暴走
「天羽……君?」
振り返った春樹の紅い瞳が未だに放ち続ける殺気に気圧されて立ち止まる麻衣。
「お、おい、まさか……」
春樹が一歩ずつ彼らに歩み寄る度に、踏みしだかれたアスファルトが悲鳴を上げて砕け散っていく。
そして達也の目の前でぴたりと止まると、その右腕を振りかぶる。
「うそ……だよな?」
圧倒的な死の恐怖。
あの尖った指先がほんの少し体をかすめるだけで、いや、かすめなくても死に至るかもしれない。
達也はただ、瞼を閉じて祈っていた。
「やめて、天羽君!」
麻衣が左腕に抱きつくようにして春樹を止める。
ゆっくりとそちらを振り返った春樹の唇が、何かを訴えるべく小さく震えていた。
「にげ……ろ」
「え!?」
「制御……できないんだ……早く―――」
春樹の片目だけがいつもの瞳に戻っていた。
「―――早く俺から離れろ!!」
その絶叫と共に達也に向かって鬼の拳が、望まぬ一撃が振り下ろされようとしていた。
『60秒経過 セッキヲ 解除 シマス』
にわかにアラームのような音が春樹のIFから鳴り響くと、彼の体はあっというまに元の姿に戻ってしまった。
手を振り上げたまま固まってしまっていた春樹。
「……すまない、大丈夫だった」
「お、おう……」
「う、うん……よかったね、天羽君」
春樹は腕の代わりに顔を赤くして目を伏せていた。
「脅かすなよな……心臓飛び出るかと思ったぞ」
達也が浅く呼吸をしながら恨めしそうに春樹を睨んだ。
「すまない、制御できなかったのは本当なんだ」
春樹は赤鬼化してしまっていた右手を何度か握ったり広げたりして、それが自分の意思の通りに動作することを確認して安堵した。
「天羽君、さっきは助けてくれてありがとう。私のせいで危険な目に合わせてごめんなさい」
麻衣は泣き出してしまいそうな顔をしながら申し訳なさそうにそう言う。
春樹は「いや。鷹野さんたちが無事でよかった」と応えた後で、周囲の惨状を見渡して付け加える。
「けど、たくさん死んだ……」
辺りには誰の物ともわからない臓腑や肉片が散乱していて、ぶちまけられた血液と糞尿が混ざりあい、脳髄を揺さぶるような悪臭が漂っていた。
「皆。ごめんな、助けてやれなかった……」
達也は、取り巻きたちの着ていたであろう穴だらけの制服を見つけると、その傍らに膝をついて手を合わせる代わりに拳を握って項垂れていた。
声をかけようとする麻衣を春樹が引き留めて首を振る。
ぽつぽつと降り出した雨は、静かに彼らの頬を伝っていった。
(雨か。助かる……)
春樹は心の中でそう呟いた。
死の淵に立っても恐怖することもなく。
悲しいという思いはあっても、涙が流れることはない。
恐れも悲しみも、全てがハリボテで、白々しくて、後ろめたい。
そんな後ろめたさを雨が覆い隠してくれたことに感謝をしている自分がまた、後ろめたい。
どうやらナイアーラトテップから逃げ延びた生徒たちが集まっている公園があるらしいことを聞いた春樹たちは、やっと顔を上げて立ち上がる。
「なあ天羽。俺さ、絶対にこのゲームをクリアして、あいつらとまた一緒にサッカーやるよ」
達也はそう言って、頬を拭って無理やりに微笑んでみせた。
「そうだな。クリアすれば全部元通りさ。でも、その言い方は死亡フラグっぽいからやめてくれ」
春樹がそう言って茶化すと、達也はいつも仏頂面の春樹も冗談をいうことがあるのかと、思わず吹きだしてしまった。
「まあ、万が一俺が死んでも、天羽先生がクリアしてくれるっしょ」
「先生呼びは勘弁してくれ」
「てかよ天羽先生、あの化け物を倒した力、なんだったんだよ? ああいうことが、俺たちにもできるのか?」
さっきまで泣いていた達也が、今度は興味深そうに瞳を輝かせて訊いてくる。
春樹が困ったように頬を掻いていると、麻衣も横からそれに便乗する。
「天羽君、私にも教えて。私も、一緒に戦えるようになりたいの」
こちらの愛らしくも真剣な眼差しには、好奇心が含まれていなさそうなだけに分が悪い。
春樹は観念したようにため息を吐き出すと、少し歩いてから蹲った。
「その前に……、ほらっ」
春樹が拾い上げて達也に投げてよこしたのは、一振りの剣だった。
「重っ! ちょ、これもしかして本物か?」
達也は鞘から少しだけ剣を引き抜くと、その刃に映る自分の顔をまじまじと眺めた。
「多分ね。一旦アイテムとして収納して確認してみてくれ」
達也は言われた通りにIFを立ち上げて収納し、アイテム欄に出ていた見慣れない黄色の文字に指で触れた。