めてしまう。
「だめ! やっぱりすぐに回復しちゃう!」
朱音は自分の最も得意とする打撃である肘打ちが効かなかったことにひどく困惑していた。
「いいえ。もういいわ。もう、終わってる」
そう呟いた美砂の両手には、先ほどまで地面に刺さっていたエキドナの鉾が握られており、そしてそれはエキドナの尾の中腹を串刺しにしていたのだった。
美砂は二つのことに気付いていた。
一つは、最初に吹き飛ばされたときに包丁で傷つけた尾の裂け目だけが再生されていなかったこと。急降下攻撃によって抉られたアスファルトに、尾から流れる黒い血液の跡がくっきりと残っていたのを美砂は見逃さず、これが気づきを促した。
もう一つは、常にうねっていた尾が、回復中だけは動いていなかったということ。
つまるところ、エキドナの急所は尾の方にあり、人の形をしている部分はハリボテのようなものだった。
ただし、激しくうねる尾を攻撃するためには、上半身を破壊して動きを止める必要があった。
上半身の破壊を朱音が成し、回復中の硬直を狙って美砂の鉾が尾を貫き、地面に釘付けにしたのだ。
このとき初めて、エキドナの貼り付けたような不気味な微笑みが苦痛に歪んだ。
美しかったその顔が、やっと魔物らしい醜悪さを帯びる。
「あら、そっちの顔の方が……素敵……よっ!」
エキドナは尾に刺さった鉾から逃れようと暴れまわるが、美砂は両手で掴んだ鉾に全体重をかけてそれを阻止していた。
その尾から噴水のように溢れ出す黒い血液が美砂の制服や顔を汚していく一方で、彼女自身の右腕の傷口からも真っ赤な血液が飛沫を上げていた。
手負いの美砂の表情もまた、苦痛に歪む。
(誤算だったわ。なんて力なの……)
暴れまわる尾をついには抑えきれなくなりかけたその時だった。
誰かの手がその鉾に添えられる。
美砂は隣で精一杯に微笑む桜を見て一瞬固まってしまっていたが、すぐに気を取り直して「全力よ、これでもかというほど力を込めなさい」とだけ呟く。
桜は嬉しそうに返事をすると、鉾を掴んだ両の腕に力を込める。
いや、実際に「これでもかぁ」と声に出しているのが、美砂には少しだけ可笑しかった。