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ガルムと赤鬼②

――――――――――――



「かっはっ……!」



 三島朱音の体が、工事現場のフェンスにめり込んでいく。


 何が起こったのかは吹き飛ばされる直前に見えていた。


 片目を潰された鬼の闇雲に振り回した手の甲が朱音の脇腹にあたったのだ。


 正確には中指の先がかすっただけだったが、彼女の小柄な体は凄まじい勢いで吹き飛び、背後のフェンスを捻じ曲げるほどに打ち付けられた。



 (い、息が……)



 体が自分の意志とは無関係に呼吸をすることを拒否する。


 鬼は依然として片目を押さえながら呻いていたが、どう考えてもダメージが深刻なのは朱音の方だった。


 全身をフェンスに打ち付けられた衝撃によって未だ痛覚の戻らない脇腹の辺りを軽く撫でてみると、いつもと違うでこぼことした感触が伝わってくる。


 あばら骨に有るはずの無い関節が、無数に増えているような。

 


 (だめだ、ぐしゃぐしゃだ。動けないや)



 そうしているうちに、歯を食いしばりながら上体を戻した鬼が、憎悪と憤怒に満ちた視線を朱音に向けていた。


 鬼はゆっくりと立ち上がると、朱音の頭へと手を伸ばす。



「まあいっか……あとは任せて寝てようっと……」



 朱音は唇の端を少しだけ釣り上げて微笑むと、そっと瞳を閉じてしまった。


 鬼の、人の腕ほどもあろうかという指先が朱音の頭を掴もうとした時だった。


 激しいエンジン音と共に、一台のトラックが鬼の側面めがけて突っ込み、まとめてフェンスの奥へと吹っ飛んでいってしまった。



 (わ、私まで殺す気ですか……)



 朱音が、歯をカタカタと鳴らしながら心の中で抗議する。


 ぽっかりと空いてしまったフェンスの奥から、激しい衝突音が繰り返し聞こえてくる。



 春樹だった。


 春樹は組み立て途中のマンションの鉄骨に押し付けた鬼を、トラックを前後に動かして執拗に轢いていた。


 繰り返される衝突の度に、鉄骨が軋み、マンション全体が今にも倒壊してしまいそうなほどに揺れ動いていた。


 春樹はトラックをひときわ大きく下げると、力いっぱいにアクセルを踏み込んで、とどめとばかりに突っ込んでいった。


 とっくに飛び出していたエアバッグをめんどくさそうに押しのけながらトラックを降りた春樹は、ぐったりと横たわる鬼の瞳孔が開ききっているのを確認して、安堵のため息を長めに吐き出す。



「ごめん朱音、遅くなった。大丈夫か?」



 抉れたフェンスの淵に手をかけて、春樹が朱音の顔を覗き込む。



「死ぬかと思った」


「怖かったか?」


「うん……。主にトラックが」


「……」


「でもありがと」


「いいさ。今運ぶからな」



 春樹が腕を回してその体を抱きかかえようとすると、彼女は激痛に顔をしかめた。


 春樹は驚いてすぐに腕を引き抜くと、朱音のブラウスをまくり上げて青ざめた。



「ひどい怪我だな……」



 その脇腹は真っ青にうっ血し、まるで中に石でも詰められているかのように、砕けた肋骨の凹凸が、呼吸に合わせてうごめいていた。


 緊張が解けた朱音は、同時にもどってきた痛覚のせいで息を荒くして額に大量の汗をかいていた。



(早く手当しないといけないってのに、これじぁゃあ動かせない)



 春樹は朱音の頬に手のひらを当てて、その悲痛な表情をじっと眺めながら考えを巡らせていた。


 病院がこの状況でまともに機能しているのかは相当に怪しい。


 そもそも電話が使えなくなっているため、救急車も呼ぶことができない。


 となると、まずは安全な建物の中へと運び込むことが先決だったが、この怪我では迂闊に動かすことができない。


 尽くせる手が見つからず、人手を探してあたりを見やるが、建物の窓から様子をうかがっている住民たちは、目が合うとすぐにカーテンを閉めて姿を消してしまう。



「お姉ちゃん!」



 声の主は先ほど朱音が助けた少年だった。


 彼は駆け寄って朱音の側にしゃがみこむと、心配そうにその顔を覗いていた。



「お、おい。君、避難していなかったのか? お母さんは?」



 この状況下で、また独りになってしまったのではないだろうかと心配し、春樹が尋ねる。



「お母さん! 早く! こっちだよ!」



 少年は春樹の問いかけに答える代わりに、振り返って誰かに手を振り始めた。


 遠くから息を切らせながら駆けてくる少年の母親。


 それと、制服に身を包んだ警官が二人。


 手に持った拳銃の銃口を下げてあたりを警戒しながら母親に付き添って走っていた。



「お母さんと一緒にお巡りさん探してたんだ」



 少年はそう呟くと、朱音の方へ視線を戻した。



「君たち! 無事か!」



 年配の警官が声をかける。



「僕は大丈夫です。けど、この子が脇腹に重傷を抱えています。本当は病院に運びたいのですが、この状況では……」



 置き去りにされた無数の自動車が道路上で列をなしていた。


 春樹が拝借したトラックもその一つ。


 鬼が吹き飛ばしたスペースを除いては、道路のほとんどが立ち往生した自動車で埋め尽くされている。


 警官たちも搬送が不可能であることは十分に理解していた。


 町の混乱ぶりは尋常ではない。


 あの「声」の後、派出所に詰めかけた人々が口々に訴える「化け物」という言葉に対して、半信半疑ながらも飛び出した彼らは、それを探して町を駆け回っていた。


 自動車が突っ込み煙の上がるコンビニエンスストア、なぎ倒された電柱、駅に詰めかけて将棋倒しになっていた人々。


 警官たちは全く状況を掴めずに奔走していたところに「女子高生が化け物に襲われている」と親子が必死に訴えかけてきたのだった。



「病院までとは言いません。まずは安全な場所へ運びたいと思います。手を貸していただけますか?」



 春樹にそう請われた年配の警官は、思案を中断して向き直る。



「わかった。少し待っていてくれ」



 警官は辺りを見回し、近くにあった衣料品店へと駆け込むと、そこから大き目のコートを二枚ほど持ち出してきた。

 

 そしてそれを朱音の上半身と下半身にそれぞれ潜り込ませると、片側からそれを掴み、春樹たちに目で合図を送った。


 なるほど、タンカの代わりなのだと察して、春樹もそれに応える。



「せーの! よし、いいぞ。あそこを借りよう」



 年配の警官が顎でしゃくりあげた先には、重厚な煉瓦造りの美容室があった。


 店内はすっかり人の気配がなくなっている。


 春樹と警官二人、少年の母親を含めた四人がコートの端をそれぞれ掴み、揺らさぬようにそろりそろりと朱音を運んだ。


 そして割れたガラス戸をまたいで店内に入ると、奥にあった休憩室らしき部屋にゆっくりと朱音を降ろした。


 朱音は激痛と闘いながらもなんとか微笑んで、ありがとうと小さく呟いた。



「ふぅ、これでよし。お前さんは周囲の警戒にあたってくれ」



 年配の警官の指示どおり、若い警官は足早に表通りへと駆けて行った。



「こんなときにすまないが、名前を聞いてもいいかな」


「天羽春樹。高徳高校の二年生です。この子は三島朱音、同級生です」


「ほぅ、君たちも高徳高校なのか」


「も?」


「おっとすまない、私は斎藤というんだ。息子もあそこに通っていてね」


「ひょっとして兼光先輩ですか?生徒会長の」


「おお、知っていたかね」


「知らない人の方が少ないと思いますよ」


「そうかそうか!」



 斎藤警官は嬉しそうに声を上げたあとで、自らの不謹慎に気が付いて、ばつが悪そうに咳払いをした。



「斎藤さん、この町は一体どうなってるんですか?」


「見ての通りさ。見ての通り以上のことは私たちも何も掴んでいないんだ」


「そうですか……」


「ところで、君は化け物を見たかね?」


「見たというか……。トラックで轢き殺しました。無免許なのに、すみません」



 斎藤警官は目を剥いて驚いたあとで思わず吹き出しそうになっていた。


 朱音の様子を心配そうに見守る親子が彼に白い目を向けると、再び咳払いをした後で真剣な顔を作り直す。



「そうか、ではその轢き殺された化け物を見ておきたいんだが」


「向かいの建設中のマンションの付け根に転がっているはずです」


「よし、少しみてくるとしよう。君たちは何とかレスキューに連絡がとれないか試してみてくれ」



 そう告げて斎藤警官が部屋から出ようとしたときだった。

 

 突如鳴り響いた銃声に血相を変えて斎藤が飛び出す。


 春樹もまさかと思いその後を追ってみると、あの鬼が工事現場の入り口で若い警官と対峙していたのだった。



「ばかな、こんな奴が本当に……。おい! 一旦下がれ!」



 斎藤警官が若い警官の背中に向かって声を張り上げる。



「銃が、銃が効かない!?」


 

 若い警官が放った銃弾は鬼の腹部へめり込んだ後で、力なく地面に落ちていった。


 彼は必死に引き金を引くが、回転式拳銃の5発の弾倉はあっという間に空になってしまっていた。


 鬼は咆哮を上げながら、自らを轢いたトラックを掴んで高々と頭上に持ち上げると、茫然と立ち尽くす若い警官に向かって力いっぱいにそれを投げつけた。


 いや、投げつけたなどという生易しいものではなかった。


 凄まじいスピードで「発射」されたトラックは、地面に激突すると同時に手榴弾の如く粉々に砕け散り、飛び散った部品が付近の建物の壁にめり込んでいった。


 激突の瞬間、春樹は斎藤警官に頭を押し込められ地面に伏せていたが、目の前に転がった人間の手首を目の当たりにして青ざめる。


 若い警官が立っていた辺りには、何かの肉片が混ざった赤黒い染みが広がるばかりで、人の形を成すものはもはや存在していなかった。



「畜生が!」



 斎藤は跳ね起きると、一台のセダンを盾に銃を構える。


 鬼は工事現場のフェンスを抜けると、ゆっくりと車道の中央へと歩き始めていた。


 二発の銃声が鳴り響く。


 斎藤が放った銃弾は鬼の頭を捕えたかに見えたが、その皮膚に触れるや否や力を失い、鬼の足元で乾いた音を立てた。



「どうなってやがるんだこれは……」



 斎藤の顔色が変わる。

 

 そして鬼はおかまいなしに車道の中央へと進むと、手を着いて四つんばいになり、地面にへばりついている肉片を舐めはじめる。



「狂ってやがるぜこいつは……」



 鬼は笑っていた。


 血だまりに顔を埋めながらにんまりと頬を釣り上げて。


 そしてさらに驚くべきことには、潰れていたはずの左目がぐるりと回転しながら再生したのだった。

 

 鬼はやがてゆっくりと立ち上がると、舌なめずりをしながら斎藤たちの方を凝視した。



「くそう!! 逃げるぞ天羽君!」



 斎藤が足元に伏せているはずの春樹へ向かって声をかけるが、彼の姿は既にそこには無かった。



「っておい、何してる! 戻るんだ!」



 春樹はふらふらと鬼の前へと進み出ていく。


 斎藤の制止の声が届いていないのか、彼の歩みは一向に止まる様子が無い。


 むしろ段々と大きく、力強く、地面を踏みしめていく。



「……多分、僕は知っていたんです。ひょっとするとあの鬼が生きてるかもしれないということを。いや、感じていたというべきかな」



 春樹は思い返していた。


 3tトラックであれだけ激しく何度もぶつかったというのに、自分に跳ね返ってくる反動はどこかふわついていて、しっくりとこなかった。


 何より、エアバッグがあったとはいえ自分が傷一つ無く済んだことにずっと違和感を感じていたのだった。


 だが、そんな推論よりももっと確かな、言い知れぬ確信が彼の中に沸きあがり始めていた。


 そしてとうとう、その確信は声となって彼の口から小さく漏れだす。



赤鬼せっきがあの程度で死ぬわけがないだろう』



 青ざめる斎藤をよそに、春樹は鬼の眼前に堂々と立ちふさがってしまった。



「死ぬ気か! 早く離れろぉお!」



 斎藤が必死に叫ぶが、春樹は頑として動かない。


 ついに鬼はその腕を振り上げて両手を合わせて握りしめる。



「離れるなんてとんでもない。この位置がいいんじゃないですか。うん、とても良いと思います」



 薄暗くなり始めた周囲を照らす街灯を見上げながら目を細めて呟く。


 斎藤は春樹が恐怖でどうにかなってしまったのだと思い、助けるべく飛び出そうとしていた。


 そこへ、ついに鬼の両腕が振り下ろされる。


 間に合わない。


 斎藤が覚悟をしたその時だった。


 眩い閃光がが放たれると同時に、鬼は体から煙を立ち上らせながら上体を大きく仰け反らせていた。



『赤鬼は電撃に弱い』



 春樹は後方に飛び退きながらそう呟いていた。


 鬼の足元では、切断された電線がバチバチと炸裂音を放ちながら踊るようにのた打ち回っていた。


 鬼は自らが切り倒した電柱から伸びる高圧電線を、その腕から伸びる鋭利なヒレで切断してしまったのだった。


 直後、周囲の街灯は軒並み消え失せ、辺りを夕闇が包み込む。



『金属武器による攻撃は無効だが、素手による打撃には弱い』



 春樹はまた呟いて、大の字になって倒れている鬼の腹の上を蹴って飛び上がると、そのまま膝から顔面めがけて落下した。


 春樹が鬼の顔面に埋まった膝をゆっくりと持ち上げると、鬼の鼻はひしゃげ、その歯は前歯を中心に5、6本が抜け落ちていた。


 春樹の黒い学生服の膝から、そのシルエットが零れ落ちるかのように、ぼたぼたと黒い血液が垂れ下がっていた。


 彼はより醜くなった鬼の顔を眺めてクスリと笑ったあとで、斎藤のほうへと向きなおった。



「すみません、斎藤さん。もう大丈夫なのでちょっとこちらへ来てもらえますか?」


「あ、ああ……」



 たった一人の少年が巨大な鬼を圧倒する様に完全に目を奪われていた斎藤は、乾いた口をうっすらと開いたまま言われるとおりに前に出る。



「し、死んでるのか?」



 白目を剥いてピクリとも動かなくなった鬼の顔を覗きこむ斎藤。


 その体のあちこちからは焦げ臭い香りが立ち昇っており、折れた前歯が鬼のベロの上に転がっていた。



「いえ、多分まだ生きてます」



 斎藤が驚いて春樹の方へ振り返る。


 直後、斎藤はさらに目を丸くするはめとなる。


 なんと春樹は斎藤の腰から抜いた回転式拳銃を、ぽっかりと空いた鬼の前歯の隙間にねじ込んで構えていた。



「な!?」



 斎藤が驚愕の声を上げると同時に、突然鬼の黒目がぐるりと回って二人の方を睨んだ。


 鬼は横たわったまま、最後の抵抗とばかりに二人を叩き潰すべく、掌を広げていた。



『金属武器が無効なのは、体表のみ』



 春樹は振り降ろされる鬼の掌に一瞥することもなく、口内にねじ込んだ拳銃の引き金を引く。



 3発の銃声の後で、太陽の最後の一滴が地平線へと沈んでいった。

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